帰り道の光景
夕方になると、決まって散歩に出るようになった。
部屋に閉じこもっていると、自分の体がどこにあるのか分からなくなるからだ。
外に出ると、空気が違って感じられる。肺の奥まで吸い込むと、冷たさが胸の内側を洗うようだった。
アパートの近くには、小さな川が流れていた。
川沿いの道を歩くと、街灯がまだ点いていない。
沈む夕日の光が、水面に細い線を引いていた。
川の向こう側では、小学生たちがボールを投げ合って遊んでいる。彼らの声が風に乗って届くたびに、理生はどこか取り残されたような気分になった。
世界が確かに動いているのに、自分だけがその動きから外れている――そんな感覚だった。
川の手すりに寄りかかって、しばらく空を見上げた。
雲の輪郭が少しずつほどけていく。
その曖昧な形を見ているうちに、理生はふと、現実というものもこうして少しずつ溶けていくのではないかと思った。
手すりに触れた指先に、冷たい鉄の感触がある。
それが唯一、現実を確かめる証のように思えた。
数日前に診断を受けたときから、理生の中で“世界の密度”が変わっていた。
見えているものすべてが、どこか薄い膜をかぶっているように見える。
信号の色、人の声、風の匂い。
それらが現実の一部であることは分かっているのに、心がそれを“感じる”ことを拒んでいる。
自分が今ここに立っているという事実さえ、どこか借り物のようだった。
帰り道の途中、書店の前を通りかかる。
ガラス越しに並ぶ背表紙の群れが、まるで別世界の言語のように輝いていた。
理生は思わず立ち止まり、店内を覗いた。
倫理学の棚の上に、「幸福論」と書かれた見出しが見える。
ベンサム、ミル、アリストテレス、そしてカント。
それらの名が整然と並んでいる光景を前にして、理生は奇妙な感情を覚えた。
「幸福」は、ここでは整然と定義され、分類され、理論化されている。
だがその言葉のどこにも、今の自分の痛みは含まれていない。
理生は扉を押して店に入った。
空調の音がかすかに耳に残る。
カントの『実践理性批判』を手に取ると、ページの間から紙の匂いが立ちのぼった。
幸福に関する節を探して、指でページをめくる。
そこに書かれていたのは、
> 「幸福に値する者となれ。」
その一文を目にした瞬間、理生の胸の奥がざわついた。
幸福は与えられるものではなく、“値する”もの――。
その意味を考えようとしたが、言葉が頭の中で渦を巻くだけだった。
もし幸福が“値するもの”だとしたら、
幸福を感じられない自分は、“値しない人間”なのだろうか。
本を棚に戻し、外に出ると、風が少し強くなっていた。
日が沈みきる前の空は灰色に染まり、街の輪郭をゆっくりと飲み込んでいく。
理生は歩きながら、幸福という言葉の重さを思った。
幸福とは、何かを持っていることではなく、何かを“信じられる”ことではないか――そんな考えが、頭の隅をかすめた。
けれどすぐにその思考は霧散した。信じることができないこと、それこそが自分の病なのだと、理生は思い出した。
帰宅すると、部屋はすでに薄暗かった。
机の上にはノートと薬のシート。
理生は水を一口飲み、薬を喉に流し込んだ。
そのまま椅子に座り、窓の外を眺めた。
電線に止まった鳥の影が、夕闇の中で動かずにいた。
“生きる”とは、こうしてただ時が過ぎていくのを見つめることなのだろうか。
そう思うと、胸の奥で何かが静かに沈んでいくような気がした。
ノートを開く。
昨日のページの下に、ゆっくりとペンを走らせる。
> 「幸福とは、現実を感じられる力。」
書いた瞬間、その言葉が自分のものではないように思えた。
現実を感じる力――それが失われた今、自分は幸福の外側にいる。
けれど、外側に立つことでしか見えない幸福もあるのではないか。
理生はそう自分に言い聞かせるように、もう一度同じ言葉を繰り返し書いた。
夜が深まり、部屋の灯りが壁に柔らかく揺れている。
窓の外で誰かの笑い声が聞こえた。
理生はペンを置き、耳を澄ませた。
笑い声は次第に遠ざかり、やがて静寂に溶けた。
その静寂の中で、理生は初めて、自分の呼吸の音をはっきりと聞いた。
それは不思議なほど穏やかで、
まるで誰か別の人間が生きているようだった。
窓際に立つと、街の灯りが遠くで瞬いていた。
ビルの隙間を風が抜け、遠くの電車の音がかすかに届く。
現実はそこにある。けれど、その現実が自分に触れてこない。
まるで透明な壁が、世界と自分を隔てているようだった。
理生は、その壁の存在を確かめるようにガラスに手を当てた。
冷たい感触が、わずかに指先を通じて伝わる。
その冷たさが、いまの自分の「生」の証のように思えた。
幸福とは、何かを感じられる力――。
その言葉が頭の中でゆっくり反響した。
だがその瞬間、理生は気づく。
幸福とは、感じる力ではなく、
感じられなくなった世界の中で、それでも“感じたい”と願うことなのかもしれない、と。
理生は窓から目を離し、部屋の灯りを消した。
暗闇の中で、しばらく目を閉じる。
外の世界が静まり返り、やがて、自分の呼吸だけが残った。
それはかすかに震えていたが、確かに続いていた。
世界がどれほど遠くても、呼吸の音だけは自分の中にある。
それが、生きているということなのだと、理生はぼんやり思った。




