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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
希望と記憶 ―「生きることの証」
19/26

卒業論文のテーマ

 大学四年の春、桜は散る前よりも美しかった。

 花びらが舞うたびに、理生はその一枚一枚に時間の名残を見た。

 花が落ちるのではなく、時間が剥がれていくように感じた。

 それは、彼の中にまだ沈んでいた“別れの痛み”の形をしていた。


 春休みが終わり、キャンパスに再び学生が戻ってきた。

 新入生の声が廊下に響き、掲示板にはゼミ配属と卒業論文の案内が並んでいた。

 理生はしばらく立ち止まり、「卒業論文テーマ提出」と書かれた掲示に目をやった。

 提出期限は来週。

 けれど、頭の中はまだ、彼女の声と沈黙が混ざり合ったままだった。


 ――幸福とは何か。

 その問いが、また静かに蘇る。

 あの夜、言葉にならなかった感情が、今もどこかで疼いていた。

 しかしそれはもう、かつてのような絶望ではなかった。

 むしろ、その痛みの奥に“意味の輪郭”が見え始めていた。


 哲学のゼミ室に入ると、窓際に座っていた教授が顔を上げた。

 白髪混じりの髪を後ろで束ね、古びたジャケットを羽織っている。

 「久しぶりだな、理生くん。」

 声は穏やかで、どこか透き通っていた。

 理生は軽く会釈した。


 教授はコーヒーカップを指で転がしながら言った。

 「もうすぐ四年生か。卒論はどうする?」

 理生は少し考え込んだ。

 そして、ゆっくりと答えた。

 「“幸福”について書きたいんです。」

 教授の目が細くなった。

 「幸福か。良いテーマだ。だが、危険でもある。」

 「危険……ですか?」

 「幸福という言葉は、人をすぐに安心させる。

  だが、哲学において“安心”は思考を止める毒になるんだ。」


 理生はその言葉に静かに頷いた。

 教授は続けた。

 「幸福を考えるなら、“痛み”から始めなさい。

  痛みのない幸福を語る者は、世界の半分しか見ていない。」

 その瞬間、理生の胸の奥で何かが鳴った。

 まるでその言葉が、自分の過去を見透かしているかのように。


 講義室の時計が静かに時を刻んでいた。

 理生はノートを開き、一行目にこう書いた。

 > 「幸福とは、痛みを持ってなお善を志すこと。」

 その文字を見つめながら、手が少し震えた。

 これは彼が初めて“自分の言葉”として書いた定義だった。

 これまで引用や模倣に頼ってきた彼のノートの中で、

 この一行だけは、まるで呼吸のように自然に書かれていた。


 教授は理生のノートを覗き込み、小さく頷いた。

 「……いいじゃないか。それは、まさに君自身の定義だな。」

 「自分の?」

 「そう。哲学は他人の答えを探す学問じゃない。

  自分の痛みを概念に変える作業だ。」

 理生はその言葉を、胸の奥で何度も繰り返した。

 痛みを概念に変える――。

 それは、彼にとって初めて“救い”という言葉が意味を持った瞬間だった。


 ゼミが終わると、理生は図書館へ向かった。

 入り口の扉を押し開けると、紙とインクの匂いが漂った。

 静寂が空気の中に積もっている。

 奥の書架で、彼は“倫理学”“幸福論”“実践理性”と書かれた背表紙を次々に指でなぞった。

 ベンサム、ミル、カント、アリストテレス、そしてフッサール――。

 名前の羅列が、まるで人間の苦悩の系譜のように見えた。


 彼はカントの『実践理性批判』を手に取った。

 ページをめくると、そこに一文が目に留まった。

 > 「幸福に値する者となれ。」

 その短い命令形が、彼の胸に響いた。

 幸福は、求めるものではなく、“値する”もの。

 つまり、行為と倫理によって獲得される生の姿勢なのだ。


 理生はそのページにそっと指を添えた。

 彼女のことが思い出された。

 “他者を自由にすること”と書かれた付箋。

 あの夜の彼女の横顔。

 幸福に“値する”ということは、

 たぶん、彼女が願っていた生き方そのものだった。


 閉館時間のアナウンスが流れた。

 理生はノートを閉じ、静かに図書館を出た。

 外は、春の夜気がわずかに冷たく、街路樹が微かに揺れていた。

 その揺れを見ながら、ふと、心の中に小さな灯が灯るのを感じた。

 それは、彼女の残した光と、哲学という新しい希望が交差する瞬間だった。


 帰宅後、机に向かい、パソコンを開いた。

 ファイル名を「卒業論文_幸福論」と打ち込み、保存する。

 画面に表示されたタイトルを見つめながら、

 理生は静かに微笑んだ。


 ――幸福は、もう定義するものではない。

 それは、生きる行為そのものの中で、

 少しずつ形を変えながら現れるものなのだ。


 外では風が止み、夜が深く息をしていた。

 その静けさの中で、理生は久しぶりに思った。

 「生きる」という言葉が、少しだけ温かい。

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