教授の言葉
その日の講義室は、なぜかいつもより静かだった。
午後の光がカーテンの隙間から差し込み、机の表面を淡く照らしている。
黒板には、白いチョークで大きく書かれた文字が残っていた。
> Kant:Glückseligkeit und Tugend(幸福と徳)
教授はいつものように、眼鏡の縁を指で押さえながら、
黒板の前に立って学生たちを見渡した。
「みなさん、幸福とは何だと思いますか?」
その声は柔らかく、しかしどこか突き放すような響きを持っていた。
誰もすぐには答えなかった。
沈黙が一瞬、空気を固くした。
教授は微笑んで、黒板にもう一つの言葉を書き加えた。
> 『実践理性批判』第2部――「幸福とは、徳に比例するもの(Glückseligkeit im Verhältnis zur Tugend)」
理生はその言葉をノートに書き写しながら、眉をひそめた。
幸福と徳。
幸福は、快楽や安定ではなく、道徳的な善との関係で語られる――。
そのことばに、彼の心のどこかがざらついた。
教授は続けた。
「カントは、幸福を“目的”としてではなく、“結果”として捉えました。
つまり、善い意志に従って生きることができた者のみが、幸福に値する。
幸福それ自体は、追い求めて得られるものではない。」
理生はその言葉を聞きながら、ふと自分の手のひらを見た。
細い指の節のあたりに、赤い跡が残っていた。
昨夜、眠れずにシーツを握りしめていたせいだった。
「幸福は追い求めて得られない」――
それはまるで、自分の現実を肯定するような言葉でもあり、同時に拒むようでもあった。
教授は黒板を指で叩きながら言った。
「善き生とは、快い生ではない。
そして、幸福とは、苦痛を避けることでもない。
むしろ苦痛を通じて、私たちは“意味”を知る。
幸福とは、“意味ある生”のもう一つの名前なのです。」
その瞬間、理生の中で何かが静かに崩れた。
これまで“痛みのないこと”を幸福の条件だと思っていた。
だが、教授の言葉はそれを否定していた。
痛みのない生は、もはや生ではない――そんな響きがそこにあった。
授業が終わると、学生たちはざわざわと席を立ち、
友人同士で笑いながら教室を出ていった。
理生は一人、ノートを閉じずに座っていた。
黒板に残った「幸福」と「徳」という文字が、
まるで光の残像のように目の奥に焼き付いていた。
――幸福とは、徳に比例する。
徳とは、何だろう。
正しい行い? 善い意志? 他者への思いやり?
どの言葉も、どこか実感を欠いていた。
理生にとって「幸福」は、ただ「痛みがないこと」だった。
けれど、その定義は少しずつ崩れ始めていた。
痛みをなくしても、幸福にはなれない。
むしろ痛みの中でしか、幸福を感じられないのではないか――。
そんな逆説が、胸の奥で静かに芽生えた。
帰り道、空は薄く曇っていた。
大学の坂を下りながら、理生はポケットの中の薬の瓶を指でなぞった。
数日前、薬の量が増えた。
医師は「症状が少し強くなっている」と言った。
それでも理生は、あの講義の後では、薬を飲む気になれなかった。
“意味ある生”――
それを感じるために必要なのは、
薬によって均された心ではないような気がした。
歩道の向こう側では、小さな子どもが転んで泣いていた。
母親が駆け寄り、子どもの膝に手を当てて「大丈夫」と声をかける。
その一瞬の光景を、理生は目を離せずに見つめた。
痛みを感じることが、愛の始まりなのかもしれない――
そんな言葉が、ふと心をよぎった。
夜、自室の机に向かうと、ノートを開いた。
ページの端に、今日の講義で聞いた言葉を書き写す。
> 「幸福とは、徳に比例する。」
> 「痛みのない幸福は、意味のない幸福。」
文字を書きながら、理生は自分が何を書いているのか、はっきりとは分からなかった。
ただ、胸の中に小さな灯がともるのを感じていた。
それは明るいものではなく、
夜の奥でかすかに揺れる火のようなものだった。
その火が何を照らすのか、理生にはまだ見えていなかった。
けれど、その灯を見つめることが、今の彼にとっての“生きる”という行為そのものだった。




