未来の自分の回想 Ⅱ
あの春の日から、二年が経った。
僕は今も同じ街に住んでいる。
部屋の窓から見える川の流れも、大学へ向かう坂道の傾きも、ほとんど変わらない。
ただ一つ違うのは、あの頃の僕が見ていた世界の“色”だ。
同じ光でも、今は少し柔らかく見える。
それは、世界が変わったからではなく、
僕の見方が変わったからだと、ようやく思えるようになった。
久しぶりに古いノートを取り出した。
あの頃、沙耶と一緒に過ごした日々のあいだに書きつけたものだ。
ページをめくるたび、当時の文字の荒さと震えが、掌に触れるように伝わってくる。
> 「愛とは、手放す勇気。」
> 「幸福とは、他者に触れようとする意志。」
> 「感じること、それが生きること。」
そのすべてが、若さのかたちをしている。
不器用で、直線的で、まっすぐに痛い。
けれど今読むと、その不器用さの中に確かな“真実”がある気がする。
沙耶とは、それ以来会っていない。
SNSでたまに彼女の名前を見かけることがあるが、
そこにある笑顔を、もう自分の物語の一部として見ることはない。
ただ、ときどき――
ふとした瞬間に、彼女の声や仕草が思い出の奥から浮かび上がってくる。
それは懐かしさではなく、音楽の残響のような感覚だ。
過去の音が消えたあとも、耳の奥でかすかに響き続けるあの感じ。
僕は今、幸福という言葉を、
“現在”ではなく“記憶”の中に感じている。
幸福は、起きているときに完全な形で掴めるものではない。
それは、時が過ぎて初めて、その輪郭が浮かび上がる。
当時の僕は、幸福を“感じること”だと思っていた。
けれど今は、“幸福を感じていたと気づくこと”――その遅れの中にこそ、本当の幸福が宿るのだと感じている。
思えば、愛もまた同じだ。
人は愛している最中には、愛を定義できない。
それが終わりを迎え、距離が生まれたとき、
初めて愛の形が見えてくる。
“別れ”とは、失うことではなく、意味が立ち上がることなのかもしれない。
ある日、通い慣れた川沿いの道を歩いていたとき、
僕はふと、あのとき沙耶と歩いた記憶を思い出した。
夕陽の光が水面に散っていた。
風が吹くたびに光が砕け、ひとつひとつの破片が彼女の髪に反射していた。
その光景を思い出すと、今でも胸が痛む。
けれど、その痛みの中に、確かに“生”がある。
幸福とは、痛みを含んだままの記憶のことだ。
僕は今、哲学を学び続けている。
かつては答えを探していたが、今は“問いを生きる”という感覚に変わっている。
幸福を定義しようとした時間は無駄ではなかった。
むしろ、その探究の途中にこそ幸福があった。
幸福は、目標ではなく、道の途中に落ちている光のようなものだ。
気づくこともあれば、見落とすこともある。
けれど、その光の存在を信じて歩く限り、人生は続いていく。
沙耶のことを思うとき、
僕はもう“後悔”ではなく、“感謝”を感じる。
彼女を愛したことが、僕を世界へとつなぎ直した。
他者に触れることの怖さを知り、同時にその温かさも知った。
あの時間がなければ、僕は今も世界の外側に立っていただろう。
愛は終わっても、愛されたという事実は消えない。
それは、幸福の一部として、静かに僕の中に残り続けている。
時々、あの夜に書いた言葉を思い出す。
> 「愛とは、手放す勇気。」
あのときは“別れの慰め”として書いた。
けれど今は、それを“生き方の定義”として読んでいる。
手放す勇気があるからこそ、人は新しい出会いを受け入れられる。
幸福とは、流れ続ける時間の中で、何度でも愛を更新できる力なのだ。
窓の外に目を向けると、夕暮れの光が部屋の壁を染めている。
時計の針が静かに動く音が聞こえる。
時間は容赦なく過ぎていく。
けれど、幸福の残響はその流れに逆らうように、
今も僕の中でゆっくりと鳴り続けている。
過去の音が、現在をかすかに照らしている。
その照らし方が、幸福という名の“生の形”なのだろう。
僕は今日もノートを開く。
新しいページに、ゆっくりと書く。
> 「幸福とは、消えたあとにも響くもの。」
ペン先が止まり、静寂が戻る。
その静寂の中に、確かに音がある。
誰にも聞こえないが、僕には聞こえる。
それは、愛の記憶が変奏して鳴る、
人生という名の音楽の中の小さなフレーズだ。
幸福の定義は、いまだに分からない。
だが、それを探し続けることが、
僕の生きる理由になっている。




