第3話 異界調査員
青凪町――潮の匂いと古い石畳が残る、小さな港町。
表向きはいつも通りの穏やかな風景だが、海沿いの防波堤には黄色い規制線が張られ、夜には作業灯が白く点滅していた。
町の人は「漁場の調査だ」「物流トラブルだ」と口にする。
だが、その割に海には“民間”と書かれた黒い調査車両が増え、自衛隊員と肩を並べて歩くスーツ姿の人間もいた。
何をしているのかは誰も知らない。
ただ青凪町は確実に、何かを隠していた。
放課後、澪は教室から出ようとしたところで、理科教師の南部に呼び止められた。
「澪。少しだけ話、いいかな」
「はい?」
南部は珍しく言葉を選ぶように眉を寄せた。
「今日、この学校に大手商社の調査チームが来ていてね。君の家のことを少し聞きたいそうだ」
「家の、こと・・・ですか?」
「正確には、お父さんの“勤務記録”だそうだ」
胸がわずかに冷える。
澪の父――早瀬奏。
澪が小学生の頃に亡くなった。
表向きの死因は“海上事故”。
「でも、父はその普通の漁師だったはずで」
「あぁ、そう聞いている。ただ、今日来た人たちは“民間の海洋調査部門”だと言っていたよ」
その瞬間。
澪は南部の言葉より、職員室の奥で立っていた見知らぬ“スーツの女”の視線が気になった。
こちらを見るでもなく、しかし“観察している”気配だけがじっと肌に刺さった。
しかし、結局は澪本人に何も話を聞かないまま、スーツの女を含む海洋調査部門と名乗った数人は学校から去って行った。
家に帰る途中の海沿いの道。
防波堤の向こうで、調査船の甲板にスーツの人々が乗り込んでいく。
その側面には黒いロゴがあった。
五星商事。
大手商社の名前。
海洋、資源、物流、開発――あらゆる部門を持つ巨大企業。
だが青凪町に来る理由など、普通はないはずだ。
潮風に混ざって、誰かの会話が聞こえた。
「五星の“異界部門”が動いたってことは、本物らしいな」
「空のクジラ。本当に異世界との“境界”が揺れてるのか」
異界部門。
聞いたことのない部署名に、澪は思わず足を止めた。
「(海洋調査部門ではない?異界って・・・)」
そのとき、海の上を白い影が一筋横切った。
風もないのに、波面がざわりと震え、
空気がわずかに折れ曲がるような感覚が肌に触れる。
「まただ」
クジラが現れたときと同じ――
否、それよりも狭く、鋭い“縦の光の線”が空と海の間に生じていた。
一瞬だけ開き、何かが光を散らして落ちる。
青く光る、小さな魚影のようなもの。
それは音も立てず海へ沈んだ。
遠くで自衛隊の無線が鳴り響く。
「揺らぎ反応、海面から再発生!」
「境界線、また開いたぞ!」
「五星に連絡しろ!」
澪は思わず防波堤から身を乗り出そうとした。
しかし、
「澪!」
母が駆け寄ってきた。
「お母さん?何でここに?」
母・結衣は明らかに焦っていた。そして母の声で我にかえったように、澪は母に向き合った。
「家に、五星商事の人が来たの。お父さんの部署について“確認したい”って・・・」
「父の、部署?」
「澪。・・・お父さんは・・・」
母は言葉を詰まらせる。それはこれまでひた隠しにしていた事を意味する。
海風が止まり、波音が遠のいたように感じた。
「異なる世界・・・“向こう側”を調べる特別な仕事をしていたの。それを“異界調査員”と呼ぶらしいわ」
「お父さんが・・・?」
「でも、その仕事は危険で、絶対に口外してはいけない決まりだった。だから私は澪には言わないって決めていたの」
結衣は手を握ってくる。
「澪。あなたがあの日、クジラを見たって聞いて、すごく怖くなったの」
「怖いって・・・クジラは悪いものじゃないよ」
「分かってる。“あれは災いではなく、境界からの知らせだ”って」
「知らせ?」
「でもね。お父さんは“境界”の調査中に亡くなった。あなたが深入りすれば、同じことになるかもしれない。だから――」
そのとき。
海面がぼんやりと青く光った。
母の言葉が止まる。
光はすぐに沈んだが、澪の胸だけが強く震えていた。
その震えは、恐怖ではなかった。
呼ばれた。
そんな感覚だけが残った。でも誰に?
母は気づいていない。
澪の耳には、遠くで低く響く声が聞こえていた。
海か。
空か。
あるいは異世界からのメッセージ。
その声は、たった一つの言葉だけを澪に向けていた。
“見つけて”――と。




