小さな行為
その日、空はどこまでも澄んでいた。
冬の光は冷たく、街の建物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
理生は大学の構内を歩きながら、コートのポケットに手を入れた。
朝の吐息が白く残る。
風の冷たさが、逆に頭をすっきりさせてくれるようだった。
講義のあと、ゼミの教室に寄ると、一人の友人が机に突っ伏していた。
「大丈夫?」と声をかけると、彼はゆっくり顔を上げた。
「いや、ちょっと……期末レポート、全然進まなくて。」
テーブルの上には、ノートと参考文献が散乱していた。
睡眠不足のせいか、目の下には深い隈があった。
理生は一瞬、立ち去ろうとした。
けれど、ふと足を止めた。
昨日、自分がノートに書いた一文が頭をよぎった。
> 「幸福に値する者とは、意味を求めて苦しむ者。」
友人の苦しみが、どこか自分の苦しみと重なって見えた。
理生は椅子を引いて、隣に座った。
「どの講義のやつ?」
「倫理学。ベンサムとカントの比較。……なんか、もう分かんなくなってきた。」
理生は少し考え、ノートを開いた。
数日前に講義で取ったメモが、まだ鮮明に残っていた。
「これ、使う? 教授が説明してた部分、まとめてある。」
そう言って、彼は自分のノートを差し出した。
友人は驚いたように顔を上げた。
「いいの?」
「うん。俺も、まとめ直すつもりだったから。」
嘘ではなかった。だが、それ以上に、
“誰かのために自分の時間を使う”ことが、今は必要な気がした。
彼らは並んでノートを見つめながら、議論を始めた。
快楽の量で幸福を測るベンサムと、
善意の法則に従うカント。
その違いを整理しながら、理生はふと気づいた。
他者のために説明しているときの自分は、
どこか穏やかで、集中していた。
言葉が自分の中から自然に出てくる。
それは、他者に“伝える”という行為が、
自分自身を整理することでもあるからだろう。
気づけば、外はもう夕方になっていた。
窓の外で、沈む陽が校舎の壁を橙色に染めている。
友人がノートを閉じ、静かに言った。
「……ありがとう。助かった。」
理生は首を振った。
「俺も勉強になったよ。」
その言葉は、社交辞令ではなく本心だった。
自分の中にあった“知ること”への冷たい欲望が、
少しだけ温かい形に変わっているのを感じた。
その帰り道、理生は校門を出たところで立ち止まった。
空は群青に近い青で、遠くのビルの窓が金色に光っている。
風が冷たいのに、心のどこかが静かに温かかった。
――幸福とは、こういうことなのかもしれない。
そう思った。
快楽でも、成功でもなく、
ただ“他者と世界を共有した”という実感。
それが、痛みのない幸福とは異なる“意味ある生”のかすかな形だった。
家に帰ると、机の上の薬瓶に目がとまった。
半分ほど減った抗うつ剤の白い錠剤。
理生はしばらく見つめたあと、一本のペンを取り、ノートを開いた。
ページの上には、カントの言葉がまだ残っていた。
> 「幸福とは、徳に比例する。」
その下に、新たな一文を加えた。
> 「徳とは、他者を想うこと。」
文字を書き終えたとき、胸の奥に小さな震えが走った。
“想う”という行為が、どこか自分を救っているような気がした。
幸福を求めることは、自分の痛みを消そうとすることだった。
だが、他者を想うとき、その痛みは消えなくても、
痛みが“意味”へと変わる。
夜の帳が降り、部屋の明かりがぼんやりと壁を照らした。
ノートを閉じて椅子にもたれた理生は、
ふと、自分の呼吸が静かに整っているのに気づいた。
不安が完全に消えたわけではない。
けれど、何かが確かに変わっていた。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
画面には、友人からのメッセージが届いていた。
> 「今日ほんとにありがとう。ノート、すごく分かりやすかった。」
理生は笑って短く返信を打った。
> 「大丈夫。また一緒にやろう。」
その文字を送信してから、
理生はしばらくスマートフォンを握ったまま、
静かに目を閉じた。
孤独の中にも、かすかな連なりがある。
その感覚が胸の奥に温かく広がっていった。
幸福とは、もしかすると“痛みを忘れること”ではなく、
“痛みを分かち合えること”なのかもしれない。
その夜、理生は久しぶりに薬を飲まずに眠りについた。
夢の中で、静かな光が揺れていた。
それは、誰のものでもない、
しかし確かに“生きている”光だった。




