未来の自分の回想 Ⅴ
――二十二歳の春、僕はもう一度「幸福」という語の意味を考えていた。
それはもはや、哲学のテーマでも、卒業論文の題目でもなかった。
それは“生きてきた時間の痕跡”そのものとして、静かに僕の中に残っていた。
大学の屋上から見える景色は、四年前と変わらない。
キャンパスの先には同じ街並みが広がり、風はまだ少し冷たい。
けれど、自分の見ている世界はもう同じではなかった。
同じ風景の中に、かつては見えなかった“層”のようなものが浮かび上がっている。
それは、痛みと喪失と、それでもなお続いていく時間の透明な積層だった。
――幸福とは、あるいはその層の厚みによって測られるものなのかもしれない。
昔の僕は、幸福を「状態」として求めていた。
“うまくいくこと”“満たされること”“痛みがないこと”――
幸福とは、そういう“静止”のかたちだと信じていた。
しかし今思う。幸福とは、むしろ運動だ。
痛みの中でも、なお善を志し、他者を想い、生き続けようとする力。
それは定義ではなく、生の方向性そのものだ。
論文を書き終えたあとも、僕の体調は相変わらずだった。
季節の変わり目には熱が出て、夜は眠れない日が続いた。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
痛みはもはや“敵”ではなかった。
痛みは、世界と僕とをつなぐ糸だった。
この痛みがある限り、僕はまだ生の中にいるのだと分かった。
ある晩、机に向かいながら、僕はふと思った。
幸福とは、もしかすると**「自分が生きていると気づく瞬間」**ではないか。
その瞬間は、苦痛のただなかにこそ訪れる。
幸福は“痛みの否定”ではなく、“痛みの中での同意”なのだ。
ふと、恩師の言葉を思い出した。
「君はまだ、問いの途中にいる。」
その言葉は今も、僕の呼吸のように胸の奥で響いている。
幸福の定義は、きっと永遠に完結しない。
だが、その未完こそが、人間であることの証なのだろう。
僕は今、幸福を“到達点”ではなく、“持続の形式”として考えている。
それは、理解できない他者を愛し続けること、
終わりを知りながらも生を続けること、
痛みによって形を変えながらも、なお意味を求め続けること。
幸福とは、その“続けること”の中にある。
かつて、彼女が言った。
――「触れようとすることのほうが幸福に近い。」
あの言葉の意味が、今ようやく分かる。
幸福とは、決して触れられないものに手を伸ばす運動。
届かないという事実が、幸福を形づくる。
もしそれに届いてしまえば、それはもう“幸福”ではなくなるのだ。
哲学者レヴィナスは言う。
> 「幸福とは、他者に対して責任を負うことの中でのみ現れる。」
この言葉を初めて読んだとき、僕は涙が出た。
幸福は個人の内部に閉じるものではない。
幸福とは、他者の存在に開かれている“関係”そのものなのだ。
他者を思うとき、そこに痛みが生じる。
けれど、その痛みの中にこそ、幸福の可能性は息づいている。
幸福の“可能性”という言葉が、僕は好きだ。
それは、完全な形を持たない。
いつも揺らぎ、変化し、掴もうとすればするほど遠ざかる。
けれど、そこには不思議な安らぎがある。
幸福は、完成ではなく約束なのだ。
まだ訪れていない未来への、小さな肯定の予感。
それを信じること――それが、今の僕にとっての幸福である。
卒業式の日、恩師が学生たちに言った。
「学ぶとは、希望の形式を保つことです。」
その言葉を聞いた瞬間、僕は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
学ぶこと、考えること、そして問い続けること。
それらはすべて、“希望を失わない方法”だったのだ。
式が終わり、校門を出ると、風が強かった。
桜の花びらが舞い、空を渦のように回っている。
その光景を見ながら、僕はふと空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し、遠くの街を白く照らしていた。
あの光は、かつての僕が求めていた“幸福”とは違う。
それは定義できない。
ただ、存在を確かめるために照らしている光だった。
僕は歩きながら、心の中でつぶやいた。
――幸福とは、名前を持たないまま、ここに在ること。
世界が痛みを含んでいる限り、幸福もまたそこに宿り続ける。
夜、部屋に戻ると、机の上に古いノートが置いてあった。
そこには、まだ20歳の僕の文字でこう書かれていた。
> 「幸福とは、痛みを持ってなお善を志すこと。」
その文字のかすれ具合を指でなぞりながら、
僕は小さく笑った。
あの頃の僕は、きっと苦しみながらも真剣だった。
今の僕なら、その下にこう書き加えるだろう。
> 「――そして、その志が続く限り、人は生きている。」
幸福は、結論ではない。
幸福とは、生が続いているという事実のかたち。
それ以上の定義は、きっといらない。
窓の外では、風が静かに吹いていた。
街の灯がひとつ、またひとつ消えていく。
それでも、空のどこかでかすかな星が光っている。
その光は、遠く、そして確かに今も届いている。
幸福とは、たぶん――その“届いている”ということなのだ。
たとえ自分が見えなくても、
誰かの世界のどこかで、何かが光を放っている。
それを信じて、生きていけること。
それが、幸福の可能性。




