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幸せの定義を知らない  作者: 目田 不識
幸福論Ⅰ ―「痛みのない世界」
10/26

未来の自分の回想 Ⅱ

 あの春の日から、二年が経った。

 僕は今も同じ街に住んでいる。

 部屋の窓から見える川の流れも、大学へ向かう坂道の傾きも、ほとんど変わらない。

 ただ一つ違うのは、あの頃の僕が見ていた世界の“色”だ。

 同じ光でも、今は少し柔らかく見える。

 それは、世界が変わったからではなく、

 僕の見方が変わったからだと、ようやく思えるようになった。


 久しぶりに古いノートを取り出した。

 あの頃、沙耶と一緒に過ごした日々のあいだに書きつけたものだ。

 ページをめくるたび、当時の文字の荒さと震えが、掌に触れるように伝わってくる。

 > 「愛とは、手放す勇気。」

 > 「幸福とは、他者に触れようとする意志。」

 > 「感じること、それが生きること。」

 そのすべてが、若さのかたちをしている。

 不器用で、直線的で、まっすぐに痛い。

 けれど今読むと、その不器用さの中に確かな“真実”がある気がする。


 沙耶とは、それ以来会っていない。

 SNSでたまに彼女の名前を見かけることがあるが、

 そこにある笑顔を、もう自分の物語の一部として見ることはない。

 ただ、ときどき――

 ふとした瞬間に、彼女の声や仕草が思い出の奥から浮かび上がってくる。

 それは懐かしさではなく、音楽の残響のような感覚だ。

 過去の音が消えたあとも、耳の奥でかすかに響き続けるあの感じ。


 僕は今、幸福という言葉を、

 “現在”ではなく“記憶”の中に感じている。

 幸福は、起きているときに完全な形で掴めるものではない。

 それは、時が過ぎて初めて、その輪郭が浮かび上がる。

 当時の僕は、幸福を“感じること”だと思っていた。

 けれど今は、“幸福を感じていたと気づくこと”――その遅れの中にこそ、本当の幸福が宿るのだと感じている。


 思えば、愛もまた同じだ。

 人は愛している最中には、愛を定義できない。

 それが終わりを迎え、距離が生まれたとき、

 初めて愛の形が見えてくる。

 “別れ”とは、失うことではなく、意味が立ち上がることなのかもしれない。


 ある日、通い慣れた川沿いの道を歩いていたとき、

 僕はふと、あのとき沙耶と歩いた記憶を思い出した。

 夕陽の光が水面に散っていた。

 風が吹くたびに光が砕け、ひとつひとつの破片が彼女の髪に反射していた。

 その光景を思い出すと、今でも胸が痛む。

 けれど、その痛みの中に、確かに“生”がある。

 幸福とは、痛みを含んだままの記憶のことだ。


 僕は今、哲学を学び続けている。

 かつては答えを探していたが、今は“問いを生きる”という感覚に変わっている。

 幸福を定義しようとした時間は無駄ではなかった。

 むしろ、その探究の途中にこそ幸福があった。

 幸福は、目標ではなく、道の途中に落ちている光のようなものだ。

 気づくこともあれば、見落とすこともある。

 けれど、その光の存在を信じて歩く限り、人生は続いていく。


 沙耶のことを思うとき、

 僕はもう“後悔”ではなく、“感謝”を感じる。

 彼女を愛したことが、僕を世界へとつなぎ直した。

 他者に触れることの怖さを知り、同時にその温かさも知った。

 あの時間がなければ、僕は今も世界の外側に立っていただろう。

 愛は終わっても、愛されたという事実は消えない。

 それは、幸福の一部として、静かに僕の中に残り続けている。


 時々、あの夜に書いた言葉を思い出す。

 > 「愛とは、手放す勇気。」

 あのときは“別れの慰め”として書いた。

 けれど今は、それを“生き方の定義”として読んでいる。

 手放す勇気があるからこそ、人は新しい出会いを受け入れられる。

 幸福とは、流れ続ける時間の中で、何度でも愛を更新できる力なのだ。


 窓の外に目を向けると、夕暮れの光が部屋の壁を染めている。

 時計の針が静かに動く音が聞こえる。

 時間は容赦なく過ぎていく。

 けれど、幸福の残響はその流れに逆らうように、

 今も僕の中でゆっくりと鳴り続けている。

 過去の音が、現在をかすかに照らしている。

 その照らし方が、幸福という名の“生の形”なのだろう。


 僕は今日もノートを開く。

 新しいページに、ゆっくりと書く。

 > 「幸福とは、消えたあとにも響くもの。」

 ペン先が止まり、静寂が戻る。

 その静寂の中に、確かに音がある。

 誰にも聞こえないが、僕には聞こえる。

 それは、愛の記憶が変奏して鳴る、

 人生という名の音楽の中の小さなフレーズだ。


 幸福の定義は、いまだに分からない。

 だが、それを探し続けることが、

 僕の生きる理由になっている。

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