触れられない距離
それからの数週間、理生と彼女はよく顔を合わせた。
ゼミの準備や課題の打ち合わせを理由に、図書館で並んで座ることが多かった。
話す内容はほとんどが哲学だった。
幸福、愛、倫理、自由――そのどれもが、彼らの心に深く関わる言葉だった。
ある日、彼女がノートの余白に書いた一文を、理生は何気なく目にした。
> 「他者を理解するとは、他者の沈黙を尊重すること。」
その言葉を見た瞬間、彼は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
自分がこれまで“理解”という名で他人を測ってきたことに気づいたからだ。
“幸福とは、他者の沈黙を一緒に聞くこと”――
自分が書いた言葉と、彼女の一文はどこか響き合っていた。
その日の夕方、彼女が言った。
「ねえ、たまには図書館じゃなくて外で話そう。」
理生は少し驚いたが、頷いた。
彼女が選んだのは、大学近くの喫茶店だった。
白い壁に小さな照明が灯る、静かな場所。
木のテーブルには、薄い光沢のあるカップが並んでいた。
彼女はカフェラテを頼み、理生はホットティーを選んだ。
窓の外では雨が降り出していた。
その音が、二人の間の沈黙を柔らかく包んだ。
「理生くんは、幸福って信じてる?」
突然の問いに、理生は息を詰めた。
「……どうだろう。信じるというより、探してる、かな。」
彼女は微笑んだ。
「私はね、幸福は“触れること”だと思ってた。でも最近、それが違う気がして。」
「どうして?」
「触れた瞬間に、壊れちゃうから。
だから、“触れようとする”ことのほうが幸福に近いのかも。」
その言葉は、理生の胸に静かに沈んだ。
触れることよりも、触れようとすること。
近づこうとする意志そのものが、幸福――。
それはまるで、彼女が自分の考えを先回りして語っているようだった。
理生はカップを持ち上げながら、
彼女の指先に視線を落とした。
白く細い指。
そこに“他者”としての現実があった。
彼は手を伸ばしたい衝動に駆られたが、同時に強い躊躇を感じた。
その距離を越えてしまえば、
彼女が“理解できない存在”であるという前提が崩れてしまう気がした。
会話の合間に、彼女が小さく笑った。
「ねえ、理生くんは、人を好きになったことある?」
理生は少し戸惑った。
「……分からない。好きって、どういう状態なんだろう。」
「分からないまま好きになることもあるよ。」
その言葉のあと、彼女は窓の外を見つめた。
雨脚が少し強くなり、街の光が滲んでいた。
理生はその横顔を見ながら、
なぜか胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
幸福は確かにここにある。
けれど、それを掴もうとすれば、たちまち崩れてしまうような脆さがあった。
帰り際、外は小雨になっていた。
彼女が傘を差し出し、「入る?」と聞いた。
理生はためらいながらも頷いた。
狭い傘の中で、彼女の肩がほんの少し触れた。
その距離が近すぎて、息がうまくできなかった。
彼女の香りが、雨の匂いと混ざっていた。
「今日は楽しかったね。」
「うん。」
「また話そう。」
理生はその言葉にうなずいた。
だが、胸の中では別の感情が渦を巻いていた。
――もっと知りたい。
でも、知りすぎたら、きっと何かが壊れる。
部屋に帰ってからも、その距離の感覚が消えなかった。
ベッドに横たわりながら、
彼女の声が耳の奥に残っていた。
「触れようとすることのほうが幸福に近い」――。
その言葉が、何度も反響した。
理生はゆっくりとノートを開き、ペンを取った。
> 「幸福とは、届かないものに手を伸ばすこと。」
書き終えた瞬間、心の中に冷たい痛みが走った。
幸福は、叶うことではなく、願い続けることなのかもしれない。
他者とは、完全には交わらない存在。
その事実が、美しくもあり、残酷でもあった。
眠る前、理生は小さな独り言をつぶやいた。
「……触れられない距離にも、意味はある。」
その声は、部屋の暗がりに吸い込まれていった。
窓の外では、雨の音が静かに続いていた。
彼女の沈黙と同じリズムで。




