出会い
春が始まっていた。
まだ風は冷たいが、空気の匂いは冬とは違っていた。
花粉が舞い、柔らかな光が校舎の壁に反射している。
理生はその光の中を、ゆっくり歩いていた。
通い慣れた大学の坂道も、どこか違って見えた。
新学期のゼミは初回から緊張していた。
「今年は個人発表を多くします」と教授が言い、
学生たちはざわついた。
理生は席の後ろのほうに座り、
ノートを開きながら無意識に隣の椅子を見た。
そこに彼女がいた。
肩までの髪を後ろでまとめた女性。
表情は穏やかで、しかしどこか距離のある静けさをまとっていた。
彼女がノートを開いた瞬間、
ページの端に小さく書かれたドイツ語が目に入った。
> “Sollen ist Können.”
(「すべし」は「できる」である。)
理生は一瞬、呼吸を止めた。
それはカントの倫理学の核心の一句だった。
彼は迷った末に、思わず声をかけた。
「……カント、好きなんですか?」
彼女は少し驚いたように目を上げ、
そしてすぐに微笑んだ。
「うん。ゼミで発表する予定なの。あなたも哲学科?」
「そうです。僕は幸福論を……」
言葉の途中で、彼女の目がふっと柔らかくなった。
「幸福論、いいね。痛みと希望の話だ。」
その言葉に、理生の心がわずかに揺れた。
痛みと希望。
まるで自分の胸の奥を見透かされたようだった。
授業が終わると、彼女はゆっくりと立ち上がり、
「またね」とだけ言って教室を出ていった。
短い一言だったが、その響きが耳の奥に残った。
彼女の声には、どこか懐かしい響きがあった。
それからというもの、理生は自然と彼女の姿を探すようになった。
講義室の列の間、図書館の廊下、学食の列――
どこかで見かけるたびに、
胸の中で何かが少しだけ温まるのを感じた。
ある日の午後、
理生が図書館で『実践理性批判』を読んでいると、
向かいの席に彼女が座った。
彼女は「隣、いい?」とだけ言い、
カバンから小さな文庫本を取り出した。
タイトルは『愛の現象学』。
理生はその表紙を見て、思わず笑みをこぼした。
「難しい本ですね。」
「うん、でもね、“愛は対象を超える”って書いてあるの。
どういう意味だと思う?」
理生は少し考えた。
「たぶん、愛は“理解”を超えるってことじゃないかな。
相手を分かろうとしても、最後まで分からない。
でも、それでも近づこうとする、その動き自体が愛なのかも。」
彼女はゆっくり頷いた。
「きっと、そうだね。」
その瞬間、理生は、
これまでのどんな哲学的議論よりも“確かな理解”を得たような気がした。
幸福も、愛も、徳も――
結局は「理解しようとする運動」なのだ。
完全には分かりえない世界に、
それでも近づこうとする、その試み。
それが人間の“生”そのものではないか。
閉館のアナウンスが流れるまで、
彼らはほとんど言葉を交わさなかった。
ただ、それぞれの本を読みながら、
ページをめくる音が同じリズムで響いていた。
その静けさが、理生には心地よかった。
誰かと同じ沈黙を共有することが、
これほど穏やかなものだとは知らなかった。
外に出ると、空は群青に染まりかけていた。
彼女が鞄を肩にかけ、
「またね」と言った。
理生は頷いた。
「うん、また。」
その言葉のやり取りだけで、
心の奥に灯がともるのを感じた。
帰り道、理生はふと立ち止まった。
風の中に、彼女の髪の匂いが残っている気がした。
その香りが、遠い記憶を刺激した。
小さい頃、母の洗濯したシーツの匂いに包まれて眠ったときの安心感。
それに似た感覚だった。
幸福とは、もしかすると、
誰かの存在が“世界の重さ”を少しだけ軽くしてくれる瞬間なのかもしれない。
それは所有ではなく、共有。
理解ではなく、共鳴。
理生はその夜、ノートにこう書いた。
> 「幸福とは、他者の沈黙を一緒に聞くこと。」
ページの上に、その言葉が静かに落ち着いた。
その瞬間、心のどこかに小さな温度が生まれた。
愛はまだ形を持たない。
けれど、確かに始まりはあった。




