他者の幸福
講義が終わったあと、理生は学食の奥の窓際に座っていた。
昼下がりの光がテーブルを斜めに照らしている。
少し冷めたコーヒーの表面に光が反射し、揺れていた。
外では新入生たちが、まだ慣れない制服姿で笑い合っている。
その眩しさに、理生は少しだけ目を細めた。
「理生くん、ひさしぶり。」
声の方を見ると、同じゼミにいた沙耶が立っていた。
彼女は去年の冬以来だった。細い髪を耳にかけ、相変わらず落ち着いた表情をしている。
「少し顔がやつれたね。」
そう言って、彼女は向かいの席に座った。
理生は笑ってみせようとしたが、うまく口角が上がらなかった。
「休学してるのかと思ってたよ。」
「いや、なんとか戻ってきた。」
「そうなんだ。無理はしないでね。」
沙耶の声は穏やかだった。
彼女はいつも、他人の沈黙を急かさない人だった。
理生は久しぶりに、言葉がゆっくり呼吸できるような感覚を覚えた。
「今日、倫理の授業で“幸福”の話をしててさ。」
理生がぽつりと言うと、沙耶は少し驚いたように目を上げた。
「幸福? 難しいテーマだね。」
「うん。でも、他者の幸福を考えることが倫理の核心なんだって。」
「へえ、そうなんだ。」
しばらく沈黙が流れた。
理生は言葉を探しながら続けた。
「他人の幸福を考えるってさ、ほんとは自分の幸福を確かめたいだけなんじゃないかな、って思うんだ。」
沙耶は少し笑った。
「うん、分かるかも。誰かの笑顔を見て、自分も安心したいとかね。」
その笑顔を見たとき、理生の胸の奥で、何かが小さく動いた。
沙耶は窓の外を見ながら言った。
「でもさ、人の幸福って、たぶん自分ではどうにもできないんだよね。
助けたいって思っても、相手がそれを望まなければ届かないし。」
理生は頷いた。
「うん。幸福って、他人には手が出せない場所にあるのかも。」
「でも、誰かがそこにいるだけで、少し軽くなることもある。」
沙耶の言葉は、風みたいに静かに響いた。
理生は思った。
幸福という言葉は、計算ではなく“温度”に近い。
誰かと同じ場所にいるだけで、その温度が少し上がる。
言葉がなくても、沈黙のあいだに共有される何か。
それを、人は“幸福”と呼ぶのかもしれない。
「そういえば、去年のゼミのときに理生くん言ってたよね。」
沙耶がふと思い出したように言った。
「“幸福は現実を感じられる力だ”って。」
理生は驚いて顔を上げた。
「覚えてたんだ。」
「印象に残ってたの。あれ、すごく良い言葉だと思った。」
彼女は微笑んだ。
その瞬間、理生は“感じた”。
光でも音でもない、ただ心の奥で静かに温もりが広がるような感覚。
――これが、幸福の共有なのかもしれない。
その後、二人は他愛もない話をした。
講義のこと、読んでいる本のこと、キャンパスの小さな変化。
会話の途中で理生は何度か言葉に詰まったが、沙耶はそれを気にしなかった。
沈黙が訪れても、彼女はその沈黙ごと受け入れてくれた。
そのことが、理生にはなによりもありがたかった。
夕方、学食の外に出ると風が冷たかった。
「じゃあ、またね。」
沙耶が手を振った。
理生はうなずいて見送った。
彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、しばらく立ち尽くした。
胸の奥に残ったのは、寂しさではなく、確かな重みだった。
その夜、理生は机に向かってノートを開いた。
> 「幸福とは、他者がいるという事実の重さを感じること。」
書いた瞬間、胸の中で何かが静かに落ち着いた。
幸福は、他者を救うことではない。
幸福は、他者の存在に救われることなのだ。
そして、その事実を認めることが、倫理の始まりなのかもしれない。
部屋の窓を開けると、夜風が入ってきた。
遠くの街灯の光が、風に揺れていた。
理生はその光を見つめながら、ふと沙耶の笑顔を思い出した。
人は、自分の幸福のために誰かを思い出すのかもしれない。
その思い出すという行為の中に、幸福が潜んでいる気がした。
幸福は、過去と現在のあいだで揺れている。
それは手に取ることも、留めておくこともできない。
けれど、確かに存在する。
他者という形を借りて、世界の中でかすかに光っている。




