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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
愛と他者 ―「君がいない世界」
17/26

別れの夜

 その夜は、季節の境目のようだった。

 昼間の暖かさが嘘のように消え、風が一気に冷え込んでいた。

 大学の図書館を出ると、空は低く曇り、街灯がぼんやりと滲んでいた。

 理生は少し早足で駅へ向かっていた。

 彼女から「少し話したい」とメッセージが届いたのは、その数時間前だった。


 喫茶店の個室。

 彼女はすでに座っていて、手元のカップから湯気が立ちのぼっていた。

 髪は少し濡れていて、雨の匂いが微かにした。

 「待たせちゃってごめん」と理生が言うと、

 彼女は小さく首を振った。

 「ううん。来てくれてありがとう。」


 その声は、どこか遠くにあった。

 目の前にいるのに、少し離れたところから聞こえてくるような響き。

 沈黙が二人の間に広がった。

 カップの中のコーヒーが冷めていく。

 店内の時計の針が一分ごとに音を立てるのが聞こえた。


 彼女がゆっくりと口を開いた。

 「理生くん。……最近、考えることが多くて。」

 理生はうなずいた。

 その瞬間、胸の奥に小さなざわめきが走った。

 “ああ、これは終わりの前触れだ。”

 身体が先に理解していた。


 「ねえ、私たち、たぶん違う場所を見てると思う。」

 「違う場所?」

 「うん。理生くんは“意味”を見てる。私は“感情”を見てる。

  同じことを話してるようで、少しずつズレていくの。」

 理生は黙っていた。

 彼女の言葉は、まるで冷たい水のようにゆっくりと胸に広がっていった。


 「君といる時間が嫌いだったわけじゃない。」

 「分かってる。」

 「でもね、理生くんの考える“幸福”は、たぶん私の求めてるものとは違うの。」

 彼女の目が少し潤んでいた。

 その目の奥に、どこか安らぎにも似た決意が見えた。


 理生は、何か言葉を探した。

 けれど、どんな言葉も、その沈黙の前では薄っぺらに思えた。

 言葉が届く前に、意味が崩れていくようだった。

 そして気づく――

 幸福を語るとき、彼はいつも“他者”を忘れていたのだ。

 幸福の定義を探し続けてきた彼は、

 いつしかその探求の中で、彼女という“世界の他側”を置き去りにしていた。


 「理生くん。」

 「うん。」

 「一緒にいるとね、私、自分の声が小さくなるの。」

 その言葉に、理生の喉が詰まった。

 彼女が言っているのは、たぶん“静けさ”のことではない。

 彼といることで、彼女の“私”が少しずつ消えていく――そのことだ。

 彼女は理生の沈黙を待たずに続けた。

 「私ね、君の考えること、全部好きだった。

  でも、君の考えに“私”がいないの。」


 彼女の言葉は、刃のように鋭く、それでいて優しかった。

 理生は視線を落とし、テーブルの木目を見つめた。

 その模様が、ゆっくりと波のように揺れているように見えた。

 「……ごめん。」

 それがやっと出た言葉だった。

 「ごめん」と言ったあと、彼は深く息を吐いた。

 言葉は軽い。だが、その軽さの中にしか救いはなかった。


 しばらく沈黙が続いた。

 外では雨が再び降り始めていた。

 ガラス越しに見える街の灯が、ぼやけて滲んでいく。

 その光のにじみが、彼女の横顔に重なった。


 「理生くん。」

 「うん。」

 「君の香り、好きだったよ。」

 その言葉はあまりに静かで、まるで祈りのようだった。

 理生は顔を上げた。

 彼女は微笑んでいた。

 悲しみと安堵が同じ場所に共存しているような笑みだった。


 その瞬間、理生はようやく理解した。

 幸福は“共有”ではなく、“別れの瞬間”にも宿るということを。

 愛するとは、他者を自分から解放すること。

 幸福とは、その痛みを受け入れる力のこと。


 喫茶店を出ると、夜風が冷たかった。

 駅までの道、二人は並んで歩いた。

 傘の中では、彼女の肩が少し震えていた。

 理生は何も言えなかった。

 それでも、歩く速度だけはぴったりと合っていた。


 駅前で足を止めると、彼女は振り向かずに言った。

 「ありがとう。ほんとに。」

 理生はうなずいた。

 声を出すと何かが壊れそうだった。

 電車がホームに入る音が響く。

 彼女は改札を通り、振り向かずに階段を降りていった。


 その背中が人混みに紛れるまで、理生は立ち尽くしていた。

 風が吹き抜け、頬を冷たく撫でた。

 ふと、胸の奥で何かが静かに鳴った。

 悲しみではない。

 それは、愛が形を失ってなお響く“余韻”のようなものだった。


 帰宅すると、部屋の明かりがやけに白く感じた。

 机の上には、彼女と一緒に読んでいた『愛の現象学』が置かれていた。

 ページの間に、彼女が挟んだ小さな付箋が残っている。

 そこには鉛筆でこう書かれていた。


 > 「愛とは、他者を自由にすること。」


 理生はその文字を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。

 そしてその下に、自分の文字でこう書き加えた。


 > 「幸福とは、他者を失っても、その自由を信じられること。」


 ペン先が震え、インクが滲んだ。

 涙ではなかった。

 ただ、心の奥で何かが静かにほどけていった。


 夜が更けていく。

 窓の外の街は、まるで息をひそめているようだった。

 理生は灯りを消し、ベッドに横になった。

 目を閉じると、彼女の声がどこか遠くで響いていた。

 ――「触れようとすることのほうが幸福に近い」

 その言葉が、まるで子守歌のように心の奥で揺れていた。


 愛は終わった。

 けれど、幸福の定義は、まだ終わっていない。

 それどころか、今ようやく始まったようにさえ思えた。

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