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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
幸福論Ⅰ ―「痛みのない世界」
6/26

倫理学の講義

 四月になった。

 新しい学期が始まって、大学のキャンパスには少し湿った風が流れていた。

 桜はすでに散りはじめていたが、地面にはまだ薄い桃色の名残が残っている。

 理生は、その花びらを踏まないように歩いていた。

 何かを壊してしまいそうな気がしたからだ。


 体調は少しずつ安定していた。

 薬の量が減り、朝に目を覚ますことが以前より楽になった。

 それでも、世界の輪郭が完全に戻ってきたわけではない。

 目の前の光景を「きれいだ」と思うまでに、数秒の間が必要だった。

 その間の中で、理生は世界を“考えながら感じている”自分を意識した。


 その日、理生は初めての講義に出席した。

 「倫理学基礎」。

 哲学科の一年次に必修だった科目を、二年越しに取り直すことにしたのだ。

 講義室には百人ほどの学生がいた。

 そのざわめきが、彼にとっては懐かしくもあり、どこか異質でもあった。


 講義が始まると、年配の教授がゆっくりと話し始めた。

 「今日のテーマは“幸福”です。古代ギリシア以来、倫理学とは幸福の学でした。」

 その言葉に、理生の背筋がわずかに震えた。

 幸福――その言葉は、今や彼にとってもっとも重い響きを持っていた。


 教授はチョークを黒板に走らせながら続けた。

 「功利主義という立場では、行為の善悪は“結果”によって判断されます。

  つまり、最大多数の最大幸福――“the greatest happiness for the greatest number”です。」

 英語の発音をゆっくりと区切って言いながら、教授は振り返った。

 「この考え方は、幸福を数量化できると仮定します。

  けれど、あなたがたにとって幸福とは“数えられる”ものでしょうか?」


 講義室が静まり返った。

 理生はペンを握りしめたまま、ノートの余白を見つめていた。

 幸福を“数える”――その考え方が、どこか冷たく感じられた。

 自分が感じている幸福の欠如を、もし数値で表せるなら、今の自分はいったい何点なのだろう。

 そう思った瞬間、笑いそうになった。

 幸福の点数など、誰がつけられるのか。


 教授の声が続いた。

 「ベンサムにとっての幸福は“快楽”であり、苦痛の不在です。

  しかし、ミルはそれを批判し、“質の違い”を重視しました。

  人間の幸福は、動物的快楽よりも、精神的満足に価値があると考えたのです。」


 理生はゆっくりとノートに書いた。

 > 「幸福=快楽の量+質」

 その下に小さく書き足す。

 > 「幸福は、感じるものか、考えるものか。」


 教授は一息ついて、教室を見渡した。

 「ここで重要なのは、“他者の幸福”をどう扱うか、です。

  自分だけの幸福を求めることは、結局のところ倫理ではない。

  倫理とは、幸福の共有可能性の問題なのです。」


 “共有可能性”という言葉が、理生の心に引っかかった。

 幸福は、他人と共有できるのだろうか。

 もし幸福が感情であり、感覚であり、主観の領域に属するなら、それを共有することは不可能ではないか。

 それでも、人は他者の幸福を願う。

 その矛盾こそ、人間の倫理の根源なのかもしれない。


 講義の終わりに教授が言った。

 「次回は、“他者の幸福”と“自己犠牲”の関係を考えます。」

 理生はノートを閉じ、静かに立ち上がった。


 教室を出ると、廊下の窓から春の光が差し込んでいた。

 外では学生たちが笑いながら次の授業へ向かっている。

 その笑い声が、かつてよりも近く感じられた。

 理生は立ち止まり、自分の手のひらを見つめた。

 そこに光が当たり、皮膚の血管が透けて見えた。

 “幸福は共有できないかもしれない。けれど、光は誰の上にも落ちている。”

 その思いが、ほんの一瞬、理生の中を通り抜けた。


 帰り道、彼は小さな公園に立ち寄った。

 ベンチに腰を下ろし、ノートを開く。

 講義中に書いた文字をなぞりながら、ゆっくりとペンを動かした。

 > 「幸福とは、他者の存在を想定すること。」

 書きながら、胸の奥が少し熱くなった。

 幸福とは“孤独の否定”なのかもしれない。

 自分が誰かに触れようとする瞬間に、幸福は姿を現す。


 空を見上げると、薄雲の切れ間から光がこぼれていた。

 風が頬を撫でた。

 それはほんの一瞬の感覚だったが、理生は確かに“感じた”。

 感じること――それ自体が、幸福の始まりなのだと、そのとき初めて思えた。

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