沈黙の待合室
あの日の空気の冷たさを、今でも鮮明に覚えている。
三月の終わり、桜の蕾がほころび始めた通りを歩きながら、理生は何度も立ち止まった。呼吸が浅く、胃のあたりが重く痛んだ。体のどこかが壊れているのは確かだった。けれど、どこが、なぜ、どのように悪いのか、それを言葉にすることができなかった。
食べられない。眠れない。朝になるのが怖い。そんな日々が二か月ほど続いていた。友人に「病院に行け」と言われ、理生は渋々、大学の近くにある小さな精神科クリニックへ足を運んだ。
白い壁、消毒液の匂い、時計の針が刻む音。
受付を済ませてから三十分、理生は無言のまま待合室の椅子に座っていた。
向かいの席では中年の男性が雑誌を読んでいる。隣には若い女性がスマートフォンを握りしめたまま、うつむいていた。ここにいる全員が、何かを失いかけているように見えた。
理生は手のひらに浮かぶ汗をぬぐい、足元を見つめた。
世界が静まり返っている。時計の音だけが、かすかに「生きている」と告げていた。
壁に掛けられたテレビでは、昼のワイドショーが流れていた。
〈春の新生活特集〉。新しいスーツに身を包んだ学生たちが、笑顔でインタビューに答えている。
その光景が、理生には遠い別の世界のように見えた。
ほんの一年前、自分も同じように笑っていた。新しいノートを買い、哲学史の講義を楽しみにしていた。
それなのに今は、光のすべてが自分の外にあるような気がする。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には、友人からの短いメッセージ。
――診断、頑張れ。
その言葉を見た瞬間、理生は小さく息を吐いた。
“頑張る”という言葉が、まるで別の言語のように感じられた。
「理生さん、どうぞ。」
名前を呼ばれた瞬間、胸がわずかに跳ねた。
診察室の扉を開けると、白衣の医師がパソコンの画面を見つめていた。
「最近の体調はどうですか?」
「……眠れないんです。」
「どのくらい続いていますか?」
「二か月くらいです。」
医師は淡々と質問を続けた。食欲、集中力、気分の波、焦燥感。
理生は一つひとつ答えながら、どこか遠くで誰かが代わりに話しているような気がした。
やがて医師は、画面から視線を上げて、静かに言った。
「うつ病ですね。」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が止まった。
うつ病。
たった三文字の言葉が、世界を塗り替えた。
医師の説明は続いていた。薬の種類、服用の時間、次回の予約。
だが理生の耳には何も届いていなかった。
診断書に印字された自分の名前と「うつ病」という文字を見つめたとき、
その二つが結びつくことが、恐ろしくて仕方なかった。
診察を終え、再び待合室に戻ると、受付の女性が「お大事に」と微笑んだ。
理生は軽く会釈をし、外へ出た。
春の光がやけにまぶしかった。
「お大事に」という言葉が、まるで“治ることを前提にした祈り”のように聞こえた。
だが理生は、その前提に自分が含まれていないことを直感した。
通りを歩く人々の顔が、どこか薄く、現実味を失っていた。
街路樹の枝で桜の蕾が揺れる。その小さな動きさえ、遠い出来事のようだった。
途中のコンビニで水を買い、レジの女性の「ありがとうございます」という声を聞いた瞬間、
理生の喉の奥が詰まった。
たったそれだけの言葉が、届かない世界に自分がいることを実感させた。
家に帰ると、母がキッチンで皿を洗っていた。
「どうだった?」
理生は答えず、処方箋の紙を差し出した。
母は短くうなずいた。それ以上、何も聞かなかった。
沈黙の中で、水の流れる音だけが響いていた。
食卓の上では味噌汁の湯気が揺れていたが、理生は箸を持たず、部屋へ戻った。
机の上には、開いたままの哲学史ノートがあった。
数日前の講義で書き留めたメモの最後に、こうあった。
> 「幸福とは、欲求が満たされている状態である(アリストテレス)」
理生はしばらくそれを見つめ、ゆっくりとペンを取った。
> 「では、満たされない人間は、生きていないのか?」
ペン先が震え、文字が歪んだ。
その夜、理生は何度も目を覚ました。
夢の中で、医師の声が繰り返された。
――うつ病ですね。
――うつ病ですね。
目を開けるたびに、心臓の鼓動が耳の奥で鳴った。
それが、唯一確かな「生の証」だった。
翌朝、カーテンを開けると光が部屋に流れ込んだ。
鳥の声が聞こえ、外の世界は昨日と変わらず動いていた。
ただ一つ違うのは、自分の中に「名前」が宿ったこと。
それは病名であり、同時に、新しい生き方の呼び名でもあった。
理生はノートを開き、空白のページに小さく書いた。
> 「幸福とは、何か。」
その文字を見つめながら、彼は静かに息を吐いた。
それが、すべての始まりだった。




