28話、後にも先にもただ一人
愚かにも神話を前に調子づいてしまった吸血鬼は、動けずにいた。糸目を開き、心構えを組み、戦闘を覚悟したモトイにより、凍り付いていた。
謙虚な様をそのままに、しかし纏う威風は堂々と。
幾たの巨戦を生き延び……いいや、蹂躙して来た〈ノアの方舟〉が、本来の姿で眼前へと現れる。
「よく考えてください。どうしてあなた方の王が、私などに声をかけているのでしょう」
思えば吸血鬼のみで戦えばいいものを、なぜ人間如きを引き入れるのだろう。吸血鬼は今更になって疑問を抱く。上位者からの命令は絶対で、意思に関係なく従うもの。だからこそ今回の指示にも疑う事はなかった。
「私があなた方の大多数よりも使えるからです。多くの吸血鬼よりも王の役に立てるからです。戦闘に関しても私は衛生兵ではありましたが、それでもあなたくらいならば片手間に葬れる」
隊員達でも稀にしか見られないモトイの戦闘。だがどれもが壮絶で、腰が低いからとモトイを軽視できない要因の一つとなっていた。
モトイがいるからこそ、どの国も大図書館を攻められないのだ。
「それから、やはり私はどの勢力にも加担しません」
大図書館を戦争の火から護るために、鍛え上げたマナ・アーツを使うのみ。モトイは十三年間、これを一貫している。
「敢えて言わせていただくと、私はユーガ様の遺言を支持しています。あなたの主人にも、そうお伝えください」
その遺言の多くが無視されている現実に微かな憤りを垣間見せ、モトイは吸血鬼へと最後に告げる。明らかな警告を添えて。
「どうぞ、お引き取りを。くれぐれも誤った手段を取られることのないよう、強くお願いします」
頭を下げて旧帝国時代の礼儀を示し、モトイは吸血鬼に帰るよう促した。
「……」
吸血鬼は今までと違って戯ける素振りはなく、無言でその姿を消す。残ったのは安堵の溜め息と脅威が消え、慌てて遺跡へ戻るバジリスクの這う音だけ。
「なんとか穏便に済みましたか。理解ある方で助かりましたね」
モトイも嘆息混じりに解決を喜び、踵を返して部下達へと笑いかける。
「さあ、私達も戻りましょう。あまり大図書館を離れたくはありません」
「承知しました」
エルラ・トリラ大図書館へと帰還したモトイ達。時間にして一刻ほどだが、モトイなくして急襲されたなら制圧されていてもおかしくない時間だ。
だが相当な計画性でもなければ問題はない。
この時もモトイはそう楽観視していた。
「……すみませんが、先に戻ります」
「モトイ様っ?」
天眼通を通したモトイは三キロ先にあるエルラ・トリラ大図書館を遠目にし、即座に姿をかき消した。神足通により加速したモトイは、騒ぎが起こり司書や働き手達が行き交う大図書館へ急ぐ。
「何があったのですかっ?」
「モトイ様、良かった! お戻りになられましたか!」
モトイに気付いて安心したような顔付きとなったところを見ると、襲撃などではないと分かる。杞憂に終わったことに胸を撫で下ろし、ならばこの騒ぎは何故なのだろうと改めて問う。
「留守中に何かあったようですね」
「そうなのです! あのお方をお迎えしておりました!」
尊き者であるらしいと分かる司書の物言い。まるで自分に対して取られるような対応に、先程のような自陣への勧誘が脳裏を過ぎる。
「きっと私に会いに来られたのですよね。案内してもらえますか?」
なんにせよ、まずは会ってみなければ始まらない。司書に続いて騒ぎの渦中にある人物の元へ向かう。
だが、その人物はモトイの予想する者等ではなかった。
「シズカ様っ、あなた様でしたか!」
モトイはいつものテーブル前に立つ姿を目にすると、大慌てで駆け寄った。
既知の人物であるのは勿論、未だに交流のある数少ない同胞だ。
「お久しぶりです。変わらず元気そうで安心しました」
「事前に知っていたらお出迎えしましたのにっ。運悪く留守にしておりました。何はともあれ、さっ、お寛ぎください」
《金羊の船団》の一人としてユーガへ仕えた仲間であり、《烏天狗》として世界に名を轟かせるあのシズカであった。どうやら大図書館の騒ぎは彼女の世界一とも言われる美貌に浮ついていただけらしい。
「バジリスクが出たのだとか。鎮める為に大図書館を離れるとは、あなたらしい」
司書の心を一瞬で鷲掴みにする微笑みを浮かべ、シズカは楚々として椅子に座った。その洗練された所作から、何から何まで以前と変わらない。モトイの胸にあの頃の懐かしさが溢れる。
「平穏に暮らす魔物に罪はありませんから」
書物を保管する塔の内部は飲食厳禁である。モトイは心奪われてシズカから目が離せないでいる司書へと歩み寄り、もてなしできる場所の手配を願い出る。
「すぐにシズカ様をお迎えする準備を。ここではお茶も出せません」
「っ……こ、こちらにお持ちしましょう!」
「いえ、シズカ様はそのような待遇を求める方ではありません。むしろ叱られてしまいますので、お早く準備を」
「か、かしこまりました……!」
彼らしくなく荒々しく駆け出したその背を見送り、改めてシズカへ対応する。《烏天狗》はモトイをしても神聖な存在であり、どちらかと言うなら神に近い。ユーガや幾人かの例外を除き、畏れ多く感じてしまうものであった。
「近くを訪れたついでですか? 以前はお手紙をいただき、こちらから外でお会いさせていただきましたが。あれからもう四年とは……」
「早いものですね。四年で何か変わりましたか?」
「変わったこと、変わったこと……」
こういった際に年齢を感じる。言葉が出るのが遅くなる、記憶を辿るのに時間がかかる、それも変わったことと言えるだろうが、自分では認め難いもの。となれば、これしかない。
「……飼い犬が散歩に付いて来てくれなくなったくらいでしょうか」
「四年の変化がそこまで寂しいものなのは何故なのですか……」
「シズカ様はどうですか? どことなく明るくなられたように見て取れます」
「……」
今のシズカを目にした印象から出た率直な意見だったのだが、シズカは顔を僅かに顰めて黙り込んでしまう。
「……あなたの健康が確認できたからでしょう」
「お医者様のようなことを仰られますね」
「近況報告は後ほどゆっくりと。まずは本題を優先させてください」
やはり明るくなった印象を抱くも、シズカは誤魔化すように本来の目的を切り出した。
「今回はあなたに会いに来ました」
近くを通りかかったものと思っていた。意外にも目当ては自分というシズカに、モトイは予想もしなかったと表情に表す。
「偶然に会う機会のあったある人から、あなたに伝言を預かっています」
「ある人から……なるほど、では頂戴します」
シズカはユーガのたった一人の愛人であった。子供達にも目をかけ、シーザーなどは特に懐いていた。その誰かから勧誘を頼まれ、それくらいならばとシズカは引き受けたのだろう。
「それでは……」
しかし気も楽に静聴を始めたモトイは、この伝言により寿命を縮めることとなる。
「……盆栽、今から俺の言う通りに動け」
モトイの糸目が、飛び出そうになるほど見開かれる。
「……い、いま、なんと?」
「ですから伝言の始まりは……盆栽、今から俺の言う通りに動け、です。正確には、おい盆栽この野郎でしたが品がないので私が訂正しました」
《ノアの方舟》であるモトイを“盆栽”と呼ぶ者は、過去にも未来にもたった一人だけ。今は亡きあの者、たった一人のみ。




