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ミリオン  作者: おこき
~第二幕~
35/76

第33章

ひとしきり 鼻歌を歌いながら落書き、もとい魔術の説明図を描く金色さらさらヘアーの女性。数十分前まで、セレネに魔術を教えることを勿体ぶっていた様子が嘘のようだ。


「次は、魔術の発動までの流れを教えるわ。 魔術が発動するまでには大きく分けて四つのプロセスがあるの。 とりあえずこれを見て」


 ノーションは自慢げに描き上げた図形をセレネに差し出した。

 棒人間が真ん中に立っており、両サイドには専門用語が箇条書きで書かれている。

 セレネは、子どもの様な落書きと専門用語を流し読み、とりあえず顔を上げた。


「見た? 四大元素は体内魔力にも含まれているわ。 勿論、霊脈とかの土地関係で、バランスが偏ってしまう場合もあるけれど、大抵一つの属性が約二五%の割合で含まれている。 で、そこに書いてある棒人間“ボーちゃん”の主属性が“火”であったとしましょう。 彼が魔術を使うならまず、魔術が発動するように四大元素を体内で調整する必要があるの。 イメージ的には……そうね、外部から魔力を取り込む機能を無くしたMFのセフィロト・ドライブかな」


 顎に人差し指を当てながらセレネに補足を加えるノーション。MFの例えを聞いた瞬間、セレネのつぶらな瞳が見開いたのを確認し更に続ける。


「魔術ってのは、四大元素の比率を調節し、術式を使って思惑どおりに四大元素が作用するようにしているだけで、原則として魔術師は、四大元素がなければ何もできないの」

「その言い方だと魔力は大して重要じゃないみたいだな、四大元素さえあれば魔術が使えるんじゃないのか?」 

「魔力は、四大元素を含んだ水みたいなもなのよ。 そして、四大元素は魔力の中でしか、性質を発揮しない。 もし、魔力がなければ、四大元素が死ぬわ。 魔力が大きい人ってのは、それだけ四大元素を豊富に泳がせることができる水槽を持っているんだから、有利よね?」


 確認するように上目遣いでセレネに同意を求め、セレネはこくりと頷き続きを促す。


「オーケー。 まぁ、中には四大元素に左右されない、一族で継承している魔術とかもあるけど、それはそれ。 後、生まれつき魔力が少なかったり、魔術の知識が無い人間が強引に魔力を扱えば負担が掛り過ぎて体を壊すわ。 風邪を引く程度のものもあれば、内臓破裂するものまでピンキリね」


 セレネは目を左右に泳がしている。


「四大元素をどう調節すればいいんだ? そもそも私は、魔力を感じることすらできないんだぞ?」


 笑いながらセレネを見やるノーション。


「最初はそんなもんよ。 魔力を使っていけばなんとなく感じることができるようになってくるわ。 頭で考えるより感じるの」

「うむむ、難しいな……どんな感覚なのかせめて教えてくれ」

「う~ん、その例えこそ難しいわね。 性格みたいなもので感じ方は人によって違うし。 私は、ピリピリする感じかな、最初は痺れが切れる感じで魔術を使うと、スカーとエクスタシーが来た時みたいに――」

「わかった。 よくわからないから次の話をしてくれ。 自分で頑張る」


 ピシャリと話を打ち切り、セレネは頬を膨らませる。あら、そう?と不思議そうな顔をしてノーションは言われるまま次の話をする


「この棒人間の“ボーちゃん”は、体内にある元素“水”“風”“地”を主属性“火”で上塗りするの……これを付加(エンチャント)と言うわ。 まぁ、上塗りができる属性が主属性と考えて。 ちなみに、二つ星(ダブル・センス)なら二種類付加できる属性があり、三つ星(トリプル・センス)なら三種類付加できるといった感じ」

「ふむ」


 ノーションの説明に一言反応するセレネ。両手を太股ではさみ、今にもベッドから乗りだしそうなぐらい前かがみになりながら話を聞いている。


「例えば、相手を焼き尽くす圧倒的な火力を出す魔術なら、“火”が八〇%、火を強めるための“風”が二〇%と言った割合に微調整する。 蒸し焼きにする魔術を使うならだいたい“火”が六〇%、“水”が四〇%。 ただし、“火”が主属性のボーちゃんには蒸し焼き魔術は使えないわ。 何故だかわかる?」


 真剣そのものの蒼髪の少女を試すような笑みで、金の髪を耳にかけて問う。


「ボーちゃんの対属性が“水”で“水”を四〇%まで付加できないからか? 確か、体内にはそれぞれ二五%ずつしか四大元素は存在していないんだろ? 主属性以外、付加できないとなるとボーちゃんは、“水”を四〇%まで上げることはできないじゃないか」


 ほぼ即答したセレネに、「ぬっ……」と声を漏らし顔をしかめるノーション。長い溜息を一つ付いて言った。


「なんか悔しいわね。 私とはできが違うわ……。 正解よ。 相手を蒸し焼きにする魔術が使える魔術師は主属性が“地”か“風”の三つ星(トリプル・センス)ということもわかるわね。 “水”と“火”のエンチャントができるのは、このどちらかが主属性じゃないとできない。 “火”の魔術を使うからと言って必ずしも主属性が“火”とは限らない。 付加は字のごとく“元素を付け加えるとしかできない”のよ。 見習い魔術師が引っ掛かる意地悪問題だったのになぁ~」


 呆れた口調でセレネを恨めしそうに眺めるノーション。磨き上げたノーションの魔術もセレネならば何の苦もなく習得してしまうのかもしれない。いや、『思い出す』と表現する方が彼女の場合、適切であるが。


「相手が使ってくる魔術をしっかり見れば、およその主属性が逆算できるわ。 蒸し焼き魔術なんて使ってくれば、術者としては相当の使い手だけど、戦闘素人ね。 対属性ってね。 どんなに勉強しても本人が体感できないし、耐性も無いに等しいからバレると対属性の魔術の嵐を受けてソッコー殺されるわ……ただの魔術師ならね」


 ただ、という部分をやけに強調して補足を付けたノーションは、セレネから紙を取り上げた。


「さぁ、続きよ。 四大元素の付加もそうなんだけど、術式も体内で組み込む。 魔術師の体は“魔術の工場”と言われるように、付加だけでなく術式の組み立てなども体内で行うの。 ただし、簡単でよく使う術式は脳内イメージで組み立てることができるけど、大がかりなものや、複雑なものはイメージに(ほころ)びが出てしまう。 そこで文字と言葉の力を借りるわけ。 いわゆる“魔法陣”と“詠唱”ね」

「魔法陣を書いたことがない、天才肌の魔術師もこの国にはおるらしいが、魔法陣を書くことで術の仕組みを再確認できるから、最初はなるべく書いて覚えた方がええぞ」


 ドクターMが欠伸をしながら眠たげに言葉を投げている。

 普段から開いているのか閉じているのかわからないまぶたが、小刻みに震えては止まり、船を漕いでいるように首がこくりこくりと揺れていた。


「そうね、魔術師見習いはみんな、本を見ながら術式を紙に書きまくったり、朝から晩まで同じ詠唱を連呼したりして頭に焼き付けるのよ。 意外と地味でしょ? 懐かしいな~師匠に一日、千枚ぐらい同じ術式をびっしり書かされ、夢の中で詠唱していた日々を思い出すわ」


 こめかみを押さえながら思い出話をするかのように声を丸くするノーション。砕けた一面の中に確固たる自信が垣間見える彼女の態度は、想像を絶する努力で魔術を習得してきた経験があるからなのだろう。


「凄まじく……地味だな。 魔術師の修業は、祈ったり、空想したり、もっと神秘的なものだと思っていたぞ」

「あのね、祈ったりするだけで魔術使えたら苦労しないわよ。 祈るのがお好みなら教会に行って神子(みこ)になりなさい。 名門家系なら適当にそれっぽいこと言ってれば儲かるし、帝国の巫女でいいなら、ちょっと踊りながらお祓いすればガッポリよ。 あの国は今、国勢が悪過ぎてそろそろ巫女の妄言に頼るしかないからね」


 人差し指と親指で円を作って唇を歪める金髪の女性。セレネは、表情を変えずにぎこちなく頷く。


「あいつらは、魔術の風上にもおけないもぐり野郎よ、何が起きても二言目には神。 そんな便利なお方がいるなら、世界はもっと平和になってるっちゅーの」


 ボーちゃんの下に何か書き足しながら神子・巫女に否定的な態度を取るノーション。老人は完全に眠っていた。セレネは、またもやそれとなく頷くだけである。


「長々と話したけど、要するにこういうこと」


はい、と紙をセレネに再度手渡し、ノーションはセレネの反応を待っている。

ボーちゃんの下には矢印と一緒にこう書かれていた。


一、主属性を付加(エンチャント)して他元素を調整。

二、術式を組み立てる。※複雑な場合、魔法陣・詠唱で補足。

三、エンチャントで調整した元素が含まれる魔力を術式へ流し込む。

四、魔力を外に放出し、魔術発動。


「なるほど、これが魔術の仕組みか。 これを一瞬で出来て一人前と呼ばれるのか、ふむふむ」

「絶対にこの手順は守りなさいよ。 せこい奴がよく、体内魔力ではなく大気中魔力を取り込んで魔術行使を行うんだけど、自然界の魔力なんて半端なモノは術者の制御下を離れて体の魔力と強く結びつく……最後は生命維持に必要な魔力まで食い尽くすわ」


 いつになく真剣な目で蒼い瞳を覗きこむノーションの剣幕に圧倒されたセレネが、唾を飲み込んでから尋ねる。


「その……生命維持に必要な魔力が食われたらどうなるんだ」

「生命力が外に流れてミイラみたいになるか、魔力供給が止まらなくなって体中の血管が破裂、血の雨が降るかのどっちかね。 つまるところ――死ぬわ」


 嫌なものを見たかのように目を背けたのはノーションだった。セレネは、ノーションの爪が拳にめり込んでいく様子を見逃さなかったが、視線を戻し、口を開く。


「なんだ、その……私は良い子だからルールは守るぞ」

「えぇ、私もそう願うわ。 魔女が魔力の扱いを誤って死ぬなんて笑い話にもならないしね。 あなたが不死身という逸話は本当だと思うけど、生命力を抜かれて生きているかどうかなんて実験もしたことないから、魔力の扱いには気をつけなさい」


 脅す様にドスの効いた声を出しながら、腕を組むノーション。金髪眼鏡の女性に上から見下ろされ蒼髪の少女はせっせと何度も紙を上から下へ読み返し、頭に記憶を開始する。

 満足げに笑うとノーションは喉を鳴らしながら冷めきったホットミルクを飲み干し、カップを力強く机に置いた。


「はぇ~、生き返る~。 ドクター、追加お願いします。 ちなみに、そのプロセスの一と二は省くことができるわ」

「何! 本当か! じぃじぃ、私にもくれ」

「んが、あのぉ、ワシ。 寝てたんじゃが……」

「「くれ」」


 寝ていたにもかかわらず叩き起こされ、女性陣から声を合わせてミルクの追加を頼まれたにも関わらず、何故か上機嫌に文句を言うドクターM。

 それは何故か。彼がドMに他ならないからだ。


「ところで、一と二を省略できるとはどうゆうことだ?」


 セレネが急かすようにノーションの白衣を控えめに引っ張る。魔術について勉強しているセレネは子どものように活き活きしている。


「はいはい、ちょっと待って。 今教えてあげるから、一本だけ吸わせてちょうだい」


 タバコを白衣の右ポケットから取り出し、銀メッキのライターで火を付け、一息ついた。窓際に移動し、夜空に向かって煙を吐く金髪の女性は、窓の仕切りに腰を乗せ、足を組みようやく口を開く。


「一と二の過程は下準備をしておくことで省略可能なの。 俗に簡易魔術(ショートカット)って呼ばれているわ。 ショートカットにも色々種類があってね。 自分の魔力の三分の一程度を常に主属性で満たしてストックしておけば、主属性一〇〇%で発動できる魔術ならエンチャントしなくていいでしょ? 四つのプロセスが『術式の組み立て・術式への注入・外部放出』の三工程で出せる」


 ノーションが確認するように細めた横目でセレネを見る。ぽかんと口を開けたまま呆気にとられた後、力強く頷くセレネ。


「で、もう一つ、体のどこかに術式を組み立てておく場合」


 火のついたタバコを口でくわえながら、袖を巻くって右手に魔力を流し込み、入れ墨を浮かび上がらせるノーション。

 しなやかな腕にびっしりと刻み込まれた螺旋状に連なる文字が、妖しげに青白く光りを放っている。


「術式だったのかそれは。 どんな魔術が使えるんだ?」

「使える魔術がバレるのは、魔術師にとって致命的だからヒミツ。 でも、多くて三つ程度の魔術を刻み込むが限界よ。 面積的な問題で体に魔法陣が書き切れないからね。 それと、術式を体に刻み過ぎるとふとした拍子に暴発しかねないわ。 言わば、弾の入ったバズーカ砲を常に振りまわしているようなもんだから管理するのも結構大変なのよ。 今みたいに魔力を流し込まない限り、術式が浮かび上ることはないけど、この状態で間違って魔力を外に放出でもすればここの屋根が吹き飛ぶぐらいの風が起きるわ」

「わかった、わかったから、屋根を吹き飛ばしたそうに天井を見るでない! ほれ、これが最後のミルクじゃぞ」


 ドクターMは、ノーションの行動を見て完全に目が覚めたようだった。皺だらけのまぶたの下に、意外と大きい瞳が見える。ドクターMが開眼しているのだ。ただ事ではない。

 それに対し、目を輝かせながら青白い光を眺めるセレネ。カップへホットミルクを注がれていることにも気が付いていない様子だ。


「冗談ですよ、ドクター。 やりたかったら、もうやってますから。 これ、灯りが無い時に便利なのよね~。 ほら、みてみて~綺麗でしょ?」


 術式を見せびらかすように、控えめな光を放つ腕を振りまわすノーション。セレネはその威力を知らないがゆえに、縦横無尽に舞う綺麗な光を放つ腕を拍手しながら楽しそうに眺めているが、ドクターMは、ノーションの腕が止まるまで血相を変えて縦横無尽に部屋中を舞った。


「っとまぁ、主属性一〇〇%で発動する簡単な魔術の術式を刻んでおけば、術式を経由して放出するだけで、魔術の発動が可能よ。 それができたら初級編クリアってとこかしら。 理論上、刻み込む体の部分さえあれば、高難易度の術式も簡易魔術として発動することもできるわ」


 魔力の供給を止めたのか右腕から術式も消え去り、魔術を放つ暗黒の腕は細くて白い腕に戻っている。


「ほぉぇ……寿命が六〇年縮んだわい。 ノーションや、ワシはもう眠いぞぃ。 寝てもええか?」

「はいはい、お先にどうぞ、魔術講義も終わったし、これからセレネと一緒にいけないことして遊びますんで……ね?」

「終わりか? じゃ、もう部屋に……なんだこの手は、手を離してくれノーション」


 ズリズリとセレネに引きずられながらノーションは獲物を逃すまいと必死にセレネの肩にしがみ付いてくる。


「酷い! 教えるだけ教えさせて何のお返しもないなんて!」

「なんだ、有料だったのか? なら、金はリオンが払う、あいつの体を売ってでも払わせるから安心してくれ」

「違うの! セレネがここにいてくれればそれで満足よ! ほら、夜は寒いでしょ? 一緒の布団で寝れば暖かいわ。 若い子と寝るなんてなかなか無いんだから逃がすもんですか、白い肌、張りのある肌……あぁ、たまんない」


 旅仲間の体を勝手に売り物にするセレネに対し、ノーションはそんなものはいらないとセレネの腕に頬づりをしている。


「きゃぅ。 ど、どこを触っているんだ、やぁ、やめろ。 じぃじぃ、一緒に寝てやってくれ。 凄く嫌な予感がするから帰る!」

「ぐわぇ。 待って、今ならドクターの書いた“Mの書”と“ドMの書”も付けてあげるから、私と一緒に快楽と快感の――」


 ノーションをベッドに投げ飛ばし、小動物のように小走りで部屋を出てドアを両手で力強く閉めるセレネ。ドアの向こう側では、金髪の狼が「はっは」と息を荒立ててドアをがりがり引っ掻いている。


「お前さんは、若ければ見境なしか? それと、ワシの著作物を勝手に配ろうとするでない」

「だって、だって! お澄ましセレネの、みだらな姿が見てみたくないんですか! 『きゃぅ』だってぇ……あぁ想像しただけでヨダレが」

「全く、男みたいなやつじゃ。 変なことを考えていないでさっさと寝るぞぃ、じゅる」

「ドクター……今、ヨダレ垂らしましたね?」

「……きゃぅ」


 しゃがれた声でドクターMが言った。



 ドアの隙間から光が無くなったのを確認し、ほっと一息つくセレネ。


「魔術……エーテル、四大元素、エンチャント……はぁ、ややこしいな。 意外とノーションが賢そうに見えたな」


 蒼髪の少女は、薄暗い廊下で紙を読み直す。以前の少女ならば、こんなことを教えてもらうまでも無かったのだろう。

 ふと、紙を優しく胸に押さえて目を閉じる。あの荒野に立つ男の姿を思い出すために。

 途端に、セレネの眉が歪んだ。


「ッ! また、頭痛……顔は思い出せない……か」


 記憶を失った者が本能的に記憶を取り戻したいと思っても誰も責めることなどできない。

 記憶と魔術が強く関連していると判断したのか、魔術についてあまり興味を示さなかったセレネが、自ら足を運び学ぼうとした。それは、今までに見られなかった魔術と積極的に関わろうとする彼女の姿だった。

 それはきっと――悪いことではないはずだ。


「月花……どうしてお前は召喚されたんだ。 あれは私の力なのか、それともお前の力なのか、どうしてお前が私の記憶を持っているんだ」


 老朽化が進み、今にも亀裂が入りそうな壁にもたれ掛かる少女以外言葉を発する者はいない。薄暗い廊下へ隙間風が流れ込み少女の前髪を冷たく揺らした。

 天井の隅で蜘蛛の巣に捕らえられた青い蝶を何気なく見つめる。

 もがけばもがく程、糸は蝶に絡まり付き、青い羽根が白に塗りかえられ、蝶が蝶でなくなってゆく。

 その一部始終を眺めていた蒼髪の少女は悲しげに目を逸らした。


「私は、お前を抑え込んで見せる。 そして、お前が見せた夢を……ゆめ?」


 部屋に戻ろうとドアノブを握った時、セレネの小さな手が止まった。

 そして、指先が震え始める。血の気が引いたように、表情が青くなっていく。まるでバラバラ死体でも見たかのように。


「なんで……あれは夢で、ぅっ」


 吐き気を堪えるようにしゃがみ込むセレネ。思考を止めようとしているのか、目を閉じてしばらく身を固めている。

 呼吸のリズムが安定したところで、立ち上がる。水を飲みに行こうというのだ。

手探りで一歩一歩暗闇を進み、床の軋む音を聞きながら、ロビーから漏れる薄黄色い光を目指しセレネは進んだ。

 オーナーはもうとっくに寝てしまっている。それもそうだ、現在時刻は夜中の一時である。

 セレネは、“水”と書かれたレモンスライスが中に浮いているボトルから水を出し、机に置かれていたコップで水を喉に流し込んだ。

 しばらく、遠くを見つめるように立ちすくみ、再びボトルを傾けコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。


「あ……れ」


 再度、水を勢いよく飲み込み、首を傾げる。

 セレネは、焦りを目に宿しながら、手に持ったコップを祈るように両手で握りしめた。コップの中の水面が小さな波紋を作っている。コップを机にゆっくり置くと気力の無い足取りで、色が剥げた木製のドアを押して外へ出た。

 荒野を吹き抜けてきた砂の臭いがする冷たい風が腰まである長い髪を揺らすが、セレネは気にも掛けず、意を決したように唇を噛みしめて空を見上げた。

 丸くえぐり取られたような白い穴だけがそこにあった。まるで、別世界から哀れなモノを覗くために空けられたような白くて丸い覗き穴。


「満月……か」


 その晩、セレネは宿屋に戻ることはなかった。

 彼女は、軍基地へと続く砂道を歩いている。夢で見た殺戮現場へと続く道を。

 遠く離れた岩場の影で血に飢えている悪魔と同じ満月を見上げた魔女は、新たな殺戮現場へ赴くことになるなど、彼女自身思ってもいなかっただろう。

 彼女の渇きを満たすモノなど一つしかないのだ。それを理解した時、彼女は彼女のままでいられるのだろうか。

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