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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
幸福論Ⅱ ―「意味ある生」
14/26

未来の自分の回想 Ⅲ

 その日、空はどこまでも澄んでいた。

 冬の光は冷たく、街の建物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。

 理生は大学の構内を歩きながら、コートのポケットに手を入れた。

 朝の吐息が白く残る。

 風の冷たさが、逆に頭をすっきりさせてくれるようだった。


 講義のあと、ゼミの教室に寄ると、一人の友人が机に突っ伏していた。

 「大丈夫?」と声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。

 「いや、ちょっと……期末レポート、全然進まなくて。」

 テーブルの上には、ノートと参考文献が散乱していた。

 睡眠不足のせいか、目の下には深い隈があった。


 理生は一瞬、立ち去ろうとした。

 けれど、ふと足を止めた。

 昨日、自分がノートに書いた一文が頭をよぎった。

 > 「幸福に値する者とは、意味を求めて苦しむ者。」


 友人の苦しみが、どこか自分の苦しみと重なって見えた。

 理生は椅子を引いて、隣に座った。

 「どの講義のやつ?」

 「倫理学。ベンサムとカントの比較。……なんか、もう分かんなくなってきた。」


 理生は少し考え、ノートを開いた。

 数日前に講義で取ったメモが、まだ鮮明に残っていた。

 「これ、使う? 教授が説明してた部分、まとめてある。」

 そう言って、彼は自分のノートを差し出した。


 友人は驚いたように顔を上げた。

 「いいの?」

 「うん。俺も、まとめ直すつもりだったから。」

 嘘ではなかった。だが、それ以上に、

 “誰かのために自分の時間を使う”ことが、今は必要な気がした。


 彼らは並んでノートを見つめながら、議論を始めた。

 快楽の量で幸福を測るベンサムと、

 善意の法則に従うカント。

 その違いを整理しながら、理生はふと気づいた。

 他者のために説明しているときの自分は、

 どこか穏やかで、集中していた。

 言葉が自分の中から自然に出てくる。

 それは、他者に“伝える”という行為が、

 自分自身を整理することでもあるからだろう。


 気づけば、外はもう夕方になっていた。

 窓の外で、沈む陽が校舎の壁を橙色に染めている。

 友人がノートを閉じ、静かに言った。

 「……ありがとう。助かった。」

 理生は首を振った。

 「俺も勉強になったよ。」

 その言葉は、社交辞令ではなく本心だった。

 自分の中にあった“知ること”への冷たい欲望が、

 少しだけ温かい形に変わっているのを感じた。


 その帰り道、理生は校門を出たところで立ち止まった。

 空は群青に近い青で、遠くのビルの窓が金色に光っている。

 風が冷たいのに、心のどこかが静かに温かかった。

 ――幸福とは、こういうことなのかもしれない。

 そう思った。

 快楽でも、成功でもなく、

 ただ“他者と世界を共有した”という実感。

 それが、痛みのない幸福とは異なる“意味ある生”のかすかな形だった。


 家に帰ると、机の上の薬瓶に目がとまった。

 半分ほど減った抗うつ剤の白い錠剤。

 理生はしばらく見つめたあと、一本のペンを取り、ノートを開いた。

 ページの上には、カントの言葉がまだ残っていた。

 > 「幸福とは、徳に比例する。」

 その下に、新たな一文を加えた。


 > 「徳とは、他者を想うこと。」


 文字を書き終えたとき、胸の奥に小さな震えが走った。

 “想う”という行為が、どこか自分を救っているような気がした。

 幸福を求めることは、自分の痛みを消そうとすることだった。

 だが、他者を想うとき、その痛みは消えなくても、

 痛みが“意味”へと変わる。


 夜の帳が降り、部屋の明かりがぼんやりと壁を照らした。

 ノートを閉じて椅子にもたれた理生は、

 ふと、自分の呼吸が静かに整っているのに気づいた。

 不安が完全に消えたわけではない。

 けれど、何かが確かに変わっていた。


 そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。

 画面には、友人からのメッセージが届いていた。

 > 「今日ほんとにありがとう。ノート、すごく分かりやすかった。」

 理生は笑って短く返信を打った。

 > 「大丈夫。また一緒にやろう。」


 その文字を送信してから、

 理生はしばらくスマートフォンを握ったまま、

 静かに目を閉じた。

 孤独の中にも、かすかな連なりがある。

 その感覚が胸の奥に温かく広がっていった。


 幸福とは、もしかすると“痛みを忘れること”ではなく、

 “痛みを分かち合えること”なのかもしれない。

 その夜、理生は久しぶりに薬を飲まずに眠りについた。

 夢の中で、静かな光が揺れていた。

 それは、誰のものでもない、

 しかし確かに“生きている”光だった。

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