Roundly
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女子高生を洗った。生まれて初めてのことだ。
一緒にお風呂に入るとか、洗いっこをするとか、そんな思春期の男子が興奮するようなシチュエーションを想像させたならば、申し訳ない。大体1メートル四方そこいらの、洗濯機と呼ばれるこの機械のこの箱で、文字通りに洗ってしまったようだ。
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いつものように四日ほど溜め込んだ洗濯物の山をカゴに詰め、晩ご飯の献立でも考えているうちに着いてしまうくらい近所にあるコインランドリーに俺は向かう。今日も誰もいないでくれるとありがたいなと思いながら、本当は誰か居てくれないだろうかと願いつつ、暗い道路の中でうっすらと光るその小さな空間を目指す。
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ランドリーの中に入っても誰もおらず、ただ壁一面に整然と嵌め込まれた洗濯機たちが、ごうんごうんと音を立てて淡々と回り続ける音が、この空間での俺の孤独を引き立て、今日も何も起きなかったんだなと、少し寂しい気持ちになる。一体どこの誰がコインランドリーなんぞ使っているのかと思ってみれば、ああ、それは俺みたいなやつだったなと、前に投げたはずの言葉は俺の後ろから戻って来る。
眼前に並ぶ全自動の洗濯乾燥機たちから、左から二番目、いつもの相棒が空いていることを確認し、すーっと微かに残った仄かに甘い洗剤の香りを存分に味わいながら、ちゃりんちゃりんと百円玉を三枚入れる。月に二千円ほどの出費。バイトで生活費を稼ぐ一人暮らしの高校生には決して安くはない。
筐体の右下に貼られた、掠れたシールに書かれている手順に沿って、いつもと同じように洗濯機を回し始めた。洗濯機は、さあ仕事だと言わんばかりに声をあげ、その腹の中で洗濯物たちは右に左に揺られている。洗濯から乾燥が終わるまで大体一時間くらい。俺はその間、部屋の隅で外から日の届く片側だけ日焼けしてしまったソファに腰掛け、本を読んで過ごす。自身の日常に織り込まれた、少しだけ日常から外れたルーティンワークだった。洗濯機のガラスの口に目をやると、洗濯機には洗剤が投下されていて、俺の洗濯物たちは泡の飛沫をあげながら、ぐるぐる、ぐるぐると揉み回され続けていた。
しばらくして、同じページの同じ行から先に進めなくなっていることに気がついたとき、ああ俺は眠ってしまっていたのだと理解する。それと同時にちょうど乾燥の完了を知らせる小さなブザー音が部屋に響き、俺は読んでいた小説を閉じてポケットにしまう。重くなった腰を上げてソファから立ち上がり、赤く0の数字が点滅する洗濯機からその扉を開く。
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それと同時に、俺の世界は転がった。
一体何が起きた。
先程まで自分の目の前に並んでいた一面の洗濯機たちは、今は足元に広がっている。そうか、自分は床に倒れているのだ。いや、でもそんなことよりも。
「いったたー、転送先ミスったかな」
俺の上には、テレビでも、見ることがないような、そんなもはやラノベでしか見られないような美少女が乗っていた。透き通った白い肌に艶のある栗色の長い髪の毛。すべてを優しく受け止めてしまうような紺碧の目。俺は地軸の倒れたこの全く不可解な状況のことも忘れて、ただ眼前にある美しさにただ見惚れていた。
暫くそうしているうちに女性は、ようやく下敷きにしている俺のことに気がついたらしい。
「いやあ、悪いねえ君」
そういう彼女の微笑みは全く悪いなどと思っているような顔ではないが、こういうことを小悪魔的とでもいうのだろうか、俺も悪い気はしていない。ただ、それ以前にまず自分はこの状況が飲み込めていない。そんな自分を置き去りにしたまま彼女は言った。
「ま、何も見なかったってことにしてさ。今日のことは夢だと思って忘れてよ。童貞くん」
呆気にとられ続けている俺をよそに、彼女は、よいしょ、と言いながら立ち上がった。俺の身体から離れていくその重みに、先ほどまで自分が本当に、この美少女と触れ合っていたのだということを自覚する。彼女は手を挙げたり、体を捻ったりしながら、自分の身体を眺め回していた。纏っているその服は所々が大きくダボついており、彼女の体格と合っていないように見える。いわば ”彼シャツ” に感じるような感覚。
いや、そんなことよりも。
「よっし、まあこれなら大丈夫っしょ」
最後に一度背伸びをして、彼女は走り去っていった。
その圧倒的な出来事に彼女に声を掛ける余裕もなかった。
「俺の服」
新しい宿主を得て、俺の服はそのまま彼女と共に去っていった。俺のような冴えない男より、物語の主人公のような女性に着てもらえるのならば、さぞ服も本望だろう。少なくとも俺が服だったらそう思う。
青天の霹靂は過ぎ、その空間には再び、ごうんごうんという音だけが響き渡り、その日常を取り戻していた。
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はあ、はあ。
いや決して俺は悪くない。俺の中の幻想がそうさせるだけだ。
アメリカの有名人がこんなことを言っていたらしい。未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ、と。そう、だからこそ、俺は自分が見たい未来を自らこの手で手繰り寄せようとしているだけなのだ。ラノベの主人公のように。
俺は今から自分がしようとしていることをできるだけ客観視しないようしながら、不透明のランドリーバッグを口の隙間から眺める。ごうんごうんという音だけが響いているこのコインランドリーに、誰もいないことを見回しながら今一度確認し、バッグからそれを静かに取り出して、改めて眺める。
ニュースでよく言われる「魔が差した」というのは恐らくこのような状況をいうのだろう。今なら少し彼らに歩み寄れるかもしれない。ただ、俺はその魔に屈してしまっただけなのだ。こんなことになったのは、すべてが狂い始めたのはあの日からである。
ある時は。
「ちょっと、そんなところに立ってないでよね!」
またある時は。
「何じっと見ているんですか。不愉快です」
雨の日も。
「ねえ、僕のこと黙っているのと、ここで死ぬのどっちが良い?」
風の日も。
「いやあ、すみませんねえ」
あの衝撃の「初お洗濯」以降、このコインランドリーに洗いに来る度に、毎回異なった美少女が洗濯機から飛び出してくるようになっていた。
ボクっ娘地雷眼鏡、正統派ツンデレ、ゆるふわ先輩女子など。ジャンルも様々な日替わりランチならぬ、日替わり美少女。その見た目(ただし、服だけは毎回俺の洗った服で、これは罰なのかご褒美なのかはよく分からない)と一言から分かりやすく主張されるキャラの情報は、さながらクイズ大会のようで、近所のコインランドリーにこんな新手のガチャが実装されるとは夢にも思わなんだ。それも前代未聞の毎回SSR確定の神ガチャ。
しかし、現実で目にすることの無い美少女に耐性など無く、飛び出てくる美少女に毎回目を奪われ、そして何より嘘のようなその現実性に圧倒されて、どうにか言葉を紡げるだけの整理を俺が終える前に、彼女らはこの世界で何かやることがあるのか、颯爽とコインランドリーから飛び出していってしまう。
日に日に少なくなっていく箪笥の服に、俺は隣駅のGUで服の買い足しを余儀なくされていた。どんどんと私服は無くなっていき(制服は流石に洗濯しないが)、バイトでなんとかやりくりしていた貯金も減っていく一方であった。もともと質素だったご飯にも、もやしの存在感が増した。
自分の貯金からして、大層なものを買うことは出来ず、何しろ毎回無くなってしまうのであれば、一番安いTシャツと短パンで良いだろう。これなら自分でも着ることができる。
そんなことを考えながらも、本当に困っているならば、単に使うコインランドリーを変え、この「お洗い現象」から離れれば良いだけなのだ、と思った。だからここを使い続けている限り、自分はこの現象を楽しみ、自ら”進んで困りにいっている”のだ、というしかないのだ。
日常からの逸脱が不思議な高揚感と、物語の始まりへの期待を生み出しており、俺の好奇心は「まだ終わらんよ」と言っていた。
にしても、毎回美少女に同じ無地のTシャツを着させるというのも何だか芸が無い。そこで年頃の高校生男子らしく、パンツ一枚だけを洗濯してみたいという思いに駆られた瞬間もあった。
でも、想像してみて欲しい。
あなたがいきなり異世界に呼び出されたとしよう。その際の転生時の姿として、パンツ一丁と全裸のどちらしか選べないとしたら、あなたはどちらを選ぶだろうか。
生の人間を意図的にパンツ一枚だけに脱がせる(というか着させる)行為は、パンツ一枚ではエロだが、全裸ならターミネーターだ、という俺の倫理観からぎりぎりはみ出てしまっていた。
かくして俺の倫理観と好奇心は、図らずしもベタなところで交差した。
そう、バニーガールである。
俺は手に持った少ない面積の布地と網目の布を眺める。元気よく飛び出すような耳。そのフェティシズムの夢と、完成された倫理が詰め込まれたその姿には神秘さえも感じられる。
昨日俺は電車に三十分ほど揺られて街に出て、十五分くらい店の前で右往左往しながら、意を決してコスプレショップに入った。一面に広がる新しい世界に感動を覚えながら、耳を赤くしながら店内を回り、そそくさとレジに駆け込んだ。これは確かに恥ずかしいことだったかもしれない。しかし同時に、自分が達成したことにある種の誇りのようなものも感じていた。そうして手に入れたこれは、いわば戦利品なのだ。
バニーガールの衣装を洗濯槽の中に入れた。そして、忘れずに付属の「うさみみ」を畳まれた衣装の上に置く。これが無くては完成しないからな。衣装の頂きに鎮座する二本のピンと伸びた耳が、自分が今からやろうとしていることの異常さを自覚させるような気がした。
それを俺は優しく寝かせてやる。
洗濯機の口を体で隠すようにしながら蓋をしめて、少しためらいながら、スタートのボタンを押す。洗濯機がおはようの声をあげ、少しずつ唸りを上げ始める。
俺はどさっとソファに深く座った。一つ大きな仕事をやり遂げたように、どさっと疲労感のようなものがのしかかってくる。一体結果がどのようなものになるのかは分からない。しかし、きっとこの洗濯機が止まる時、おれは一歩大人に近づいていることだろう。
二度と童貞なぞ、言わせるものか。
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まどろみから覚めた頃、洗濯機のガラス面から内部が静止しているのが分かった。既に洗濯は完了していた。向かいの壁に下げられた時計を見ると、長針は既に軽く一周はしていた。どうやら結構寝てしまっていたようだった。
俺はハッと自分がしようとしていたことを思い出し、重い腰を上げて立ち上がり、例の服を入れた洗濯機の元に近づく。扉に手をかけた時、少し震えている自分の手を見て、緊張と同時になんだかおかしい気持ちが湧いてきた。俺は一体ここで何をしてるんだろうなと。
だが、ここまで来た今、これをやりきるしかない。
心に覚悟を決めて、腹にくっと力を入れ、ゆっくりと扉を開ける。思わず目をつむる。しかし、幸か不幸か、すぐにその期待は裏切られたことに気がつく。バニーガールの衣装はふんわりと仕上がって、銀色の洗濯槽の中でぽつんと孤独に残されていた。
俺はこの状況を掴みかねた。ただ、その目論見が想像通りにいかなかったことだけは明確だった。しばらく空白のような時間が流れた。
俺は今一体どういう感情でいるのだろう。
羞恥心を抱えながらバニーガールの衣装を買い、背徳感と倫理観に抗ってそれを望んでもいないだろう他人に着させようとし、そしてその計画は失敗し、眼の前の洗濯槽には日常に似つかわしくない可笑しなバニーガールの衣装が佇む。それは悔しさなのか、安堵なのだろうか。こういう時にするべき顔が分からずに、少し引きつるような微妙な表情で二本の耳を眺めている俺。
これこそがシュールというものだろうか。次第に、それにしても一体俺は何をしていたのだろうかと、再び可笑しい気持ちが込み上げてきた。そういえば彼も言っていたな。笑えばいいと思うよ、と。
名残惜しく、何度か扉を開けたり閉めたり、洗濯機の中を深く覗き込んだりしていたが、すぐにそれらが意味をなさないことを悟り、諦めることにした。俺はバニーガールの衣装を洗濯機の中から取り出し、その流麗なフォルムを再び眺めた。試みは失敗に終わったが、この日常からはみ出した感覚が心地よく、なんだか物語の中にいるようだった。
俺はそのバニーガールの衣装を、肩から掛けた不透明のランドリーバッグに入れて、出入口に向かって振り返った。
すると、そこには困惑の表情を浮かべた同い年くらいの女が立っていた。半身を出入口に向け、いつでも逃げ出せるように身構えている。
「あんた、一体なにやってんの」
ぎゃーーーーーー。
どうやら、俺はとんでもないフライングをかましていたみたいだ。
フラグの読み違え。物語はここから始まるらしい。
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俺たちの世界を形作ってきたもの、それは噂だろう。俺たちは何千年も前の偉人たちの噂やゴシップを知っている。(大半は本当にどうでも良い、下らないものだ)それらはなんの趣味か語り継がれ、時を超えて俺たちの耳まで届く。噂の怖いところは、それが面白い場合には嘘でも構わない、という点だ。それはフィクションとも重なる。
平凡であったはずの俺の日常は、幸か不幸か、いや確実に不幸なのだが、その平凡を乱されることになった。あの日、自身の奇行(今思えばそう認めざるを得ない)を目撃したクラスの女子によって、その噂は光を超える速度であっという間に広まり、高校で俺は「バニーガール好きの変態」というレッテルを貼られることとなった。
これは、他人にバニーガールを着させようとするあの日の悪ノリに対する報いなのだろうか。そう考えると少しは気持ちが楽になる気がしなくもない。罪と罰は切り離すべきではないのだ。罪のない罰は不条理で、罰のない罪は無意味なのだ。
ただ学校の一部の界隈で俺の評価は高まったようで、突然に握手を求められたこともある。その時はつい自尊心が芽生えかけたが、よく考えてみればなんと下らないことだろうと、そんなうさぎの耳が生えたような滑稽な自尊心は、ティッシュに包んでゴミ箱に捨ててしまうことにした。
しかし、はじめに思ったほどに世界は変わらなかった。別にいじめられているという訳でも無い。クラスでペア決めをするような状況になれば、積極的に声を掛けてくれる人はいない。それでも、ハブられたりはしない。女子に話しかければ、間をなにかが隔てているような感じがする。それでも、露骨にキモいとか聞こえる陰口を言われるわけではない。
男子の中には、正面からいじってくれるやつもいる。いじりは愛、という言葉は、なんといじる側本位の傲慢で暴力的な論だろうと憎悪していたが、触れてくれたほうが救われるという感覚に、俺は本当の愛を見出しかけていた。
元のレールから外れたはずの俺の人生は、気がつけばすっかりレールの上に戻ってきていた。物語は始まらなかった。そこには、皆の優しさがあった。
ただ、どこか拭えない微温い息苦しさは残ったまま、俺は一学期の間を過ごした。
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カナカナとヒグラシの声が響き始める中で、新しい学期が始まろうとしている。文化祭のシーズンも終わり、俺のバニーガール伝説も過去のことになり、少し下がった評価が元に戻ることも無いが、今更わざわざ虐げられるようなことも無かった。
他人のことなんて、それが自分にとって気晴らしや楽しさにならない限り、別にどうでもいいものだ。大体その賞味期限も保って七十五日と見抜いたのは、先人の慧眼だろう。妥当な数字だ。
俺はあの日以前と同じように、再びこのクラスの一員として、黒板や教卓、机や椅子、掛時計と同じ、教室と溶け合って学校生活を成すための背景の一部になっていた。それらは、ぐるぐると同じ場所を巡り、回り続ける。そして少しずつ音を立てながら朽ちていく。
新学期を迎えたクラスには、浮ついた空気が流れている。ホームルーム開始のチャイムが鳴っても、教室はざわざわとしたままだった。
「静かにー。ホームルーム始めるぞ」
そこに担任が入ってきて、ようやくクラスは静かになる。
「今学期から、このクラスに転校生が加わるから紹介するぞ。入って」
担任のその言葉を合図に、教室の前のドアから1人の転校生が入ってくる。女子生徒だった。教室に足を踏み入れるや否や、クラスはざわつき始める。何人かの男子は机から身を乗り出し(無自覚な奴もいただろう。かわいいもんだ)、女子は隣同士でひそひそと話している。
誰が見ても一目瞭然の美少女。その存在を中心に、物語が全て隷属してしまうような徹底的な美。透き通った白い肌に艶のある栗色の長い髪の毛。すべてを優しく溶かして受け止めるような紺碧の目。その美しさに思わず腰が浮いて吸い込まれそうになる。
しかし、そうはならなかった。その強い既視感は、違った感情を自分の中から呼び起こしていた。内に籠もっていたものがざわつき、ぐらぐらと揺れはじめ、蓋が外れるような音が聞こえた。この状況は、こんなこと言う機会は、もう二度と訪れないだろう。
「服返せ!」
俺は椅子を吹き飛ばすようにがっと立ち上がって、叫ぶ。「あのときのお前」よりもこっちが先に出た。皆の注目は舞台に立っていた美少女から、背景であったはずの俺に変わり、教室にはじーっという時計の針が回る音が、底まで聞こえるような静寂が広がる。午前8時53分21秒。この瞬間、俺にはまた新たな噂が加わることになる。もう伝説と言ってくれても良い。
しかし、そんなことはどうでもよかった。お前たちにここは譲らない。何度でも声を上げてやる。息苦しく狭まった喉を吹き抜けていった叫びは、爽やかで心地が良い。