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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
幸福論Ⅱ ―「意味ある生」
12/26

図書館の午後

 午後の図書館は、深い静けさに包まれていた。

 大きな窓から入る光が、長い机の上に斜めに落ちている。

 ページをめくる音と、時折ペンを走らせる音だけが、かすかに響いていた。


 理生は、一番奥の席に座っていた。

 前には分厚い本――『実践理性批判』。

 カントの字面は、最初から難解だった。

 目を追っても、すぐに文の構造が崩れてしまう。

 それでも、彼はあの日の教授の言葉が忘れられなかった。

 「幸福とは、徳に比例する」。

 その意味を、自分の手で確かめてみたかった。


 ページをめくると、鉛筆の薄い下線がいくつか引かれている古い図書館の蔵書だった。

 誰かがかつてこの本を読んで、同じ場所で立ち止まったのかもしれない。

 そのことが少しだけ心を支えた。


 > “Glückseligkeit ist der Zustand eines vernünftigen Wesens in der Welt, dem es im Ganzen mit allem, was in seinem Dasein geschieht, nach seinem ganzen Willen wohlgeht.”

 (幸福とは、理性的存在者が自らの意志にかなって存在全体がうまくいく状態である。)


 理生は訳を見ながら、ノートに書き写した。

 ――“全体としてうまくいく状態”。

 それは完璧な調和、矛盾のない生のことだろうか。

 そんな世界が本当に存在するのだろうか。


 ページを進めていくと、ある一節で手が止まった。


 > “Die Tugend ist die Bedingung, glücklich zu sein, nicht aber das Glück selbst.”

 (徳は幸福であるための条件であって、幸福そのものではない。)


 理生は息を止めた。

 その言葉は、あの日の講義よりも冷たく、しかし深かった。

 幸福は徳によって保証されるものではない。

 徳を持っていても、必ずしも幸福になれるわけではない。

 それでも、徳なしには幸福に“値しない”。

 幸福は、与えられるものではなく、**値するもの(würdig sein)**なのだ。


 理生は、鉛筆でその一行を囲み、しばらく見つめた。

 “幸福に値する者”――その響きは、どこか救いにも似ていた。

 自分が幸福であるかどうかではなく、

 幸福に値するように生きることができるかどうか。

 幸福を“得る”ことから、“生きる態度”へ。

 視点がゆっくりと反転するのを感じた。


 彼はノートの余白に、こう書いた。


 > 「幸福とは、手に入れるものではなく、耐えるもの。」


 その言葉が自分から出た瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。

 ――それは“耐える”という言葉の中に、かつての夜の自分を見たからだ。


 不眠、吐き気、虚脱。

 痛みは、ただ苦しみではなかったのかもしれない。

 痛みを通してしか、自分が「まだ生きている」と感じられなかった。

 もし幸福が“意味ある生”だとすれば、

 痛みはその意味を照らす光のようなものなのかもしれない。


 窓の外では、ゆっくりと雲が流れていた。

 太陽が雲の切れ間から差し込み、ページの上に薄い光が落ちた。

 その光が文字の上を滑るように動いていく。

 理生は、その小さな現象をじっと見つめた。

 世界のどこかに秩序があるとしたら、

 それはこうした静かな運動の中にあるのではないかと思った。


 図書館の時計が午後四時を指した。

 周囲の席から、ノートを閉じる音がいくつか聞こえた。

 理生はまだ立ち上がれなかった。

 彼にとって、ページの一行一行は生きた言葉だった。

 哲学が、思索の対象ではなく、生きるための糧として迫ってくるのを感じていた。


 そのとき、隣の席の学生が立ち上がり、

 椅子の脚が床を引きずる音を立てた。

 理生はその音を聞きながら、ふとノートを閉じた。

 心の中に静かに沈殿していくものがあった。


 帰り際、出口の手前に置かれた返却棚に、

 一冊の本が置かれているのが目に入った。

 その背表紙には、『ニーチェ 道徳の系譜』と書かれていた。

 理生は一瞬立ち止まり、その本に触れようとしたが、手を引っ込めた。

 ――今はまだ、そこへ行くには早い。

 そう思って、彼は図書館を後にした。


 外に出ると、空気がひんやりとしていた。

 夕方の風が頬をなで、街の匂いを運んできた。

 世界は、相変わらず複雑で、どこか遠い。

 けれどその距離が、以前よりも少しだけ柔らかく感じられた。


 理生はポケットから小さなメモを取り出し、そこに書き込んだ。


 > 「幸福に値する者とは、意味を求めて苦しむ者。」


 その文字を見つめながら、

 彼は初めて“苦しむこと”を否定しようとしない自分に気づいた。

 痛みの中にも、意味はある。

 それを理解し始めたとき、

 幸福はもはや遠い理想ではなく、

 静かに寄り添う何かのように思えた。


 風が吹き、落ち葉が一枚、足元を転がっていった。

 理生はそれを追わずに、ただ立ち尽くした。

 光が薄くなる中で、自分の影だけが長く伸びていった。

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