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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
愛と他者 ―「君がいない世界」
16/26

触れられない距離

 それからの数週間、理生と彼女はよく顔を合わせた。

 ゼミの準備や課題の打ち合わせを理由に、図書館で並んで座ることが多かった。

 話す内容はほとんどが哲学だった。

 幸福、愛、倫理、自由――そのどれもが、彼らの心に深く関わる言葉だった。


 ある日、彼女がノートの余白に書いた一文を、理生は何気なく目にした。


 > 「他者を理解するとは、他者の沈黙を尊重すること。」


 その言葉を見た瞬間、彼は胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 自分がこれまで“理解”という名で他人を測ってきたことに気づいたからだ。

 “幸福とは、他者の沈黙を一緒に聞くこと”――

 自分が書いた言葉と、彼女の一文はどこか響き合っていた。


 その日の夕方、彼女が言った。

 「ねえ、たまには図書館じゃなくて外で話そう。」

 理生は少し驚いたが、頷いた。

 彼女が選んだのは、大学近くの喫茶店だった。

 白い壁に小さな照明が灯る、静かな場所。

 木のテーブルには、薄い光沢のあるカップが並んでいた。


 彼女はカフェラテを頼み、理生はホットティーを選んだ。

 窓の外では雨が降り出していた。

 その音が、二人の間の沈黙を柔らかく包んだ。


 「理生くんは、幸福って信じてる?」

 突然の問いに、理生は息を詰めた。

 「……どうだろう。信じるというより、探してる、かな。」

 彼女は微笑んだ。

 「私はね、幸福は“触れること”だと思ってた。でも最近、それが違う気がして。」

 「どうして?」

 「触れた瞬間に、壊れちゃうから。

  だから、“触れようとする”ことのほうが幸福に近いのかも。」


 その言葉は、理生の胸に静かに沈んだ。

 触れることよりも、触れようとすること。

 近づこうとする意志そのものが、幸福――。

 それはまるで、彼女が自分の考えを先回りして語っているようだった。


 理生はカップを持ち上げながら、

 彼女の指先に視線を落とした。

 白く細い指。

 そこに“他者”としての現実があった。

 彼は手を伸ばしたい衝動に駆られたが、同時に強い躊躇を感じた。

 その距離を越えてしまえば、

 彼女が“理解できない存在”であるという前提が崩れてしまう気がした。


 会話の合間に、彼女が小さく笑った。

 「ねえ、理生くんは、人を好きになったことある?」

 理生は少し戸惑った。

 「……分からない。好きって、どういう状態なんだろう。」

 「分からないまま好きになることもあるよ。」

 その言葉のあと、彼女は窓の外を見つめた。

 雨脚が少し強くなり、街の光が滲んでいた。


 理生はその横顔を見ながら、

 なぜか胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

 幸福は確かにここにある。

 けれど、それを掴もうとすれば、たちまち崩れてしまうような脆さがあった。


 帰り際、外は小雨になっていた。

 彼女が傘を差し出し、「入る?」と聞いた。

 理生はためらいながらも頷いた。

 狭い傘の中で、彼女の肩がほんの少し触れた。

 その距離が近すぎて、息がうまくできなかった。

 彼女の香りが、雨の匂いと混ざっていた。


 「今日は楽しかったね。」

 「うん。」

 「また話そう。」

 理生はその言葉にうなずいた。

 だが、胸の中では別の感情が渦を巻いていた。

 ――もっと知りたい。

 でも、知りすぎたら、きっと何かが壊れる。


 部屋に帰ってからも、その距離の感覚が消えなかった。

 ベッドに横たわりながら、

 彼女の声が耳の奥に残っていた。

 「触れようとすることのほうが幸福に近い」――。

 その言葉が、何度も反響した。


 理生はゆっくりとノートを開き、ペンを取った。

 > 「幸福とは、届かないものに手を伸ばすこと。」

 書き終えた瞬間、心の中に冷たい痛みが走った。

 幸福は、叶うことではなく、願い続けることなのかもしれない。

 他者とは、完全には交わらない存在。

 その事実が、美しくもあり、残酷でもあった。


 眠る前、理生は小さな独り言をつぶやいた。

 「……触れられない距離にも、意味はある。」

 その声は、部屋の暗がりに吸い込まれていった。

 窓の外では、雨の音が静かに続いていた。

 彼女の沈黙と同じリズムで。

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