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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
幸福論Ⅰ ―「痛みのない世界」
8/26

愛について

 その頃、理生は少しずつ生活のリズムを取り戻していた。

 朝に目を覚まし、薬を飲み、大学へ向かう。

 授業の途中で胸の奥に重さを感じることもあったが、

 その重ささえも、以前よりは穏やかに受け止められるようになっていた。


 沙耶とは週に一度、講義のあとに会っていた。

 特に約束をしたわけではないのに、なぜか同じ時間に同じ場所に現れることが多かった。

 話題はいつも他愛もないことばかりだった。

 最近読んだ本の話、教授の口癖、あるいは季節のこと。

 だが、理生にとってそれらの会話は、

 自分が再び「世界と接続している」という確かな証拠だった。


 ある日の帰り道、沙耶がふと尋ねた。

 「理生くんはさ、“愛”って信じる?」

 理生は立ち止まり、少し考えた。

 「うーん……正直、よく分からない。

  誰かを好きになることと、誰かを必要とすることって、同じなのかな。」

 沙耶は微笑んだ。

 「似てるけど、ちょっと違う気がする。

  必要とするのは、自分のため。

  でも、愛するのは、相手の存在そのものを喜ぶことじゃない?」


 その言葉を聞いた瞬間、理生は言葉を失った。

 相手の存在そのものを喜ぶ――その感覚が、今の自分にはどれほど遠いものかを思い知らされた。

 それでも、心のどこかで、その遠さが“恋い”の始まりのようにも思えた。


 夜、理生はノートに書いた。

 > 「愛とは、幸福の他者形である。」

 愛は、他者を通じてのみ現れる幸福のかたち。

 幸福が“自分の内側”にある静かな感覚だとすれば、

 愛は“外側”へと向かう力だ。

 理生はそう考えながら、ペンを止めた。


 翌週、沙耶と映画を見に行った。

 古いフランス映画で、物語の大半が静かな会話で成り立っていた。

 登場人物の男女は何度もすれ違い、言葉を交わしながら、結局最後まで理解し合えない。

 それでも、彼らは互いを見つめることをやめなかった。

 劇場を出たとき、沙耶が言った。

 「なんか、寂しい映画だったね。」

 理生は頷いた。

 「でも、あの寂しさが、たぶん“愛”なんだと思う。」

 沙耶は少し驚いたように理生を見た。

 「どういう意味?」

 「分かり合えないって、絶望でもあるけど、希望でもある。

  完全に分かり合えないからこそ、相手を見つめ続けようとする。

  それが、愛なのかもしれない。」


 沙耶はしばらく黙って歩いた。

 やがて、少し恥ずかしそうに笑った。

 「理生くんって、たまに哲学の授業みたいなこと言うね。」

 「職業病だよ。」

 二人は同時に笑った。

 笑い声が夜の街に溶けていった。


 その後も、二人はしばしば一緒に過ごした。

 カフェでノートを広げて議論したり、図書館で黙って本を読んだり。

 沙耶が話すとき、理生はその声の調子を注意深く聞いた。

 彼女が少し疲れているときの声の低さ、

 嬉しい話をするときの小さな抑揚。

 それらすべてが、世界の音として理生の中に戻ってきていた。


 ある日、沙耶が言った。

 「理生くんって、人の話をすごくちゃんと聞くね。」

 理生は苦笑した。

 「そうかな。自分では、聞いてるふりしかできてない気がする。」

 「ふりでもいいんだよ。

  “聞こうとすること”が、いちばん大事だと思う。」

 その瞬間、理生の中で何かがほどけた。

 “聞こうとすること”――それは、他者の存在を受け入れる最初の行為だ。

 幸福や愛は、その延長線上にしかない。


 その夜、理生はまたノートを開いた。

 > 「愛とは、他者を理解しようとする意志。」

 > 「幸福とは、他者に触れようとする意志。」

 両者の違いは微細だが、その間には決定的な距離がある。

 愛が成立するとき、人は他者の幸福を自分の痛みとして感じる。

 その痛みを受け入れられるかどうかで、愛の形が決まる。


 理生はしばらくペンを持ったまま、窓の外を見つめた。

 外では雨が降り始めていた。

 雨粒がガラスを伝い、街灯の光を歪ませていた。

 その光の揺れを見ながら、理生は思った。

 愛もまた、幸福のように、掴もうとした瞬間にこぼれ落ちる。

 だからこそ、人はそれを追いかけ続けるのだ。


 翌週、沙耶が大学を休んだ。

 風邪だと聞いた。

 理生は彼女の家の前まで行って、コンビニの袋をドアノブにかけた。

 おかゆ、ポカリスエット、ビタミン剤。

 呼び鈴を押す勇気は出なかった。

 ただ、袋の取っ手に小さなメモを挟んだ。

 > 「早く元気になって。」

 その五文字を書くのに、驚くほど時間がかかった。


 帰り道、理生は自分の心臓の音を聞いた。

 それは久しぶりに“強く”鳴っていた。

 幸福とは、誰かを想うことのなかに潜む鼓動なのかもしれない。

 それは理屈ではなく、ただ生きている証だった。

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