手紙
昼の光が部屋の中に差し込んでいた。
午前の冷気はすでに消え、カーテン越しの光が柔らかく床を照らしている。
理生は、机の上のノートを閉じ、静かに息を吐いた。
――幸福の定義を知らないままでいい。
その一行を残したページを前にして、
何かがまだ終わっていない気がしていた。
カレンダーをめくると、そこには「3月4日」と書かれていた。
ちょうど22年前の今日、
自分はこの世界に生まれた。
「誕生日」という言葉を、彼は長い間避けていた。
祝われることに居心地の悪さを覚え、
生まれたことが“よかった”と心から思えたことは一度もなかった。
だが、今年は少し違った。
彼はノートの隣に、一枚の便箋を取り出した。
白く、何の装飾もない紙。
封筒には、ただ小さく「二十歳の僕へ」とだけ書かれていた。
手を止めて少し笑う。
――ずいぶんと時間がかかった。
あの頃の自分に、今なら言葉をかけられるかもしれない。
理生はペンを手に取り、
ゆっくりと便箋に文字を刻み始めた。
⸻
二十歳の僕へ。
君は今、大学の診療所の白い部屋で座っているのかもしれない。
医師の口から「うつ病」という言葉を聞いて、
その瞬間、世界がすべて曇ったように感じているだろう。
君はあのとき、こう思ったね。
――自分はもう普通には戻れない、と。
でもそれは違っていた。
“普通”なんてものは、誰の中にも存在しなかったんだ。
あの言葉が君を縛ったのは、
世界が名づけによってできているからだ。
名前を与えられると、人はその名前の形に沿って生きようとする。
けれど本当は、
名づけられたあとにも、沈黙の余白が残っていたんだ。
そこに、君自身がいた。
君は何度も死にたいと思った。
誰にも言えず、ただ布団の中で夜をやり過ごした。
でも、その夜を越えたという事実が、
君の中に小さな希望を残していた。
その希望は、まだ名前を持たないままだったけれど。
君はあの後、たくさんの哲学書を読んだね。
幸福論、倫理学、実践理性批判。
言葉を追うたびに、
自分がどんどん遠くへ行ってしまう気がしただろう。
それでもページをめくることをやめなかったのは、
君がまだ、世界を信じたかったからだ。
幸福とは何か、と君は問い続けた。
だがその問いの中で、
幸福を“定義する”ことよりも、
“幸福を問い続けられること”の方が
ずっと人間的だということに、
君はまだ気づいていなかった。
愛することに怯え、
人と関わることに疲れ、
それでも誰かの笑顔を見て心が揺れたなら、
その瞬間こそ、幸福だったんだ。
幸福とは、痛みを消すことじゃない。
痛みを抱えながらも、
世界に「はい」と言える心のことだ。
だから、もう無理に答えを探さなくていい。
幸福の定義は、空白のままでいい。
その空白を恐れないで。
そこにこそ、
君という存在の可能性が宿っているのだから。
二十二歳の僕より。
⸻
理生はペンを置き、便箋を見つめた。
その文字がまるで他人の書いたもののように見えた。
手紙を書いていたのは自分なのに、
そこにいた“僕”は、すでに彼の中の誰かではなかった。
過去の自分と現在の自分のあいだに、
ようやく小さな橋が架かったような気がした。
彼は便箋を折り、封筒に入れた。
封はしなかった。
この手紙は誰にも送らない。
送る必要がなかった。
それでも、書くことで確かに“届く”ものがあると感じた。
書くことは、対話だ。
そして、幸福をめぐる対話とは、
過去と現在の自分が互いを赦し合う行為なのだと思えた。
窓を開けると、春の風が部屋を通り抜けた。
机の上の便箋がふわりと揺れ、
一枚の紙が床に落ちた。
それは、昔書きかけたままのメモだった。
“幸福とは、痛みのない状態ではなく、痛みに意味を見いだすこと。”
その文字を見て、理生は小さく笑った。
あの頃の自分も、すでに答えを知っていたのかもしれない。
ただ、それを信じる勇気がなかっただけだ。
――幸福の定義を知らないままでいい。
それはもはや諦めの言葉ではなかった。
それは、未完であることの肯定だった。
幸福を定義することは、
世界を閉じることに似ている。
だが、生きるとは、閉じずに開いておくことだ。
幸福は、完成ではなく関係の継続の中にある。
他者との、過去との、そして自分との。
理生は便箋をもう一度取り出し、
最後の一行を追加した。
> P.S. もし君がまだ生きているなら、それだけで十分だ。
書き終えたあと、ペンを置いた手の震えが止まらなかった。
涙が静かに頬を伝い、便箋の端を濡らした。
そのしずくが乾くまで、
理生は何もせず、ただ光の中で目を閉じていた。
部屋の中に漂う午後の匂い。
時間が、ゆっくりと進んでいる。
幸福とは、この“進行”そのものなのかもしれない――
そう思いながら、理生は椅子にもたれた。
窓の外では、子どもの笑い声がした。
その音が、どこか遠くの記憶を呼び覚ます。
笑い声の向こうに、
まだ見ぬ誰かの未来が確かに存在している。
理生はそっと微笑んだ。
幸福の定義を知らないままでいい。
その言葉を、今度は声に出してみた。
小さく、しかし確かに。
声は空気を震わせ、静かな午後の光の中に溶けていった。
便箋を封筒に戻し、机の引き出しにしまった。
それはもう、過去への手紙ではなかった。
むしろ、未来への約束のように感じられた。
理生は立ち上がり、窓の外を見た。
夕方の光が街を染めている。
人々が歩き、笑い、何かを語り合っている。
その光景を見て、理生は思った。
幸福とは、他者の中で生き続けるものだ。
自分の痛みの内側ではなく、
誰かの笑顔の余白にこそ宿る。
――幸福は、いつも少し遠くにある。
だが、それがいい。
近すぎたら、息が詰まってしまうから。
カーテンの隙間から、夕陽が差し込んだ。
机の上の封筒がその光を受け、
淡く輝いた。
理生はその光景を目に焼きつけながら、
静かに呟いた。
「ありがとう、あの頃の僕。」
その声は、もう震えていなかった。
確かに、彼は“幸福”を生きていた。
定義されないまま、
それでも、確かにそこに在る幸福として。




