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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
終章 ―「幸福の定義を知らないままでいい」
23/26

二十二歳の朝

 夜と朝のあいだにある、あの静けさが好きだった。

 世界がまだ夢の中にあり、呼吸だけがかすかに生を証明している時間。

 理生はその静寂の中で目を覚ました。


 時計は午前四時五十五分を指していた。

 目覚ましは鳴っていない。

 だが、心臓の鼓動がいつもより少し速い。

 それが、彼を現実へと引き戻した。


 天井の白がゆっくりと明るみを帯びていく。

 まだ夜なのか、もう朝なのか分からないその境界の光の中で、

 理生はしばらく身じろぎもせずにいた。

 「今日で、二十二歳か。」

 誰に向けるでもなく、小さく呟いた。


 それは“祝福”ではなく、“確認”に近い言葉だった。

 生き延びている――ただその事実を確かめるように。

 大学に入学した頃、自分が二十二歳まで生きている姿を想像できなかった。

 うつ病の診断、薬、病院、孤独、痛み。

 その一つひとつが自分の時間を削っていくように感じていた。


 しかし、いま、彼は確かに呼吸をしている。

 胸の奥で、まだ心臓が動いている。

 その鼓動が、何かの意味をもっているかどうかは分からない。

 けれど、その“分からなさ”こそが生の証であるように思えた。


 ベッドからゆっくりと起き上がり、足を床につけた。

 冷たい空気が足裏を刺す。

 外はまだ暗い。

 窓の外に目をやると、遠くの街灯がいくつか、

 霧の中でぼんやりと光っていた。

 理生はカーテンを少しだけ開けた。

 朝の匂いが微かに流れ込む。


 窓を開けると、冷たい風が顔に触れた。

 その冷たさの中に、かすかな温度があった。

 冬が去りきらない春――

 凍りついた時間が少しずつ解けていくような空気だった。


 理生はそのままベランダに出た。

 薄いシャツ一枚のまま、両手を柵に置き、空を見上げる。

 東の空がわずかに白み始めていた。

 空気は冷たく、肺の奥まで透き通っていく。

 胸が痛いほどの冷気を吸い込みながら、

 彼は小さく呟いた。


 「……まだ、生きている。」


 それは、まるで祈りのようだった。

 世界が自分を拒まなかったという、ただそれだけの安堵。

 幸福とは、きっとこの“確かめる瞬間”なのだろう。

 生がまだここにあるという、

 それだけのことが、理由を超えて意味を持つ。


 ベランダの隅に小さな鉢植えがあった。

 彼女が春の頃にくれた植物。

 冬の間は枯れてしまったように見えたが、

 今は小さな芽が土の隙間から顔を出していた。

 理生は膝をつき、その芽を指でそっと撫でた。

 葉の先に、朝露がひとつ光っていた。

 光はまだ弱い。

 けれど、それだけで十分だった。


 部屋に戻り、湯を沸かした。

 ケトルが静かに音を立て始める。

 湯気が立ちのぼり、カップの中でゆらゆらと漂う。

 理生はカップを手に取り、

 小さく息を吐いた。

 手のひらに伝わる温度が、生の実感だった。


 机の上には、いつものノートが開かれていた。

 ページの端には、書きかけの一文が残っている。

 > 「幸福とは、痛みを持ってなお善を志すこと。」

 その下に新しい空白が広がっていた。

 理生はペンを取り、

 その白い余白の上にゆっくりと文字を刻んだ。


 > 「幸福の定義を知らないままでいい。」


 その言葉を書き終えたとき、

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 幸福とは、答えではなく、

 この“ほどける感覚”のことかもしれない。

 定義を失っても、意味は消えない。

 むしろ、言葉を離れた場所にこそ、生の温度が残る。


 理生はペンを置き、目を閉じた。

 そのまま深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 呼吸の音が、部屋の静けさに溶けていく。


 ――幸福は、もはや「分かるもの」ではない。

 それは、「在るもの」だ。


 外が少しずつ明るくなっていく。

 朝の光が、白い壁に柔らかく反射していた。

 カーテンを全て開けると、

 光が部屋いっぱいに流れ込んできた。

 机の上のノート、マグカップ、

 そして鉢植えの小さな芽。

 すべてが等しく照らされている。


 その瞬間、理生は初めて思った。

 世界は、自分の理解を必要としていない。

 幸福もまた、定義されることを望んでいない。

 それらはただ、在る。

 そして、“在ること”こそが美しい。


 光に包まれた部屋の中で、

 理生は椅子に座ったまま、静かに笑った。

 頬を伝うものがあったが、それを拭おうとはしなかった。

 涙はもう悲しみではない。

 それは、言葉が尽きたあとの“生のあたたかさ”だった。


 カップの中の湯気が消えるころ、

 外の空は完全に青くなっていた。

 遠くで通学する学生の声が聞こえた。

 その響きが、確かに現実を告げていた。

 理生は深く息を吸い、

 ゆっくりと立ち上がった。


 もう一度ベランダに出る。

 朝の光がまっすぐに差し込んできた。

 目を細めながら、空を見上げる。

 雲の切れ間から覗く太陽は、

 何も言わずにそこにあった。


 「……ありがとう。」


 誰に向けたのか分からない。

 ただその一言が、

 胸の奥に染み渡るように広がった。

 それは世界への言葉でもあり、

 過去の自分への言葉でもあった。

 生き延びてきたすべての時間へ向けた、

 静かな感謝の祈りだった。


 理生はベランダの柵に手を置いたまま、

 ゆっくりと目を閉じた。

 風が頬を撫で、髪を揺らした。

 その風の中に、

 彼女の声のような気配が確かにあった。


 ――幸福とは、語りえぬもの。

 それでも、生きている限り、人はそれを語ろうとする。

 その“語ろうとすること”こそが、幸福のかたちなのだろう。


 目を開けると、光が世界を満たしていた。

 新しい一日が、静かに始まっていた。

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