別れの予感
初夏の風が吹いていた。
キャンパスの木々は濃い緑に変わり、葉の間から光がこぼれていた。
その光が地面に細かな影を落とし、風が吹くたびに形を変えた。
理生はベンチに腰を下ろし、その影の揺れをぼんやりと眺めていた。
沙耶とは、少しずつ会う回数が減っていた。
忙しくなったわけではない。ただ、互いに言葉を探す時間が長くなった。
何を話しても、どこか心の奥で“伝わらないもの”を感じていた。
それは不安ではなく、静かな距離だった。
その日、沙耶から「話したいことがある」とメッセージが届いた。
待ち合わせ場所は、大学近くのカフェ。
いつもより少し早く着いた理生は、店の窓際の席でカップを両手で包みながら待った。
十五分ほどして、沙耶が現れた。
彼女は白いブラウスを着ていて、陽の光を受けて少し眩しかった。
席に着くと、いつものように微笑んだが、その笑みの奥にわずかな緊張があった。
「ねえ、理生くん。」
「うん。」
「少し、距離を置こうと思う。」
言葉は穏やかだったが、その穏やかさがかえって深く刺さった。
理生は何も言えなかった。
カップの中のコーヒーが冷めていく音が聞こえたような気がした。
「ごめんね。」
沙耶は下を向いた。
「最近、うまく話せない。
理生くんのこと、嫌いになったわけじゃないよ。
でも、なんだか、自分まで静かになっていく気がして。」
その言葉は、彼女自身にも痛みを与えているように見えた。
理生はゆっくりと息を吸った。
「……分かるよ。」
「分かる?」
「うん。僕も、同じことを感じてた。」
それは嘘ではなかった。
彼自身、最近の沈黙の中に、言葉を失うような疲れを覚えていた。
互いに癒やし合おうとして、いつのまにか似た静寂の中に沈んでいたのかもしれない。
沙耶は頷いた。
「理生くんといると、安心する。でも、それだけじゃ足りないの。
私、自分の世界をもう一度取り戻したいの。」
理生はその言葉を聞きながら、どこか懐かしい感情に包まれた。
“世界を取り戻したい”――それはかつて、彼が最も強く願っていたことだった。
沙耶がそう言うのを、止めることはできなかった。
「分かった。」
それだけ言って、理生は微笑んだ。
その笑みは、自分でも驚くほど穏やかだった。
悲しみよりも、静かな理解があった。
幸福とは、もしかすると、相手を自由にすることなのかもしれない。
その瞬間、理生はそう思った。
二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
窓の外では風が強まり、街路樹の葉がざわめいていた。
沙耶はカップを両手で包みながら、小さく言った。
「ありがとう。」
理生は頷いた。
その“ありがとう”が、どんな意味を持つのかを問う必要はなかった。
その言葉の中に、過去と現在と未来がすべて含まれている気がした。
別れ際、沙耶が振り向いた。
「理生くん、元気でね。」
その言葉に、理生は何も返さなかった。
ただ、うなずいた。
風が吹き、彼女の髪が揺れた。
その光景が、時間の中でゆっくりと遠ざかっていった。
帰り道、理生は川沿いを歩いた。
夕方の光が水面を赤く染めている。
その色は美しかったが、どこか現実味がなかった。
“別れ”という言葉が、まだ現実として体に落ちてこない。
ただ、胸の奥に小さな空洞ができているのを感じた。
家に帰ると、部屋の空気が少し冷たく感じた。
机の上には、沙耶と話したときに使っていたノートが開いたままだった。
理生はそのノートを手に取り、ページをめくった。
そこには、かつての自分の文字が並んでいた。
> 「愛とは、他者を理解しようとする意志。」
> 「幸福とは、他者に触れようとする意志。」
その言葉が、今は遠く感じた。
理生はペンを取り、新しいページを開いた。
ゆっくりと書く。
> 「愛とは、手放す勇気。」
その文字を見つめながら、胸の奥がじんと熱くなった。
愛は、掴むことではなく、放つこと。
幸福は、所有ではなく、受け入れ。
そして、生きるとは、その両方のあいだを歩くこと。
その夜、理生は久しぶりに泣いた。
声を出さず、静かに、ただ涙が流れた。
悲しみの形をした幸福――そんな言葉が、頭の中をかすめた。
幸福とは、痛みを伴ってなお、誰かを想う力なのかもしれない。
涙が乾いたあと、理生は窓を開けた。
夜風が入り、カーテンが揺れた。
遠くで電車の音が響く。
世界は相変わらず動いている。
その動きの中に、自分もまた含まれている。
それを感じたとき、理生は少しだけ微笑んだ。
幸福は、もう“誰かと共にあるもの”ではなくなった。
だが、誰かを通して生まれた幸福の記憶は、
これからの孤独を静かに支えていくだろう。
愛の終わりとは、幸福の終わりではない。
むしろ、その形を変えて続いていくものなのだ。




