96話、ジロウの恋
「ママあ――!」
命乞いはヒュドラに通用しなかった。
中央の頭がジェイクへ噛み付く。鎌の如く鋭き牙を二つ剝いて、獲物へと瞬時に伸びる長首。
ジェイクは跳躍前転で避けるとそのまま疾走して逃走した。
「もうママなんか知らんっ! いるならいるでいいさっ! こいつも利用してやる! 俺の策は永久に尽きんッ!」
明らかに自然な流れで住み着いたヒュドラではない。獲物も少なく移動して来た形跡もない。無理矢理にここへ連れてこられたとしか思えなかった。
転移なのか移送なのか。ふと頭に浮かぶのは、〈八頭目〉の転移札。騎士学校襲撃でもキメラ事件でも使われていた代物だ。
「いや、後回しだな! ってわけでお前らが餌になれ!」
「この餓鬼めが! 卑劣なり!」
「餓鬼はお前だろっ!」
ジロウ隊も巻き込んで腹を空かせたヒュドラの標的にする。九つの首はそれぞれが好みの餌へ狙いを付け、各々が唸りながら岸辺を破壊し始めた。
「騒がしいな……しかし、飽きさせない子だッ――!」
心なしか声を弾ませて呟いたジュリアが煙草を、吸い殻入れへ。代わりに矛を握り締めて走り出した。まずは小手調べ。片手で振る矛の刃を宿敵へぶつける。
「我らも死合おうか! ジュリアよ!」
「――!」
右に払われた矛を金棒で受けるジロウ。鋼と鋼が生み出した剣圧は、噛み付くヒュドラの頭も弾くほどだ。
開幕のマナは【幻炎】を見せて別格の片鱗を覗かせる。散る残火を余韻に残して、二人は速度を上げる。更に上げていく。
「どらどらどら! 拍子を早めるぞぉ――!」
「――!」
鬼の剛力に真っ向から挑む。聖国に護られる身でありながら、血を求める聖母候補者を野放しには出来ない。平然と同胞を殺す非道な輩を許してはならない。何故ならジュリアは聖国星座騎士団の団長なのだから。
「祭りだ祭り! 喧嘩祭りだワッショイワッショイッ!! 武術の音頭で無聊を慰めようぞ!」
「貴様と話すことなどないっ」
腹を空かせたヒュドラから逃げ回る騎士とは違う。ジュリアとジロウはヒュドラすらも舞台にして舞う。飛び回りながら首の上を走り、矛と棒が交差させる。弾ける空圧が目に見える。凄まじい腕力と速さでぶつかり合い、寒気さえ揺るがす。
「よそ見してていいのかぁ?」
「……!」
ヒュドラから逃げながらもジェイクは両手に赤いマナを集める。集中させたマナを一つ二つと投げつけた。
【天耳通系第一等技・勁砲】。手に収束させたマナを砲丸のように丸め、投げ付ける基本技だ。単純にして、極めれば果てのない技の一つである。
「く――! ぐあっ!?」
一つ目を切り裂くと腹に二つ目が着弾。うち飛ばされた騎士は――運悪くヒュドラに捕まる。鋭利な牙は鎧の鋼も軽く突き破り、腹を貫通して持ち上げられた。勢いで抜けたところを、ヒュドラは器用に丸呑みする。
「ギャアア――!?」
「やっぱ基本四種系は最高だな!」
凶風や氷雪などの属性技が飛び交う中でもジェイクは我流を貫く。またマナを溜めた両手を握り合わせる。
そして――地面を打つ。マナは弾けて前方へ拡散。槍で突き掛かる騎士を反撃し、吹き飛ばした。
「ふう……」
飛び乗ったヒュドラの頭で人心地がつく。だが休む暇はない。
戦に明け暮れるジロウ部隊の騎士は、しぶとくも四人も生き残っている。厄介ながら乱戦の経験もあるようだ。怪獣と三つ巴で争う稀に見る光景だった。
「……っ!」
内、ひとりの不審な動きを察する。ジェイクは【幻炎】までマナ強度を強めて飛び出した。
♤
ヒュドラの長い胴体の裏で激烈な金属音が鳴る。ぶつかる矛と金棒の押し合いで火花が散る。込められる力を物語って細かく震える鋼器。地上に対して逆さまに、大戦を思わせる激突は加熱していく。
「血が滾るわ! 泣く女子を抱くより快いっ!」
「下衆がっ……」
ジロウを押し退けて追撃に出た。双頭の首筋を交互に蹴って空中へ。疾走して揺れる青髪が視界を横切る。大戦レベルでは僅かな隙も許されない。一秒と満たない視界の隙に、ジロウの姿を見失う。
「――」
天耳通を常に発動していたジュリアは右下のヒュドラに着地しようとするジロウの気配を掴む。即座にマナ・アーツを駆使した。
「【神足通系第四等技・大弐刀】」
しなる程の速度で薙刀を振る。先端の刃物からマナが飛び出して大きな刃を形成。届かない位置にいたジロウへと迫る。切れ味も重さも増すジュリアお得意の技が出る。
「……! 空中では分が悪いっ!」
瞬時の切り替えで着地を中止。金棒で受けたジロウが軌道を変えられる。
ジュリアは【神足通系第五等技・空踏み】で空気を蹴って追撃の連続させる。ジロウはジュリアの意のままに飛ばされて地面へ墜落した。
「腕の力で鬼が負けてなるものかッ!」
「――!」
苦しくも着地したところを、降下するジュリアが斬り付ける。【大弐刀】が金棒を打つと同時に、破裂した空圧によって辺りの砂利が揃って浮き上がる。発生した衝撃の強さを表していた。
「――」
追撃は続き、ジュリアは薙刀を受け止めるジロウの腹を蹴る。硬直を見逃さずに隙を突いたものの、硬い腹直筋の感触は打撃による有効打は望めないとジュリアに悟らせた。
だが挟む一手としては有用だ。
「ぬうっ……!?」
「【冰麗技六式・霜ノ槍】」
矛を地面に突き立てる。ジュリアの足元から身長の三倍はある氷柱の棘が生えてジロウの方へと波打った。串刺しにと凶悪な氷柱の波が迫る。
「なんのなんの! 【疾風技五式・渦巻嵐】ッ!」
大袈裟に振り回した金棒を地面に打ち込む。棒の先端から発生した旋風は竜巻となってジロウの周囲を取り巻く。砂利も地面も、氷柱も割って纏めて巻き上げてしまう。
「――温いッ!」
竜巻を破りてジロウが飛び出す。激しい竜巻には鎌鼬が混ざっており、突貫したジロウの肌も切る。
だが全身から血風を残しても、走る狂乱状態のジロウは止まらない。
「殺す意が足りんッ! 儂は決めている! 決めているぞジュリアぁぁ!!」
鬼は血に飢えている。
「手足を捥いだ貴様を犯す! 鼓動が止まる瞬間まで穢してくれる!」
女に飢えている。同格の強さを持ち、簡単に心屈しない女を求めている。かつては戦場に出逢いがあった。だからこそ欲望は満たされた。
「不浄に塗れた貴様に屈辱と恥辱を刻み、いずれ儂が死した時には冥府で死合おうぞォ! 憎悪の獣となった主と、死後も殺し合おうぞぉぉ!! かっかっかっかっ!!」
ジロウにとっての恋愛だった。あの頃を取り戻す。一期一会。出逢っては戦って勝って、犯して殺していたあの日々を。
戦場の昂りを、正気すら保てぬ熱を、その場で吐き出す快楽を。ジュリアならばあの情欲を担える。オブライエンにより最高の吐口が生まれた時から、ジロウの恋は始まっていた。
「解き解せない欲ほど鬱積するものはない! 覚悟が違うぞ――ジュリアよぉぉ!」
ジロウの恋心は今ジュリアのみに注がれている。
「失せろ、外道。女が靡かないからと拗れた変態め。戦争犯罪者も性犯罪者も、今後の世には絶対的にいらん」
濁る片想いは、女騎士団長の矛で迎え打たれる。




