未来の自分の回想 Ⅳ
――二十二歳の春、僕はあの夜の夢を見た。
雨の匂いと、傘の下のわずかな距離。
彼女が「君の香りが好きだった」と言ったときの声。
その言葉が、今でも胸の奥の、ある静かな場所に残っている。
当時の僕は、幸福を“共有できるもの”と信じていた。
他者と感情を分かち合うこと、理解し合うこと、触れ合うこと。
けれど、別れの夜の沈黙の中で、
幸福はむしろ“隔たり”の中に宿るものだと知った。
その距離を壊さないことこそ、他者への礼儀であり、
愛の最後のかたちだった。
あの夜以来、僕は「幸福」という語を安易に使えなくなった。
幸福は、誰かを救う言葉ではなく、
誰かを失ってもなお、その存在を肯定する力――
そう言い換えたほうが正確に思えた。
彼女と過ごした時間を思い出すとき、
僕はいつも“距離”という言葉に行き着く。
近づこうとするたびに、世界は僕の前で静かに後退した。
その後退の中に、
他者という存在の不可知性があった。
レヴィナスの言葉を借りれば、
他者とは「顔(visage)」を通して現れる存在である。
顔とは単なる表情ではなく、
その向こうに“無限”を映す窓のようなものだ。
僕が彼女を見つめたとき、
そこにあったのは“理解できない無限”だった。
彼女の瞳の奥に、僕は世界の終わりと始まりを見た。
触れることも、所有することもできないもの。
その距離こそが、愛の本質だったのかもしれない。
レヴィナスは言う。
> 「他者とは、常に私を超える存在である。
> その超越性において、倫理が始まる。」
この言葉を初めて読んだとき、
僕はあの夜の光景を思い出した。
彼女の沈黙、別れ際の背中、
そして“ありがとう”という声。
それは悲しみではなく、祈りだった。
僕はその祈りに対して、何も返せなかった。
だが今なら分かる。
“何も返せない”というその事実こそ、
愛の根源的な形式なのだと。
愛するとは、他者に対して責任を負うこと。
だがその責任は、見返りを求めるものではない。
幸福を“共に持つ”ためではなく、
他者が他者として存在し続けられるために、
自らの心を差し出すこと。
彼女が去った夜、僕は深い喪失を感じた。
それは単なる別れの悲しみではなく、
自分の中の“意味の構造”が崩れる感覚だった。
けれど、その崩壊の中でこそ、
僕は世界の深い呼吸を感じた。
――この世界は、僕の幸福のためにあるのではない。
他者の生のために、僕の存在があるのだ。
そう気づいたとき、
愛は一つの“形而上学”となった。
愛とは、感情の領域ではなく、存在論の問題。
他者の存在を、無条件に“ある”と認めること。
その承認のなかで、人は初めて倫理的に生きる。
幸福とは、愛の成功ではなく、
その失敗を受け入れる能力だと今は思う。
他者を理解できず、救えず、失う。
それでもなお、
その他者がこの世界のどこかで生きていることを信じる。
その“信”の持続こそが、幸福の原型である。
僕は今も、彼女の名を呼ぶことができない。
名前を呼ぶことは、彼女を再び“定義”してしまうことだから。
彼女は僕にとって、
理解不能な存在としての“他者”の象徴になった。
愛が終わっても、他者は終わらない。
その永遠の距離が、
僕の世界を支える透明な構造になった。
だから今、僕はこう書き残しておきたい。
> 「愛とは、他者の存在を“理解せずに肯定する”行為である。」
この言葉を紙に記したとき、
僕はようやく、あの夜の沈黙に応答できた気がした。
彼女の沈黙は、別れではなく、問いだったのだ。
“あなたは、私の不在を受け入れられるか?”
僕は今、その問いにゆっくりと頷くことができる。
幸福とは、
他者の不在に対してもなお生を続ける勇気である。
それは静かな倫理のかたち。
痛みの奥に芽吹く、小さな光のようなもの。
そして今、
彼女を思い出すとき、悲しみはもうない。
ただ、やわらかな呼吸のような感覚が残る。
彼女が生きているかどうかは分からない。
けれど、世界のどこかで誰かが笑っているとき、
その笑顔の片隅に、
彼女の光が混じっているような気がする。
幸福とは、たぶんそういうことだ。
誰のものでもなく、
しかし確かに誰かを照らす光。
愛の不在を経て、ようやく見える世界の輪郭。
僕は今、その輪郭を“他者の顔”と呼ぶ。
そして、静かにページを閉じる。
幸福の定義は、まだ空白のままだ。
だが、その空白の中にこそ、
生の意味が息づいている。




