9話、酪農家の器
カィニー騎士国には四季貴族という制度がある。五属性のうち四属性技のそれぞれを担い、警護部の責任者であるバッハを当主とするウィンター家は、冷気を操る冰麗技を司る。
他の三家もまたそれぞれ、騎士国で特に秀でた者等として四季の名がシーザーより与えられている。
特にバッハは騎士国が出来上がったその日から、シーザーの側近として盾と槍の名家を築き、守護者の地位を他に譲らない唯一無二の武芸者となっていた。
「――おかえりなさいませ、貴方」
総勢百三十三名の使用人が並ぶ中で、一人の貴婦人が馬車から降りたバッハへと声をかけた。第二夫人であるサマンサ・ウィンター。バッハと同じく厳格な性格で、今は亡き第一夫人に代わって、伯爵家として相応しくあれと自他共に非常に厳しいことで有名であった。
「ああ、戻った」
「また稽古に向かわれますか? 準備はさせておきました」
「ご苦労。それで、客人の部屋は用意できたのか?」
王城での報告から戻ったバッハが屋敷前に降り立った瞬間、場の緊張感が様変わりしていた。その鋭い眼差しを受けることなくとも、身から漏れる迫力のみで手に汗が滲む。
屋敷の気温が五度は下がって感じる程だ。
「……先に到着した者の言う通りに、一番良い部屋を用意させてあります」
「全ての者に伝えろ。今は学校へと兄に会う為に足を運んでいるが、彼が戻ったなら丁重にもてなせ。お前達も家族や親しき隣人に接するように気を配れ」
「……承知しました」
妻の返答を待たずして、整然と並ぶ使用人達の前を過ぎゆくバッハ。
その背に一礼するサマンサは、夫に意見はせずとも納得がいかない様子なのは明らかであった。当主とは言え、シーザーを除く王族達さえも顔色を伺うウィンター伯爵家をして、格別の待遇をせよと告げるも、それは酪農家の次男なのだという。
「……ダグラス、待ちなさい」
一礼して去ろうとしていたダグラスを呼び止め、身を震わせる我が子に問う。
「その子のことを詳しく教えなさい」
♤
機嫌良くやってきた屋敷で、ついに待ちに待った夕食の声がかかる。
学校から戻って部屋で休んでいるところへ、若手筆頭にして執事序列六位のクーガーが現れる。癖のある水色髪の優男だが、バッハが直々に指名してジェイクを任せた事からも信頼の厚さが伺えた。
「レイン様、こちらです」
「食うぞぉ、俺は食ってやりますからね」
「え、ええ、どうかご存分に」
椅子を引いた執事へ威嚇するように宣誓し、その子供はまるで慣れているかのように腰を下ろした。
張り付いた空気感もなんら構わず腰を落ち着けた聖国の平民は、騎士国屈指の名門貴族家であるウィンター家の面々を、退屈そうに見渡して言う。
「……バッハさんは、子沢山なんですね」
「恵まれたことにな。だが君の家庭も兄弟が三人だろう?」
「そうでしたね。あなたはお兄ちゃんになるのよって頭が痛くなるくらい何回も言われました。一回でいいっつうの」
食堂の席に動揺の波が広がる。あのバッハが食事の席で会話をしていた。誰の発言も許さず食前の祈りを終えると黙々と食事を始め、終えるなり自らのペースで一言もなく退席するあのバッハが。
「ふっ、三男の誕生がそれだけ嬉しかったのだろう……さっ、夕餉を始めよう。ここにいる者だけだが、家族の紹介は食事を摂りながらでもいいか?」
「勿論です。この見るからに優秀な方々を、心ゆくまで俺に自慢してください」
「はっはっは、そうしよう」
バッハが笑った。これもまた夢を見るようなものだ。夫人や子供達、そして使用人達まで例外なく鳥肌を立ててその様を恐れる。
その間にもシェフ達が粋を集めた料理が淡々と運ばれ、長いテーブルは所狭しとなる。
それから揃って人類王へ食前の祈りを終え、非日常的な晩餐が始まった。
「好きな物を取り分けて食べると良い。我が家では武門の家系ということもあって、このような形式で自ら食べる物を選ぶ。自身による身体作りを徹底させている」
「はぁ、はぁ……興奮して来た」
酪農家では一目することも叶わない豪勢な料理の数々に、息遣い荒くしている。この様を機嫌良さげに見るバッハも、とても想像すらできなかったものだ。
本日の夕食は、こうして賑やかに始まり、終わるのだろう。
「二人目の妻サマンサと三人目のシャンティだ。初めの妻は病で他界している」
「よろしく、よろしくっす」
前のめりになって手を差し伸べたジェイクに言葉を返すことはなく、頭を軽く下げて応えたサマンサ。
シャンティと呼ばれる女性は物静かにぎこちない笑みを浮かべ、握手をして返礼とした。自分達と同じバッハ近くに座る平民に、どう対応すべきか迷っているようにも見受けられる。
同様に紹介される兄弟や姉妹達もまた同じだ。
「リカルドとは会ったそうだな」
「うちの生意気な兄ちゃんがつけ上がってたみたいで、それを注意してくれていました。立派な御子息です。勘違いしちゃってる兄ちゃんは明日にでもシバいとくので、安心してください」
「腕に覚えのある者は誰にでも図に乗る時期はある。私にもあった。それにリカルドも打倒クリス君、カティアも勉学という課題があるからな。君の兄のことばかりは言えん」
声色も変え、身内に対しては徹底して厳しい苦言を呈する。全体ランク二位という武において突出していようとも、たったの一度も褒めたことはない。ウィンター家は成長を続けて然るべきとの考えが当たり前であるのだから。
「あらぁ……まっ、それこそ誰にでも苦手分野はありますよね。なんならそのうち俺が勉強を見てあげましょうか?」
「……できるのか?」
「……」
学問を習う機会すらなかった平民が、貴族の通う学校の勉強を教えると言う。そもそもの知識が無いのに可能である筈はない。
しかも三つも年上の内容だ。だが発言したのは、このジェイクなのだ。
内容すら知らないであろうに自信ありげなジェイクへ問うと、彼は急に物憂げな面持ちとなって語った。
「……昔から計算とか自然と頭に浮かんじゃうんですよね。解を無意識に打ち立てちゃうんですよ」
「ほう、その方面もできるのか」
もっと悩みたかった。苦労したかった。天才故の苦悩を寂しげな表情に表している。
「……」
「……」
だが未だにジェイクをよく知らない執事達やリカルド、そして軽薄者を嫌うサマンサはジェイクの虚言を疑わず、ただ静かに食事を進めるのみ。
夕食はバッハとジェイクの談笑のみが弾んでいく。
その様子は酷く不自然で、大多数にとっては理解できないものであった。少なくとも、翌朝までは。
♤
「――ジェイク様、朝です」
「……そうだね。馬鹿じゃないんだから報告してくれなくても朝なのは分かるよ。それはあなたじゃなくてお天道様の仕事なんだよ」
早朝、無粋にも快眠から揺すり起こした若造を見上げて呆れる。
昨日のクーガーとかいう優男だ。まだ日が昇って程なくなのに、実家の早起きから解き放たれた俺をいつもと変わらない時間に起こしやがった。
だが郷にいれば郷に従えとも言う。この時間に朝食をと言うのであれば、食らってやろうさ良い朝食を。
だと言うのに、
「……てめぇ、騙したな?」
ニヤけるクーガーとか言う小僧の胸ぐらを掴む。
「はっはっは、滅相もございません」
「飯に心躍らせてスキップして付いて行ってた俺を、どんな目で見てた? どんな思いでここに連れて来た? 言ってみろやコラァァァ! ウワァァァぁァァぁ!」
大騒ぎして明日から起こす気が起きないようにする徹底振り。数千人は集まっているウィンター家所有のだだっ広い鍛錬場に、俺の絶叫が木霊する。
「旦那様からジェイク様の早朝鍛錬に付き合うように言いつかっております」
「……あんたが? どうせなら一番を連れて来てよ」
「執事序列一位のアーロンは現在ご長男に付いております。それに普段のアーロンは旦那様付きですので、ジェイク様も認められればそちらへ参加できるでしょう」
「はんっ! 俺が認める事はあっても、あんたらに認められるような事はないっすね」
「ですがこれも経験です。ご実家ではこのような質の高い鍛錬は望めません」
「質の高いねぇ……」
軽く手合わせをするクラウスとバッハ。単純な徒手空拳による格闘戦だが、重々しく鈍い音が続々と生まれる。
そしてその衝撃に叱咤され、闘争心から歯を剥き出しに槍と盾でぶつかり合う門下生達。その中にはリカルドやカティアの姿もあり、ジェイクは一通り見渡してからクーガーへ向き直る。
「……言いたい事は分かりました。けど俺にも自分の鍛錬法がある」
「ふむ……」
「だから手合わせして、俺がクーガーさんに勝ったら明日からは俺のやりたいようにやる。俺が負けたら言われた通りにご自慢の質の高い鍛錬をこなす。どうっすか?」
「……宜しいのですか?」
そのような条件で本当に良いのか……たった一言にこれだけの内容をギュッと押し詰めて投げ返される。
確かに今の俺がクーガーから一本を取るなど、微塵も考えられない。有り得ない。
クーガーが予想外な話を持ちかけられ、間の抜けた顔を見せるのも当然だ。
だが俺が明日からの稽古に納得できる理由を求めているとでも考えたのか、すぐに首肯を返してきた。
「それではそのような取り決めでお相手をさせてもらいます。お怪我などは決して負わせませんので、安心して臨まれてください」
「うん。俺も手加減してあげる」
「ありがとうございます」
客人と言えども、ウィンター家の屋敷では朝から殴り合いで始まるらしい。
♤
早朝のウィンター家での鍛錬はすべてだった。騎士や武芸者にとって一日の内で鍛錬本番。
だからこそバッハやクラウスの参加する早朝稽古は、誰も彼もが鬼気迫る表情で取り込む。
「でりゃぁーっ!」
「ぐぅ……! セリャ!」
怪我にも負けず、午前からの仕事も頭から排除し、徹底的に体を痛めつける。さすれば自ずと後の一日も鍛錬に様変わりする。
「オラオラオラオラオラ!」
変わり映えしない暑苦しい景色ばかりの日々で、本日は一風変わった気合いの声が混じっていた。
片手斧を躊躇なく振り続け、あのクーガーへと襲い掛かる少年。面接や実技試験を受けて合格した者のみが参加できるウィンター家の稽古に、バッハの意向で招かれたという噂の少年だろう。
「どうしたどうした! 押されてるんじゃないの!? 俺が!」
「はっは! 想像以上なので私もこのくらいで挑まなければならないのです。ご勘弁を」
神足通を通した手刀で斧を払い、小柄な少年を実力にて押し込んでいく。
当然だ。相手はあのクーガーなのだ。カィニー騎士国を代表するウィンター家において、まだ若い齢にして序列六位に位置する凄腕の武芸者だ。
つまりはその腕前は、騎士国の最上位層にあるという事になる。
少年は最上位への壁へと後退しながらも懸命に斧をぶつけ、蹴り技も使ってクーガーの歩みを止めようとしている。
彼は何処までやれるのか、招いたバッハ自身が誰よりも二人の手合わせに釘付けとなる。
「……」
「気になりますか」
「現段階でクーガーに手傷でも負わせられるのなら、本格的に我が家門へ招きたいからな。誰かにあの子の存在が露見する前に」
「……蹴りも見事です。あの時、よく見つけられましたね」
「聖国が気付かない事を祈るばかりだ」
手を止めて見物するバッハとクラウスのみならず、不思議と練武場全体がその戦いを静かに見守っていた。
「ここ空気薄くないっ!? ゼェ、ゼェ!」
「もう全力で動き続けて五分は経過します。疲れるのも必然かと」
「だったらそろそろ終わりにしてやるよ!」
「そうしましょう」
自身を超える才覚を垣間見たクーガーが、嬉々として天耳通を使用。
後方に飛んだジェイクへと、マナの球体を放る。軽々しくも技量とマナ強度により痛烈に放たれる、質量の塊だ。
「【天耳通系第二等技・勁砲】」
「これは普通に怪我すんだろ!」
「ほう……?」
むしろ前進したジェイクに微かな期待感を持つ。ジェイクは紙一重で【勁砲】を飛び越え、上空から飛び蹴りをクーガーへ繰り出す。
「……!」
手刀で受けたクーガーは、そこが足場とされている事を即座に悟る。本命は逆脚の回し蹴り。
「オラァ!」
「素晴らしい……!」
まだ少年ながら見事な機転に、無意識の賞賛を発していた。ジェイクの評価は加速度的に上昇する。評価を決めようとする矢先から向上するのだから困る。
だが、旋回する回し蹴りは不発。回るよりも素早く軸足を掴み、元の位置まで投げ戻した。
「ダハァー!?」
「……これは確かに欲しくなる逸材ですね」
コロコロと愉快に転がるジェイクへと、好奇の眼差しを強める。確認するまでもなく、鳥肌が立っている。
かつて、ここまでの原石と出会った事はない。そう断言できる。
実力もだが何より精神力と対応力に優れ、互いの力量差を縮める発想力に富む。それは簡単に得られるものではなく、内心では多くの者達が彼の『特別な持ち味』に羨望の思いを抱く。
「ジェイク様、もしよろしければ――」
直々にこの原石を磨きたい、堪らず声を掛けたクーガーだが、台詞は続かない。
「馬鹿者ッ! 上だ!!」
「――!?」
バッハの焦燥感すら感じる怒声を受け、咄嗟に頭上を見上げる。
「――」
目の前だった。視界を埋めるほどに――斧の刃が眉間に迫っていた。
ゾッとするほど冷たく、純粋な殺意が眼前に迫っている。死を察するのに余りあり、猛烈な危機感にも過不足ない。
クーガーは反射的に、過去最大限にマナを全開にして神足通を通した。五歩分を一気に伸ばして、激烈な後退を成功させる。ここでまた、クーガーにも天賦の才が光る。
「……!?」
その頬を掠め――赤い線が走る。窮地を脱した直後、その瞬間に反応する事などできない。頭で認識するよりも、ただ痛覚で生を確かめる。
それから血の伝う頬をそのままに……恐る恐る、小さな強襲者へと視線を向けた。
「……」
「……」
膝を突いて右手の人差し指を伸ばして構え、こちらへ狙いを定めるジェイクと視線を交わす。
そして一呼吸も置かずして……斧が地面を打つ音が生まれる。勝負アリと合図しているかのように、刃が決着を告げる。
「……誰の異論もなく、ジェイク君の勝ちだな。クーガーを相手に、誰も想定していなかった結末だ」
「【赫点】……基礎中の基礎ですが使い方次第、使い手次第という言葉を痛感させられました……」
夢を見ているようだった。
強烈な興奮から肌を粟立たせるバッハやクラウスでさえも、現実なのか不確かに、異次元な実力を見せるジェイクに畏怖を覚える。決して超えられない一線を容易く超えてみせたジェイクに、憧れさえ抱く。
細く短いマナの光線を打つ【赫点】。練度次第では一撃必殺も夢ではないが、多くの者は基礎として終わらせる簡易的なマナ・アーツ。
だがクーガーは成す術なく、それを受けてしまう。決め手に至るまでの過程を経て、確実な敗北を演出されてしまう。
「ふう……」
溜め息を吐いたジェイクは立ち上がると歩み出し、斧を拾って目を剥いて固まるクーガーの元へ。
複雑な内心から立ち尽くすその胸を叩き、何の気無しに声をかけた。
「俺が手を抜いていて良かっただろ?」
「……参りました」
自信の漲る不適な笑みを前に、自然と微笑み混じりとなって諦めた。
何度くり返しても結果は変わらないだろう。ジェイクはこの戦法以外でも実力差を覆して勝利せしめるのだろうと、その眼差しから確信してしまった。
であれば、なんの言い訳もできない。クーガーは自身の完全な敗北を受け入れた。
「二度も見逃していただいては、何も申せません」
「んじゃ、帰っていい?」
「勿論でございます。朝食になりましたら、お呼びに参りますので」
「ばいばぁ〜い」
斧を腰のベルトに差し込み、スキップの足取りで去っていくその背を見送る。
礼するその背へと、クラウスが声をかけた。
「未熟ですね、とは言えません。私も同じ事をされたなら敗れていたでしょう。ジェイク様は明確に“特別”です」
「返す言葉もありません」
「一度目の斧は前髪を掠る軌道でした。ジェイク様がその気なら脳天に刺さっていた事でしょう」
「飛び蹴りの際に視界を隠して上へ投げていたようですね。回し蹴りも囮だとは、感服します」
「二度目の【赫点】もです。あれが斧に当てられていれば斧は加速して押し出され、あなたは死んでいた」
「……」
それだけではない。
皮一枚を裂いたマナ・アーツの精度。これも背筋を震わせる。あの距離から正しく針の穴を通す精密さだ。
ただ子供に現実を教える為の手合わせが、この様だ。覆せない実力差は確かにある筈なのだが、その不可能をも覆えしてしまう確かな『格の差』を見せ付けられる結果となった。
「あのクーガーがっ、負けただと……?」
「……」
リカルドにはその事実が受け入れられない。とてもではないが、信じられない。
ただ呆然と立ち、ジェイクが去っていった方向を見続けるカティアとは正反対に、感情を抑えきれない様子が隠せないでいる。
当然だ。リカルドの目標である父や兄達でさえ、《鬼才》と呼ばれるクーガーに勝つのは簡単ではないのだから。
「これが“器”だ」
「……!」
「彼はこの私の想像も難なく超えていく。見てみろ」
叱り付けられて然るべき無様な姿だが、今のバッハは子供達へ諭すように語りかけている。
手振りで鍛錬場全体を指し、子供達は言われるがままに辺りを見渡した。
「……」
「……」
虜と言えるまでに、魅入られていた。器の引力に逆らえず、強烈に惹きつけられている。その場を共にした誰もが、自身に這う鳥肌を見ながら興奮し、焼き付いた憧憬により子供のように目を輝かせている。
「カティア、アイクとの婚約は白紙に戻すつもりだ」
「……! で、ですがっ――」
「お前の代わりがいない。ジェイク君に貢げる代役がいない」
「……」
バッハはそれだけを言い残すと、反論の言葉を持たないカティアを置き、高まる闘志を携えて歩む。同様に静かに気を高めるクラウスの元へ舞い戻った。
彼もまた、再び熱を刻まれた一人であった。