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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
希望と記憶 ―「生きることの証」
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恩師との対話

 雪解けの音が、春の気配を知らせていた。

 校門の脇に積まれていた雪が少しずつ崩れ、道端を小さな水の筋が流れている。

 理生はその流れを眺めながら、ゆっくりと歩いた。

 胸の奥に微かな熱を感じる。

 それは病の予兆ではなく、思索が熟していくときのあの独特な熱だった。


 卒業論文の提出を終えた翌週、恩師の教授から一通のメールが届いた。

 ――「少し話そう。午後三時、研究室で。」

 短い文面だったが、その一行に温度があった。

 理生は小さな期待と不安を抱えながら研究室へ向かった。


 教授の研究室は、書物の香りで満ちていた。

 壁一面に並ぶ本棚、机の上には開きかけの『ニーチェ全集』と、折り目のついたノート。

 窓際の椅子に座る教授が、ゆっくりと顔を上げた。

 「理生くん、来たね。」

 声はいつものように穏やかだった。

 しかし、その瞳の奥には、言葉よりも深い“問い”が宿っているように見えた。


 「卒論、読みましたよ。」

 教授は一枚の紙を指で叩いた。

 「“幸福とは、痛みを持ってなお善を志すこと”――なかなか勇気のある定義ですね。」

 理生は少し照れたように笑った。

 「僕自身の体験から出てきた言葉です。たぶん、哲学というよりも…生の記録みたいなものかもしれません。」

 教授は頷いた。

 「哲学とは、そういうものですよ。」


 沈黙が訪れた。

 机の上の時計が秒を刻む音だけが聞こえる。

 教授はゆっくりと紅茶を注ぎながら、静かに言った。

 「理生くん、君の書く“幸福”には、形而上学的な香りがあるね。

  痛みを受け入れながら、それを意味に変えるという考え方――これは、もはや倫理を超えて存在論の問題です。」

 理生はその言葉に息を飲んだ。

 「存在論……ですか?」

 「そう。“幸福”を『何かを得る状態』としてではなく、『存在のあり方』として捉えるなら、

  それはもう“どう生きるか”という倫理ではなく、“どう在るか”という形而上学になる。」


 教授はノートの一ページを開き、そこに線を引いた。

 「君の文章には、“幸福とは痛みの形式を変える力である”とあったね。

  この“力(Kraft)”という語が重要なんだ。

  痛みそのものを消そうとするのではなく、形を変える。

  つまり、意味の変換を通じて現実を再構成する――

  それはまさに、哲学的実存の運動なんだ。」


 理生はその言葉を聞きながら、かすかに目を伏せた。

 自分が書いた言葉が、誰かによって“哲学”として読まれる。

 その事実が、不思議な救いとなって胸に沁みた。

 彼は小さく呟いた。

 「僕はただ、生きたかったんです。

  痛みの中でも、意味を見つけて生きたかった。」


 教授は静かに笑った。

 「それが哲学ですよ。

  哲学とは、死の誘惑に耐えながら、生を思考する営みです。」

 その言葉に、理生の喉の奥が熱くなった。

 思えば、大学に入ってからの二年間、

 彼はずっと“死なない理由”を探していた。

 幸福とは、生きる理由を見つけることだと信じていた。

 だが今、教授の言葉がその前提をやさしく裏返した。

 ――幸福とは、生きる理由がなくても生き続けること。


 教授は続けた。

 「君の書いた“痛み”というのは、単なる苦痛ではなく、“関係”の証だ。

  痛むということは、世界との接点があるということだからね。

  だからこそ、君の定義は正しい。“痛みを持ってなお善を志す”とは、

  世界への関係を断たないという宣言なんだ。」


 理生は少し目を見開いた。

 「断たない……」

 「そう。君の幸福論は“孤独の中の関係”なんだよ。

  幸福とは、他者がいなくても、他者の不在の中でなお関係を続けることだ。

  それを私は“倫理の持続”と呼びたい。」


 教授の言葉が、ゆっくりと理生の内側に沁み込んでいく。

 自分がこれまでの思索で掴みかけていたものの正体が、

 ようやく明るみへと出てくるような感覚だった。


 「君はまだ若い。

  思考というのは、成熟よりも継続を必要とする。

  だから――」

 教授は少し笑い、紅茶を一口飲んだ。

 「――君はまだ、問いの途中にいる。」


 その一言が、理生の胸を深く打った。

 問いの途中。

 それは敗北でも停滞でもない。

 むしろ、生き続ける者だけに与えられる特権のように思えた。


 「先生、僕……まだ分からないんです。

  幸福が何なのか、本当には。」

 教授は頷いた。

 「それでいい。哲学は“分からない”を守る学問だ。

  幸福を定義できないことが、幸福そのものの証明かもしれないよ。」


 理生は目を閉じた。

 心の奥で、微かに光が揺れていた。

 それは、失われた恋の残光でもあり、思索という火でもあった。

 その両方が共にあることこそが、生きているということなのだろう。


 研究室を出ると、夕暮れの空が広がっていた。

 遠くの建物の輪郭がオレンジ色に染まり、

 地面には淡い影が伸びていた。

 理生はポケットに手を入れ、深く息を吸った。

 冷たい空気の中に、どこか甘い匂いが混じっていた。

 ――幸福とは、答えを持たないまま、生を続けること。


 その言葉を胸の中で繰り返しながら、

 理生はゆっくりと歩き出した。

 彼の足跡が、夕陽に照らされて淡く光った。

 それは、消えかけながらも確かに存在する、“問いの道”だった。

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