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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
愛と他者 ―「君がいない世界」
18/26

未来の自分の回想 Ⅳ

 ――二十二歳の春、僕はあの夜の夢を見た。


 雨の匂いと、傘の下のわずかな距離。

 彼女が「君の香りが好きだった」と言ったときの声。

 その言葉が、今でも胸の奥の、ある静かな場所に残っている。


 当時の僕は、幸福を“共有できるもの”と信じていた。

 他者と感情を分かち合うこと、理解し合うこと、触れ合うこと。

 けれど、別れの夜の沈黙の中で、

 幸福はむしろ“隔たり”の中に宿るものだと知った。

 その距離を壊さないことこそ、他者への礼儀であり、

 愛の最後のかたちだった。


 あの夜以来、僕は「幸福」という語を安易に使えなくなった。

 幸福は、誰かを救う言葉ではなく、

 誰かを失ってもなお、その存在を肯定する力――

 そう言い換えたほうが正確に思えた。


 彼女と過ごした時間を思い出すとき、

 僕はいつも“距離”という言葉に行き着く。

 近づこうとするたびに、世界は僕の前で静かに後退した。

 その後退の中に、

 他者という存在の不可知性があった。


 レヴィナスの言葉を借りれば、

 他者とは「顔(visage)」を通して現れる存在である。

 顔とは単なる表情ではなく、

 その向こうに“無限”を映す窓のようなものだ。

 僕が彼女を見つめたとき、

 そこにあったのは“理解できない無限”だった。

 彼女の瞳の奥に、僕は世界の終わりと始まりを見た。

 触れることも、所有することもできないもの。

 その距離こそが、愛の本質だったのかもしれない。


 レヴィナスは言う。

 > 「他者とは、常に私を超える存在である。

 > その超越性において、倫理が始まる。」


 この言葉を初めて読んだとき、

 僕はあの夜の光景を思い出した。

 彼女の沈黙、別れ際の背中、

 そして“ありがとう”という声。

 それは悲しみではなく、祈りだった。

 僕はその祈りに対して、何も返せなかった。

 だが今なら分かる。

 “何も返せない”というその事実こそ、

 愛の根源的な形式なのだと。


 愛するとは、他者に対して責任を負うこと。

 だがその責任は、見返りを求めるものではない。

 幸福を“共に持つ”ためではなく、

 他者が他者として存在し続けられるために、

 自らの心を差し出すこと。


 彼女が去った夜、僕は深い喪失を感じた。

 それは単なる別れの悲しみではなく、

 自分の中の“意味の構造”が崩れる感覚だった。

 けれど、その崩壊の中でこそ、

 僕は世界の深い呼吸を感じた。

 ――この世界は、僕の幸福のためにあるのではない。

 他者の生のために、僕の存在があるのだ。


 そう気づいたとき、

 愛は一つの“形而上学”となった。

 愛とは、感情の領域ではなく、存在論の問題。

 他者の存在を、無条件に“ある”と認めること。

 その承認のなかで、人は初めて倫理的に生きる。


 幸福とは、愛の成功ではなく、

 その失敗を受け入れる能力だと今は思う。

 他者を理解できず、救えず、失う。

 それでもなお、

 その他者がこの世界のどこかで生きていることを信じる。

 その“信”の持続こそが、幸福の原型である。


 僕は今も、彼女の名を呼ぶことができない。

 名前を呼ぶことは、彼女を再び“定義”してしまうことだから。

 彼女は僕にとって、

 理解不能な存在としての“他者”の象徴になった。

 愛が終わっても、他者は終わらない。

 その永遠の距離が、

 僕の世界を支える透明な構造になった。


 だから今、僕はこう書き残しておきたい。


 > 「愛とは、他者の存在を“理解せずに肯定する”行為である。」


 この言葉を紙に記したとき、

 僕はようやく、あの夜の沈黙に応答できた気がした。

 彼女の沈黙は、別れではなく、問いだったのだ。

 “あなたは、私の不在を受け入れられるか?”

 僕は今、その問いにゆっくりと頷くことができる。


 幸福とは、

 他者の不在に対してもなお生を続ける勇気である。

 それは静かな倫理のかたち。

 痛みの奥に芽吹く、小さな光のようなもの。


 そして今、

 彼女を思い出すとき、悲しみはもうない。

 ただ、やわらかな呼吸のような感覚が残る。

 彼女が生きているかどうかは分からない。

 けれど、世界のどこかで誰かが笑っているとき、

 その笑顔の片隅に、

 彼女の光が混じっているような気がする。


 幸福とは、たぶんそういうことだ。

 誰のものでもなく、

 しかし確かに誰かを照らす光。

 愛の不在を経て、ようやく見える世界の輪郭。

 僕は今、その輪郭を“他者の顔”と呼ぶ。


 そして、静かにページを閉じる。

 幸福の定義は、まだ空白のままだ。

 だが、その空白の中にこそ、

 生の意味が息づいている。

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