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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
診断の日 ―「名づけられた痛み」
3/26

名前の重さ

 それからの数日、理生はほとんど眠れなかった。

 夜になると、天井の模様を数えながら朝を待つ。窓の外で新聞配達のバイクが通る音がしたとき、ようやく眠気が来る。眠ることが逃避になり、目覚めることが罰のように感じられた。


 薬を飲み始めてから、時間の流れが少しずつ変わった。

 一日が輪郭を失い、朝と夜の区別が曖昧になる。

 友人からのメッセージは次第に減っていった。「大丈夫?」「無理するなよ」「また落ち着いたら連絡して」――それらの言葉が、どれも遠い他人の言語のように聞こえた。

 “落ち着く”とはどういう状態のことだろう。心が静まることなのか、それとも、何も感じなくなることなのか。理生はその違いを確かめようとして、結局どちらでもないと気づいた。


 大学に顔を出したのは診断から一週間後のことだった。

 キャンパスの空気は春の光に満ちていて、学生たちの笑い声が芝生の上で弾けていた。理生は図書館へ向かう途中、知り合いのゼミ仲間に声をかけられた。

 「久しぶりじゃん。体調どう?」

 「……まあ、なんとか。」

 そう答えたものの、声がうまく出なかった。

 相手は軽くうなずき、「無理すんなよ」と言って去っていった。

 理生はその背中を見送りながら、自分がどんな顔をしていたのか分からなかった。


 図書館の二階の片隅、哲学書の棚の前に腰を下ろした。

 手に取ったのは、偶然目に入ったフーコーの『言葉と物』だった。

 冒頭の数ページを読んだだけで、頭の中に靄がかかるような感覚がした。

 “言葉が人を規定する。”

 “人は名によって分けられ、定義される。”

 その文章を読んだとき、理生の背筋がぞくりとした。

 あの日、医師に告げられた「うつ病」という言葉が、まさにその“規定”だったからだ。


 診断された瞬間、彼の存在は一つのカテゴリーへと収められた。

 他者に説明するための最も簡潔な言葉としての「病名」。

 けれど、その言葉が与える安心は、同時に“自己喪失”の始まりでもあった。

 理生は本を閉じ、長い息を吐いた。

 「俺は、病気という名前で呼ばれるようになったのか。」

 その呟きは、誰にも届かないほど小さかった。


 帰り道、ふと立ち寄ったカフェのガラス窓に、自分の姿が映った。

 少し痩せた頬、落ちくぼんだ目。

 その顔を見ても、自分だという実感が湧かなかった。

 名前とは何だろう――そう考えながら、理生はアイスコーヒーをひと口飲んだ。苦味が舌に残った。

 「理生」という名前が、急に軽く感じられた。

 その二文字が、まるで他人から借りた仮の名前のように思えた。

 “理”と“生”。

 理を求めながら、生を見失っている。

 その名の意味が、自分を皮肉っているように感じられた。


 夕方、帰宅すると母が玄関で声をかけた。

 「どうだった?」

 理生は靴を脱ぎながら、少し間を置いて言った。

 「うつ病、なんだって。」

 母は小さくうなずき、「そう……」とだけ答えた。

 それ以上、何も言わなかった。

 沈黙が、互いの理解の代わりになった。

 理生はその沈黙を、なぜか少しありがたいものとして受け止めた。


 夜、机の上に広げたノートを開いた。

 診断の翌日に書いた「幸福とは、何か。」という一文が、そこに残っていた。

 理生はその下に、小さく付け加えた。

 > 「幸福とは、名前を持たないものではないか。」


 “うつ病”という名前を与えられたとき、確かに何かが変わった。

 けれど、それは必ずしも悪い変化ではないのかもしれない。

 名前を持つことは、苦痛を可視化することでもある。

 誰かに伝えられる形になるということは、孤独の外に一歩踏み出すことでもある。

 理生はそう考えながら、ゆっくりとペンを置いた。


 だが、そう思った直後に、強い違和感が胸を突いた。

 ――「うつ病の人」という言葉を、これから自分が使うことになるのだ。

 他者を示すための言葉として、あるいは自分を説明するための手段として。

 理生は、言葉がいつでも“分類”と“隔たり”を生み出すことを直感した。

 人は名前によって救われ、同時に名前によって閉じ込められる。


 眠る前、理生は鏡の前に立った。

 ぼんやりとした光の中で、自分の顔を見つめる。

 鏡の中の彼は、確かに“理生”という名を持つ人間だった。

 けれど、その名が示すものが自分の内側にあるのか、それとも外側から貼られたラベルなのか、分からなかった。

 “理”――思考、秩序、意味。

 “生”――衝動、痛み、呼吸。

 その二つのあいだに亀裂がある。

 その亀裂をどう生きるか。それが、これからの問いになる気がした。


 ベッドに横たわりながら、理生は目を閉じた。

 体の奥で、薬がゆっくりと効き始める。

 遠くで車の音が響き、世界が眠りにつこうとしている。

 「幸福とは、何か。」

 その問いが、再び頭の中で形を取り始めた。

 “幸福”という言葉にも、きっと見えない名前の重さがある。

 それを知ることが、生きるということなのかもしれない。


 理生は、眠りと覚醒のあいだで微かに笑った。

 世界は静かに続いていた。

 名前を持つ前と後で、何も変わっていないようで、すべてが変わっていた。

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