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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
終章 ―「幸福の定義を知らないままでいい」
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哲学ノートの最後の頁

 夜が静かに降りていた。

 窓の外には、街の灯が遠く滲んでいる。

 昼間はあれほど明るかった空が、今は深い群青に沈み、

 その中にひとつ、ふたつと星が浮かんでいた。


 理生は机に向かっていた。

 昼に書いた手紙を読み返すこともなく、

 ただ、ノートの最後のページを開いていた。

 そこにはまだ何も書かれていない。

 それは、彼の中に残された“余白”そのものだった。


 この数年間、彼はノートに無数の言葉を刻んできた。

 「幸福」「意味」「価値」「愛」「生」――

 そのどれもが定義を求めては消えていった。

 ページの間に挟まった言葉たちは、

 もはや答えではなく、彼が通り抜けた“軌跡”になっていた。


 理生はゆっくりとペンを手に取った。

 そして、白紙の上に一行だけ文字を置いた。


 > 「幸福とは、語りえぬもの。」


 その瞬間、彼の中で時間が止まったように感じた。

 長い問いの果てに、ようやく辿りついた沈黙。

 幸福とは何か――この問いに、

 もはや“答え”を与える必要はなかった。


 幸福は、言葉で閉じられた瞬間に意味を失う。

 語りえぬままに、それでも感じ取るしかないもの。

 それが“幸福”なのだと、理生は思った。


 彼はペンを置き、目を閉じた。

 静かな呼吸だけが、部屋の空気を揺らしていた。


 ――幸福は、知ることではなく、気づくこと。

 気づきとは、世界の沈黙を聴く行為だ。

 それは、言葉と沈黙のあいだに身を置く生のあり方。

 哲学は、その沈黙の縁を言葉でなぞろうとする試みに過ぎない。


 ノートの表紙を撫でると、指先に少しだけ温もりを感じた。

 紙のざらつきが、妙に懐かしかった。

 そこに積み重なった文字の一つひとつが、

 彼自身の“存在の証”のように思えた。


 窓の外で風が吹いた。

 カーテンがゆるやかに揺れ、

 机の上のページが一瞬だけめくれかけた。

 理生はそっと手で押さえた。


 彼は思い出していた。

 あの春の日、初めて病名を告げられた日のことを。

 「うつ病」という言葉が、自分の中で響いた瞬間の痛み。

 それは、言葉が刃物のように現実を切り取る体験だった。


 だが、今の彼にとって“名づけ”とは違う意味を持っていた。

 幸福も、悲しみも、愛も、

 すべては人間が“名づける”ことで世界の輪郭を与える行為だ。

 けれど、その名づけの手前には、まだ名のない現実がある。

 理生がいま感じている静かな安らぎは、

 まさにその“名づけ以前の幸福”だった。


 ――幸福とは、名を持たないもののうちにある。


 彼はその考えをノートの余白に小さく書き加えた。

 > 「幸福は、名のないものを受け入れる心である。」


 文字を書き終えた瞬間、

 外の風が少しだけ強くなった。

 窓の向こうで街灯の光が揺れ、

 その光が部屋の壁に柔らかく反射していた。


 理生は立ち上がり、窓辺に寄った。

 夜の空気は冷たかったが、

 頬を撫でる風はどこか穏やかだった。


 空を見上げる。

 星々は遠くに散らばりながらも、

 どこかでひとつの秩序を保っているように見えた。

 混沌と秩序、孤独と調和――

 そのすべてが一つの世界の中に共存している。

 幸福とは、たぶんその“共存”を肯定することだ。


 理生は小さく微笑んだ。

 「幸福とは、語りえぬもの。」

 それは無知の告白ではなく、

 世界への信頼の回復だった。


 語れないということは、

 なお語ろうとする余地があるということ。

 沈黙とは、絶望ではなく“余白”なのだ。

 幸福は、その余白の中で呼吸している。


 彼はノートを閉じた。

 ページの端が少しだけ膨らんでいて、

 その厚みが、この数年の重みを物語っていた。


 机の上に手を置き、

 深く息を吸い込む。

 その息が、自分の中をゆっくりと満たしていく。

 “生きている”という感覚が、

 この単純な呼吸の中に凝縮されていた。


 時計を見ると、日付が変わろうとしていた。

 今日という一日が、静かに終わろうとしている。

 理生はノートを胸に抱き、

 部屋の明かりを消した。


 暗闇の中でも、世界は息づいていた。

 窓の外には星があり、

 遠くの街にはまだ人々の声があった。

 自分が見えなくなっても、

 世界は確かに動いている。


 幸福とは、その“動いている世界”の中で、

 自分もまた一つの呼吸として在るという感覚。

 何かを掴むことではなく、

 世界と同じ速度で呼吸すること。


 理生は目を閉じた。

 闇の中で、胸の鼓動が静かに響いていた。

 それは問いの終わりではなく、

 問いの続きの音だった。


 ――幸福とは、語りえぬもの。

 けれど、その沈黙の中でこそ、

 人は最も深く世界を理解しているのかもしれない。


 彼はもう一度、ノートの上に手を置いた。

 その温もりが、まるで誰かの手のように感じられた。

 それは、過去の自分でもあり、

 未来の誰かでもあった。


 幸福とは、つながりの中にある。

 そのつながりは、言葉ではなく沈黙によって保たれる。


 理生はそっと呟いた。


 「ありがとう。」


 その声は、夜の静けさに溶けていった。

 ノートの上に残った一行だけが、

 彼の思索の証としてそこにあった。


 > 「幸福とは、語りえぬもの。」


 その文字は光のように、

 暗闇の中でほのかに浮かんでいた。

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