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第1話 空を泳ぐ影

 アスファルトが昨夜の雨をまだ少しだけ吸いこんでいて、靴の裏に冷たい湿りが伝わってくる。

 朝倉澪は駅へ向かう坂道を下りながら、いつものようにイヤホンを耳に押し込み、スマートフォンの画面を無意識に撫でていた。再生リストは、古いピアノのインスト曲。歌のない音楽は、母の声を遮断するのにちょうどいい。


 家を出るとき、母の結衣は台所で弁当を詰めながら「そろそろ進路を決めなさい」と言った。

 その声を聞いた瞬間、澪は返事の代わりにドアを閉めた。


 今日も会話は成立していない。


 冷蔵庫のモーター音と、ラジオの天気予報が家の残響のように耳に残っている。


 坂を下りきると、駅前の歩道橋が見える。通勤の人波が流れ、車の排気が白く漂っている。

 曇り気味の空は、灰色の膜のように広がっていた。

 春の終わり、梅雨の気配が近い。


 ふと、視界の端を何かが横切った。


 鳥の群れかと思った。だが違う。

 雲の合間をゆっくりと滑るように、巨大な影が動いていた。

 最初は飛行船だと思った。そう自分に言い聞かせようとした。

 しかし、形があまりにも有機的だった。尾の先がゆらぎ、腹の下に光が反射している。


 ―――クジラだ―――


 それ以外に言葉が見つからなかった。


 あのクジラが海の中ではなく空を、泳いでいる。


 澪は立ち止まり、イヤホンを外した。

 風の音の中に、低い、遠い唸りのようなものが混じっている。

 空全体が震えているように感じた。


 「嘘でしょ・・・」


 呟きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。カメラを起動し、画面越しにズームをかける。

 映っている。灰色の巨体。ゆっくりと、まるで空気を押し分けるように前進している。

 尾びれが動くたびに、雲が少しずつ割れていく。


 通行人の一人が立ち止まり、次々と空を見上げる。

 「なんだあれ」「飛行船?」「いや、動きが違うぞ」

 ざわめきが街の空気を変えていく。信号が青に変わっても、誰も渡らない。


 澪はシャッターを押した。何枚も、何枚も。

 撮った写真を確認する。ぼんやりとしたシルエット。だが、確かに“それ”は写っていた。


 そのとき、不意に風向きが変わった。

 街の音が一瞬だけ消える。鳥の声も車のエンジンも、まるで空気の底に沈んでしまったかのように静まった。

 代わりに、低い鳴き声が響いた。

 遠雷のようでもあり、地球の奥底から響く呻きのようでもあった。


 澪の心臓が、ドクンッと鳴った。


 それは恐怖ではなかった。

 懐かしさにも似た、奇妙な温かさ。

 まるでその音が、自分の名前を呼んでいるような気がした。


 誰かが叫び、澪は再び空を見上げた。

 雲の切れ間に、その姿がはっきりと現れる。


 体長は三百メートルを優に超えているように見えた。

 ゆっくりと回転しながら、光を受けて肌が鈍く銀色に輝く。

 海の水面ではなく、空気そのものを押し分けて進んでいる。

 その周囲の雲が渦を描き、まるでクジラの体に沿って流れていくようだった。


 胴体の表面には、波のような微細な模様が走っていた。

 それは皮膚ではなく、光の層が何層にも重なって揺れているようだった。

 まるで空の“内側”が透けて見えているようで、クジラの体の中に星のような粒がちらちらと瞬いている。

 青く、緑に、そしてわずかに金色に。


 尾びれがゆっくりと動くたび、空気が波打つ。

 雲が崩れ、光が乱れ、街の影が揺れた。

 アスファルトに落ちるクジラの影は、まるで深海の底にいるような暗さで、澪の足元を飲み込んだ。


 耳の奥で低い振動が鳴り始めた。

 音とも言えない、空気のざわめき。

 周囲の人々が息を呑むのがわかった。

 子どもが泣き出し、スマートフォンを構える大人たちの手が震えている。


 澪の視線は、そのクジラの“目”に吸い寄せられた。

 ほんの一瞬、視界の中で確かに“眼孔のようなもの”がこちらを向いた。

 黒く、深く、何も映していないような瞳。

 だがその奥で、なにかが脈打つように鈍く光った。

 それは、遠い記憶の中にある“胎内の音”のようでもあった。


 息をするのを忘れていた。

 胸が痛いほどに詰まる。

 空を泳ぐその巨体が、雲の層を抜けてゆく。

 その軌跡のあとに、きらきらと光る粒が降ってくる。

 雪でも雨でもない。

 それは、見えないはずの“空気の破片”だった。


 掌を伸ばす。

 その粒が肌に触れた瞬間、澪はかすかな冷たさを感じた。

 だが、それは一瞬で消える。跡も残らない。


 クジラが頭上を越えて尾が遠ざかる。

 まるで空の彼方に帰っていくように、静かに。

 その進行方向の空は、淡く青白く光っていた。

 それは光の屈折でも反射でもない。

 まるで空がクジラを“通した”ことによって、世界の組織がほんの少しだけ透けて見えているような――そんな不安定な透明さだった。



 「これは、夢なんかじゃない」


 けれど、足元に落ちる影が現実を告げていた。

 通りの人々が、まだ空を見上げている。

 信号が変わり、車のクラクションが鳴り、遠くで幼い誰かが泣いていた。

 現実と非現実の境界線が、まるで空気中で溶けていくようだった。


 澪はもう一度スマートフォンを掲げた。

 レンズ越しに見える空には、まだ微かに光の尾が残っていた。

 まるで“海の泡”のように、消えては現れ、空に溶けていく。


 その光を見ながら、澪はなぜか笑いそうになった。

 怖くもなく、嬉しくもない。

 ただ、胸の奥のなにかが“ほどけていく”ような感覚。

 心のどこかで何かが終わり、そして・・・何かが始まった気がした。


こんにちは。蒼木しのです。

読んでくれてありがとうございます。

つい先日、旅行の移動中に空を眺めていた時、「この空に大きな生物が飛んでいたら」と何となく考えていて生まれた小説です。

代表作の「漂流企業 食品工場まるごと異世界転移」のような長編ではなく、また不定期な連載でもあります。

興味のある方は引き続き読んでくれるとうれしいです。 

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