プロローグ
自己満足的に次の作品を書いてみることにしました。
駄文ですが、お付き合いいただけると幸いです。
幸福の定義を知らないまま、僕は二十二歳になった。
この言葉を口にすると、少しだけ笑えてしまう。幸福の定義を探し続けてきた二年間は、まるで生きるための言い訳を積み上げていたような日々だったからだ。大学の講義で「幸福とは目的ではなく過程である」と教授が言ったとき、僕はその意味を理解したふりをした。しかし心のどこかでは、幸福とはもう少し具体的で、触れられる何かだと信じていた。信じたかった、という方が近いかもしれない。
二十歳の春、僕は「うつ病」と診断された。診察室の空気は静まり返っていて、医師の声がまるで録音された音声のように遠く響いた。診断の言葉は、一瞬にして僕の輪郭を変えてしまった。名前を与えられるということは、世界の見え方が変わることだ。あの日から、朝の光の明るさにも理由を探すようになり、電車の中で他人の笑顔を見るたびに、なぜ自分にはそれができないのかと考えた。
しかし、それでも僕は生きようとしていた。死にたいというより、ただ、どう生きたらいいのかが分からなかったのだ。
最初のころ、僕は「幸福とは痛みのない状態のことだ」と思っていた。
苦痛さえなければ、きっと幸福なのだと。
そう信じて薬を飲み、眠り、また目覚めて、吐き気をこらえながら講義に出た。ベンサムやミルの功利主義を学んでいたころだ。「最大多数の最大幸福」──その言葉は当時の僕には毒のように響いた。幸福を数で測る思想があるということに、どこか安堵し、どこかで絶望した。なぜなら、僕はその“最大多数”に含まれない側の人間だと感じていたからだ。
けれど、ある日の講義でカントの『実践理性批判』を読んだとき、僕は初めて幸福の定義が揺らいだ。カントは言う――「幸福に値する者となれ」と。
幸福とは与えられるものではなく、値する者が自らの行為を通して形づくるもの。
その一節を読みながら、僕は初めて“幸福に値する”という言葉の意味を考えた。
では、値しない人間は永遠に不幸なのだろうか? そもそも、幸福に“値する”とは何を意味するのだろう?
その問いのなかで、僕は哲学という病に取り憑かれた。
哲学科の図書館は、いつも静かだった。書棚に並ぶ書名のほとんどは、現実の救いにはならない。それでも僕は、そこに逃げ込むようにして座った。
ページをめくるたび、言葉がゆっくりと世界を変えていくような気がした。
「幸福は主観的感情である」
「幸福は徳に比例する」
「幸福は偶然に左右される」
「幸福とは自己の生の充実である」
それぞれの哲学者が語る幸福は、まるで異なる星の言語のようで、どれも正しく、どれも空虚だった。僕はそのどれにも“救われない”まま、ただノートに言葉を写し取っていった。
幸福の定義を知らないということは、幸福を探しているということだ。
その単純な事実に気づくまで、僕は何度も倒れ、吐き、泣いた。
医師は「焦らないでください」と言い、友人は「元気になったらまた飲もう」と言った。
しかし彼らの言葉はどれも、“治ったあとの僕”を前提にしていた。
では、“治らない僕”はどこに生きるのだろう。
ある夜、僕は街の明かりを眺めながら思った。
幸福とは、もしかすると「生き続けようと思える理由」のことではないか。
それは痛みが消えることではなく、痛みを抱えたまま歩ける理由を見つけること。
そのとき、僕の中で“幸福”という言葉の輪郭が、ほんの少しだけ変わった気がした。
愛について考えるようになったのも、その頃だ。
誰かを好きになることは、幸福の近道ではなく、むしろ痛みを増やす行為だった。
けれど、痛みを共有する瞬間だけは、確かに生きている気がした。
彼女と過ごした冬の日、街角の匂い、帰り際の「君の香りが好き」という言葉。
あの一瞬だけ、幸福の定義などどうでもいいと思えた。
だがそれも長くは続かなかった。彼女が去ったあと、残ったのは「幸福の不在」を確かに感じる自分だった。幸福の欠如さえ、幸福の証明のように思えた。
今、あの頃を振り返ると、幸福とは“定義できないこと”こそが本質なのだと分かる。
幸福とは、理性ではなく記憶の形をしている。
それは他者の笑顔の中にあり、誰かの声の余韻の中にあり、消えたものの影として現れる。
だから、幸福を定義しようとすることは、幸福を失うことでもある。
僕は今も病院に通い、薬を飲み、眠れぬ夜をいくつも超えている。
けれど、もう「幸福とは何か」を焦って定義しようとは思わない。
幸福は、きっと、名前を持たないまま僕らの中を通り過ぎていく。
それを掴めないままでも、僕はこの世界に属している。
幸福を知らないままでも、幸福を感じられる瞬間がある。
それで十分だと、今は思う。
だから、これは告白ではなく、観察の記録だ。
二十歳の僕が失ったものと、二十二歳の僕が拾い集めたもの、そのあいだにある沈黙の記憶。
もしこの記録を誰かが読むなら、どうか「幸福の定義」を探そうとしないでほしい。
幸福は、定義された瞬間に死んでしまう。
それでも、探し続けることだけは、生きている証なのだから。




