第2話 世界の軋み
ニュースは、朝のワイドショーを一瞬で飲み込んだ。
どの局をつけても同じ映像が流れている。
灰色の空の中、巨大なクジラのような影がゆっくりと移動していく。
ヘリコプターの映像、SNSの動画、素人の手ぶれ映像。
映像のクオリティはバラバラだが、“そこにある”という一点だけは揺るがなかった。
「未確認巨大生物」「大気異常」「群体発生説」――
テロップは毎時間のように書き換えられた。
澪は学校の休み時間、教室の隅でスマートフォンを見ていた。
隣の席の男子たちは興奮気味に、
「やべえ、クジラがまた移動したらしいぞ!」
「GPSでも位置が分からないんだってさ!」
と騒いでいる。
澪は彼らの会話をぼんやりと聞き流していた。
画面の中で、アナウンサーが興奮気味に喋っている。
「本日午後、太平洋上空で再びクジラの目撃情報がありました。政府はこれを『航空安全に関わる重大事案』として...」
クジラが現れてから1ヵ月、世界が少しずつ狂い始めた。
まず、航空便がすべて欠航した。
クジラの存在が確認された高度を避けるため、航空管制は全面的に空路を停止したのだ。
飛行機に乗れない人々が空港で溢れ、物流が滞り、ニュースが飽和する。
誰もが空を気にするようになり、夜空を見上げる人の姿がニュース番組のオープニング映像に使われた。
「ねえ、澪。あれって神様とかじゃないの?」
声をかけてきたのは、クラスメイトの桜井莉音だった。
明るくて、どこか幼さの残る顔。
彼女は机に頬杖をついて、笑いながら言う。
「だって、最近台風が全然来ないでしょ。あれ、クジラが守ってるって言ってたよ、ネットで」
澪は曖昧に笑った。
「そうなのかな」
「うん。なんかロマンあるじゃん。空を泳ぐクジラ。神様っぽくない?」
莉音は無邪気に言った。
だが澪の胸の奥で、何かがざらつく。
ロマン。
そう言い切れるほど、あの光景は美しくもなければ、優しくもなかった。
あの日感じたあの“静かな圧力”を、言葉にできる気がしなかった。
放課後、澪は帰り道で空を見上げた。
クジラの姿は見えない。
けれど、空が違って見えた。
雲の流れが変わり、光が妙にやわらかい。
まるで空気そのものが、水のようにゆらいでいる。
家に帰ると、母の結衣がニュースを見ながらため息をついていた。
「ねえ、学校大丈夫だった? 今日は電車止まってるとこもあるみたいよ」
「うん、平気」
「このままだと、また物価上がるわね。飛行機も船も止まってるし」
結衣は食卓に広げた新聞を見ながら、ぼそりと呟いた。
「ねえ、お母さん。クジラって、どう思う?」
澪の問いに、結衣は少しだけ手を止めた。
「どうって?」
「怖くないの?」
母は黙った。テレビからは専門家の討論番組が流れている。
「私はね、ああいうのは“人間がどう受け取るか”だと思うの。神様って言う人もいれば、災いって言う人もいる。でも、どっちも結局“人間の都合”でしょ」
「・・・都合」
「そう。あのクジラが何のつもりで空にいるのかなんて、私たちには分からないのよ」
その言葉が妙に胸に残った。
分からない、という言葉。
けれど澪は、なぜか“知りたい”と思った。
あのクジラが、なぜ空を泳ぐのか。
あの瞬間、なぜ自分の名前を呼ばれたように感じたのか。
その夜、ベランダに出て空を見上げる。
静かな夜だった。風もない。
住宅街の明かりが少しずつ消え、遠くで犬の鳴き声が響く。
澪は目を凝らした。
星の代わりに、空の奥でわずかに光る点を見つけた。
金色の粒が、ゆっくりと動いている。
それは、まるで“呼吸”のようだった。
空がゆっくりと吸い込み、吐き出す。
見えない波が、夜の空気を震わせていた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
通知には、「緊急ニュース」の文字。
『日本政府、クジラの観測と分析のため、航空自衛隊を派遣』
澪の胸の奥が冷たくなった。
“観測と分析”。
その言葉の裏に、もっと鋭い意図を感じた。
空の光が、少しだけ歪んだ気がした。
澪はベランダの手すりを握りしめた。
夜の空気が肌に冷たく触れる。
なぜか涙が出そうになった。
何に怯えているのか、自分でも分からなかった。
ただ、世界が少しずつ音を立てて軋んでいくのを、少しだけ感じていた。




