家守
「家守ってなあに。」
「家守ってのはお家を守る神様、家の守り神なんだよ。」
そんな会話を耳にしたのは何十年前のことだろう。もう、その記憶も霞がかった春の空のように遠くぼやけて感じられるくらい歳を取ってしまった。
私は誰かって。私は家守だ。このおんぼろ屋に長い間住んどる家守だ。なんでこんな所に住んでるかって。そりゃあ此処が好きだからさ。道草が生え、庭では芒が風に踊り、垣根や壁には蔓が張めぐり、草木が生い茂ったまるで自然の一部のようなこの家が好きだからさ。それに、私は此処に居なければならん。家守である以上、私はこの家を守らなければならん。何のためにだって。お前さんは面白いことを聞くね。誰もいない家なんぞをなんで守るのかって思うんだろ。今だからこそ誰も住んではいないが、昔は此処にも家族が住んでいたんだ。庭に生えている梅の木がまだ三尺程の頃、私がまだ子供の頃の話だ。もう、あまりよく覚えていないくらい昔のことだ。少し待っておくれ、このおんぼろの脳にエンジンをかけるからな。
よし、それでは話をしよう。
私がこの家に住み始めたのは今から二十年程前の陽春の頃だった。その頃はこの家の近くにも今よりたくさんの家々があってな、街道では市などが開かれ、夏祭りを見に来る客などでそれはそれは賑わっておったのだ。今では想像もつかんだろうがな。近隣の山々にはたくさんの生き物たちが暮らしておってな、裏山におった老猿などが生き物たちをまとめておった。山から流れる小川の辺には露草が生え、小川の中では小えびや沢蟹、めだかなどが毎日楽しそうに泳いでおった。周囲を山々に囲まれた、自然そのもののような集落だった。
この家に住んでおった家族は、母親と祖母と祖父、そして一人娘の四人だった。私は家族を初めて見たとき、心地よさとも安心感とも言えない何か幸福なものを感じた。それが何なのかは今も分からない。ただ、とても大きく、包み込むかのような何かを感じた。
此処に住み始めて少しもしないうちに、私はその娘を気にするようになった。彼女は年老いた祖母と祖父の代わりに母親とこの家を切り盛りしているらしかった。なんということはない、漠然とした興味が胸の内に湧き出たからか、私はしばらく彼女を見ていることにした。
毎日が過ぎていく中で私は彼女に段々と憐憫とも尊敬とも言えない深い情を持つようになった。家を守り、支える役目を全うする彼女に自分を重ね合わせ、何か同じものを感じていたのかもしれない。ただ、自分に与えられた役目を嫌な顔一つせずに律儀にこなしている彼女は、いつしか私の目標となっていた。
ある日、私はいつものように彼女を見ていると、その深い情に引っ張られるように自分の棲み処を後にし、彼女へと歩み寄っていった。ちょうど夕飯を作っていた彼女は、最初珍しいものでも見るかのようにじぃと私のことを見ていたが、しばらくするとまた夕飯を作り出した。私は何とも言えない感情に襲われ、しばらくの間そこにいたが、やがて逃げるようにその場を後にした。
棲み処に帰り、なぜあのような行動をとったのかなどと考えていた。どうやら私は数日前から変だ。彼女のことを気にするようになってからというもの、私の中の歯車が段々と狂い始めているような気がする。私は家守、彼女は人間、この間に何を私は感じたのだろうか。だが、しばらく考えると私は今、不安や動揺といったものを一切感じていないということに気が付いた。本当は、私は彼女に近づくことで彼女や彼女の家族が持っているものを感じたかっただけなのではないだろうか。私は知らず知らずの間に彼女らに親近感を勝手に抱き、彼女らに近しい存在になりたかったのではないだろうか。そんな自問自答を繰り返すうちに、答えは何時までたっても出てこないだろうと思い立った私は、ふと我に返った。気づけば春の霞がかった月が暗黒の世界をぼんやりと照らしていた。棲み処に帰ってから、もう三刻ばかりが過ぎていた。
生き物の心とは本当に不思議なものである。私は家族が眠りについたことを確認すると再びあの台所へ、今度は自分の意志で向かっていった。
台所は月の光を毛布に寝静まっていた。ひんやりとした釜戸の上を私の歩く細やかな音が何十倍にもなって響いた。私は当てもなく台所をさ迷い歩いた。また、意味もなく立ち止まった。そうして彼女のことを思い出しながら、また何とも言えない感情に抱かれた。
感傷に浸っていると、寝室の方で何やら物音がした。不思議と私の足は糊でくっついたかのようにそこから動かなかった。すると、寝室の方の襖が開き寝間着姿の彼女が現れた。月の光に照らされて、昼間よりも彼女は一層美しく見えた。彼女は厠に行きたいのか、落ち着きなく廊下を走っていった。彼女が走るたびにきしむ床の音を聞きながら、私は棲み処へと戻っていった。
翌朝、私が起きると、もう正午の太陽が昇っていた。私はここ二日何も食べていなかったので空腹だったが、何をしようとも思い立たず棲み処の中で夜を待った。そして、夜になると昨日と同じように再び台所へと向かった。
昨日と変わらないように見えた台所に、私は小さな変化を見つけた。釜戸の上に一つの皿があり、その上に今日の夕飯のあまりと思われるものが盛り付けてあった。私はそれを見た瞬間、以前にも感じたことのあるとても大きく、包み込むかのような何かを感じた。その場所だけが別世界に見えた。私は無意識のうちにそれに手を出していた。そして、それを口に運び入れた瞬間、幸福感とも、安心感とも、懐かしさとも感じられる、広く深い何かを感じた。本来、家守が人間の作った物を食べることなどないのだが、その時は常識や非常識といったものは私の意識から遠く離れた所で息を潜めてしまっていた。只々、幸せだった。
次の日も、そのまた次の日も、それはそこに置いてあった。私は毎日をそのためだけに過ごしている気もした。
ある日、いつものように棲み処で夜が来るのを待っていると、夕飯を食べている家族の会話が耳に入ってきた。会話の内容自体はとても単純で、ごく普通なものだったが、その会話すら私には美しい旋律で奏でられる音楽のように心地よく聞こえた。それ程までに私にとって家族は近しい存在に感じられていた。まるで、自分の体の一部のように感じた。自分勝手な思い込みかもしれないが、少なくとも私にとっては大切な存在になっていたのだ。
夜が訪れ、いつものように台所に行くと、また無意識のうちにそれに手を出した。そうしているうちに、私は不思議なものを感じ我に返った。気が付くと、台所の端にある上がり端に彼女が座ってこちらを見ていた。私は一瞬不安と焦りを感じたが、それらの次第に収まり、正常な心持に返った。彼女は私を見てくすりと笑った。その笑いに何が込められていたのか私は知らない。ただ、全てのものが素に戻るような、そんな笑顔だった。彼女は打ち上げ花火を待つ子供のように無邪気で屈託のない笑みを浮かべながら私に話しかけた。
「今日も来られたんですね。昼間はお姿を見せてくれませんので、こうして夜に合うことしかできませんけど、会えてよかったです。お口に合うか分かりませんけど、よろしければどうぞ。」
私は家守だ。ゆえに人間の言葉は話せないが、「ありがとう」と言いたかった。大声で叫びたかった。この瞬間、今まで無意識に食べていたものがそうではなくなった。別世界ではなくなった。もっと近しく、もっと意味の深い大きなものになった。ただ、それが嬉しかった。そして、人間の言葉が話せたらどれほど良いだろうと思った。この思いが、心の底から湧き上がる熱いものが、ありのままに伝えられたらどんなに良いだろうと思った。ただ、そんなことよりの今はこの幸せに身も心も委ねようと思った。その晩は今までで最も美しく、楽しく、思い出深いものとなった。
それからというもの、私達は毎晩あの台所で会った。特に当てもなく、ただ互いに見つめ合う時間も多かったが、私は幸せだった。言葉は無くとも、もっと深い何かで繋がり合えた気がした。種は違えども分かり合えた気がした。私は彼女から言葉の要らない幸せを、共にいることの幸せを教えてもらった。一人ぼっちの私にはとても大切なものだった。ただ、それとは裏腹に、毎日のように私は一物の悩みを感じた。私は家守だ。家の守り神だ。私がどれだけ願っても私は家守として存在するのだ。彼女は私を家守として見ているのであって、近いようで、実は遠い存在なのではないだろうか。彼女と過ごしていても、ふとその悩みが頭の中をよぎるたびに私は溶けた鉄を被るかのように、重く、熱い何かに心を押さえつけられた。段々と彼女が遠くなっていく気がした。しかし、その度に彼女のあの屈託のない笑みが私を救ってくれた。私はその度にこの上ない幸せを感じることができた。この時、私たちは幸せだったのだ。
私たちが出会って半年が過ぎた。季節は唐紅の紅葉たちが眩い太陽に照らされて地面を染める秋となっていた。私は冬の厳しい寒さに備えるため棲み処を出て、庭の虫たちを食べるようになっていた。生き物にとって冬は厳しいものである。私のそのことを知っていたし、日に日に寒くなっていく季節の移り変わりに不安や焦りを感じていた。ただ、あの夜の不思議な時間の中では、それすらも忘れてしまった。生き物が幸せを感じるのは、それぞれ違う場面や物事においてだが、私にとってはこの時間が全てだった。
紅葉も散り始め、冬の訪れを間近に感じる頃になってきたある日、私は棲み処で夜が訪れるのを今か今かと心待ちにしていた。その時、ふと私は彼女と初めて会った日の夜のことを思い出した。思えば、あの時から既に運命的なもので繋がっていたのかもしれないなどと、人間じみたことを考えながら私は物思いに更けていた。
ここ最近、昔のことを思い出すことが度々ある。私はその思い出に幸せを感じながら、その思い出が終わると何やら悲しいものを感じ、再び思い出に浸るのだった。そして、今の幸せを全身で感じるのだ。周りの背景があるからこそ、花は美しく、麗しく、華やかに見えるのだ。今の私達にとって、思い出は背景だった。私達は花だった。本当に美しい時だった。
ある日、いつものように夜台所へ行くと彼女が泣いていた。「どうしたのか」と尋ねることもできず戸惑っていると、彼女は泣くことを止めて私に話しかけてきた。
「私、近所の子たちと遊べないんです。私、病を、結核を患っているんです。父もそれで亡くなりました。」
彼女の目から再び大粒の涙が流れ落ち始めた。
「まだ、症状も軽いですけど。家族はそれを知ってなお、私を普通の人として接してくれるんです。それなのに、私、もし家族にうつってしまったら、どうしよう。」
彼女の目から流れ落ちる涙は月の光に照らされて、悲しげに、儚げに光っていた。大粒の涙が床に落ちる度、その音は何百倍にもなって私の胸の奥に響いてきた。彼女が私に初めて見せた涙だった。彼女がずっと溜め込んできたものは、あまりに残酷に彼女自身を苦しめていた。それは、彼女の運命が作り出した、彼女自身の本当の姿だった。儚く、悲しく、寂しく、そしてなぜかとても美しく感じられた。あの涙と共にそれらが流れ落ちたらどんなに良いだろうと思った。そして、そんな彼女に何の声もかけてやれない自分にひどく腹が立った。ただ、少しでも彼女の傍にいようとおもった。
彼女はすすり泣きながら胸の内を明らかにした。
「私、自分が怖くてたまりません。いつ私の中に潜む病魔が暴れだすか分からないんです。もしそうなってしまった時、私は私以外の人の幸せすらも奪ってしまいそうで。それでも私は生きようと強く願っていられるでしょうか。私は私自身を信じることができません。」
彼女の声はさざ波のように細かく揺れ、その声からはとても強く、また今にも壊れてしまいそうな意思が感じられた。私は胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。彼女はしばらく呼吸を落ち着かせていたが、いつものあの笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます。言葉にならなくても、あなたの優しさが私には感じることができます。これが友情というのならば、私はとても幸せです。よろしければ、この思いが確かなら、この先もずっと私の友達でいてくださいね。」
言葉では到底言い表せないものが私の全身を巡った。この上ない幸せを感じた。彼女は私のことを「友達」と言ってくれた。遠い存在などではなかった。家守という鎖から自由にしてくれた。そのことを感じられるだけで私は良かった。世界が変わった。そして、必ず彼女を一人にしないと固く決心した。彼女の傍で共に時を過ごし、彼女の心の支えになろうと思った。釜戸のひんやりとした感触がやけに気持ちよく感じられた。
それからの日々はとても速く感じられた。次の日とその次の日とが同時に訪れるかと思う程だった。私はなぜか、どの景色を見ても切ないものを感じてしまった。風の音も、川の流れも、何もかもが止まって見えた。ただ、時が過ぎていくのが速かった。
私は彼女と過ごす時が幸せだった。ただ、その幸せの中に何か冷たいものも感じられた。まるで白紙の上に滴る墨のように、それだけがひどくはっきりと感じられた。そして、彼女の方でも葛藤が行われているようだった。それは、生き物の本能のようなものだったのだろう。蝉が短い一生の中で、最後の最後まで鳴き続けるように、彼女は内に潜む病魔に侵されていくことを実感しながら、なおもそれに抗おうとしていたのだろう。
彼女は以前よりも私をただ見つめるようになった。いつもの笑みがふとした瞬間に消え、もの悲しい何かが瞳に宿り、月明かりに照らされ彼女がとても小さく見える度に私の心は締め付けられた。居ても立っても居られなくなり、彼女を見ることさえも苦しかった。彼女を苦しめ、悩ませ、悲しませるものが彼女自身だということを理解すればするほど、私の無念の思いは強くなった。昼間の家族には心の内を明かさず、無理に笑顔を作り、平常を装っている彼女を見ているのは他の物事を一切忘れさせるほど辛く、悲しいものだった。
今となっては家守という名前もただの無意味な飾りでしかなかった。家の守り神などと呼ばれ、崇められているが、実際私は友達の命一つすら救うことのできない、役立たずの神なのだ。所詮私には何かを守る力など無かったのだ。家守という名前に照らされていただけで、その光がなければ私は何者でもないのだ。そんな私に何ができよう。ああ、もしできるならば、この名前をかなぐり捨ててこの光で彼女を照らしたい。もしそれが叶うならば私は喜んで私を辞めよう。ただ、そう思う度に私は自分の自己中心的な考えを非難した。自分だけが苦しみから逃れようとしている疚しさを恥じた。しかし、その度に彼女は笑ってその全てを受け止めてくれた。私はその度に再度彼女に救われた。
ちょうど彼女の告白から二か月程たった頃のことだった。私はいつものように夜台所へ向かった。しかし、いつもなら彼女がいるはずの上がり端に彼女の姿は無かった。私は不自然に思いながらしばらく待っていた。しかし、時間が経つにつれて私は強烈な不安を感じ始めた。最も危惧していたことが起こったと思った。
私が茫然としている間に夜明けの日の光が台所を温め始めていた。気付けばあれから四刻程過ぎていた。私は慌てて棲み処に戻ると、そのまま何も考えられずに閉じこもっていた。
私は家の方でどたどたと慌ただしく廊下を走る音で意識を取り戻した。私はすぐさま音のする方を覗きに行った。不思議と躊躇はなかった。
私の悪い予感は的中した。
あまりに突然で衝撃的だったがために、私はその後のことを詳しく覚えていない。ただ、気が付くと私は台所にいた。
悲しさや、寂しさや、絶望といった言葉では到底表せ切れない、もっと深く、強く、重く、そして暗いものを抱えながら、今にも潰れそうになる体を懸命に起き上がらせていた。私は何も考えられなかった。いや、考えようとしなかった。もし、そうしようものならば、私の体と心は別々になって今も此処を彷徨っているだろう。
私はただ、彼女のことを想いながら彼女が寝ている部屋を見ていた。私は無意識のうちに彼女を自分の心の中に映し出していた。いつもならば彼女は私の大好きな笑顔で私を見てくれていた。しかし、今彼女は笑ってはいなかった。彼女は声も出せずに泣いていた。私はそんな彼女を見ていたが、何だか遠く、届かないもののように感じた。私は弱かった。ただ、いつもよりも数百倍時の流れが遅く感じた。そして、今よりも数千倍もの速さで時が、この悲しみが過ぎていくことを願った。時の流れすら激流のように重く、激しく私にぶつかり、彼女から遠ざけた。私は抗う力もなく、ただその流れに流されていった。しかし、そんな私を許さない私がぎりぎりの所で私を救った。時の激流から抜け出ると、もう朝だった。
あれから二日経った。この二日間、家の中はまるで戦場のように慌ただしかった。ようやく彼女の容体も落ち着き、家族も緊張の糸が緩んでいるらしかった。
私はこの二日間、自分がどこで何をしていたのかを全く覚えていない。それ程に私に心は窮地に立たされていた。ただ、彼女の無事を知ることだけが唯一の心の支えだった。
この二日間、夜のあの時間が無かったことで私は時間にぽっかりと穴が開いて、そこだけが何もないように感じられた。あの時間の大切さが身に染みて実感できた。そして、同時に自分のふがいなさを痛感した。支えられていたのは家ではなく、私だったのだ。私は自分が許せなかった。沸々と湧き上がる自分自身への怒りは行き場を失い、私の中で渦巻いていた。
時とは不思議なものである。私が何をどう考えて、何を思っていても時は流れる。しかし、時はそんな私を残してはいかない。それが私には時というものの優しさであり、辛辣なものに感じられた。
時の流れに乗せられて、夜のとばりが下りてきた。
私はいつものように台所にいた。この日も冬の夜の月が眩しいほどに私を一人台所に映し出していた。たった一つの影がやけに寂しく見えた。
襖の向こうでは彼女が寝ているらしかった。ただ、彼女の枕元に立っている明かりだけが襖を通して、ぼんやりと何かを含んだ光を発していた。私はその光を眺めながら、彼女のことを想っていた。すると、襖の向こうから彼女と祖母の会話が聞こえてきた。
「おばあちゃん、私厠に行きたいです。」
「はいはい、それじゃ一緒に行こうかい。」
「おばあちゃんったら、もうだいぶ良くなったし一人で行けます。」
「そうかい。じゃあ行っておいで、気をつけてな。」
「はい、すぐ戻ります。」
そう言って彼女は襖の方に歩いてきた。後ろから明かりがさして、彼女をとても大きく映し出した。私は自分の鼓動が速くなるのを感じた。
襖がすぅと開き、彼女が廊下へ出てきた。彼女は私を見ると、ゆっくりと手招きをした。私は少し躊躇したが、その場を後にして彼女の後についていった。
彼女は厠の前にある縁側に腰を下ろした。私も彼女の隣に行った。美しい夜だった。冬の肌寒い風が心地よく肌を撫でた。空気も澄み、月がくっきりと見えた。私たちは月の光に照らされながら、しばらく黙っていた。やがて彼女が沈黙を破るように口を開いた。
「きれいな夜ですね。こうしてお話しするのも二日ぶりでしょうか。大変長くしゃべっていないように感じますね。あなたに話しておかなければならないことがあります。」
そう言って私の方を振り向いた彼女の顔は病み上がりでただでさえ白く見えるのに、月の光に照らされて一層冷たく見えた。
「私、お医者様のつてで高原のサナトリウムに行くことになりました。ですから、もうこうしてお話しすることもしばらくはできません。しばらく戻れないかもしれませんが、きっと病気をすっかり直して、必ず此処へ帰ってきます。」
そう言った彼女の目には涙が浮かんでいた。私には彼女の心の中が痛いほど分かった。私も同じ気持ちであった。零れるはずのない涙を必死にこらえていた。互いに涙は流さなかった。彼女は笑った。私の心をいつ何時も支え、許し、励ましてくれたあの笑顔を向けながら、彼女は最後の言葉を言った。
「けれど私は少しも寂しくありません。こうして話し、笑い合える友達が、あなたががいてくれるだけで私は大丈夫です。あなたがいてくれたおかげで私は、少なくとも生きようと思うことができたんですよ。」
私は胸の奥底から込み上げてくるものをこらえることができずに顔を逸らした。全てを叫びたかった。私はずっと嫌だった、家守という自分が。ただ崇められ、本当の自分に目を背けてきた自分が。崇拝されるということが辛かった。ただ、誰かに必要とされたかった。愛してもらいたかった。それだけが私の夢だった。私は家守などではなかった。孤独な、一人ぼっちの生き物だった。そして、孤独から抜け出ようとする願いの結晶そのものだった。それを彼女が変えてくれた。夢が叶った。その向こうにあるものがいかに辛くても、素晴らしくても、その全てを私は受け止められる。そう思った。
彼女はしばらく私を見つめ、立ち上がった。そしてもと来た廊下を足早に戻っていった。
私の心は晴れ渡っていた。私は彼女が帰ってくる場所を作り、守ろうと思った。彼女が何処に帰ればいいか見失わないように、彼女が帰ってくるいつの日かまで私は此処で待ち続けよう。そう固く誓った。
数日後、彼女と彼女の母親は高原のサナトリウムへとこの地を後にした。私は彼女達が旅立っていった後の砂埃の舞う道をいつまでも眺めていた。初雪が幕を下ろすようにしとしとと降っていた。
さて、私の話はここまでだ。なに、それからどうなったかって。彼女は今も帰ってきていない。ただ、私は二十年程たった今も彼女が帰ってくると信じている。ちょうど、あの梅の木のあたりからひょっこりとな。今ではもうこのあたりの生き物達を私がまとめるようになった。時が過ぎていくのは本当に速い。思えば、あの日誓ったことが私の命を長くさせているのかもしれない。死んではならないということだろう。今も鮮明に思い出せる。彼女の笑顔も、声も、全てをな。私はただ、彼女が家守としての私にくれた最後の役目を全うしているだけだよ。
さあ、ここまでにしよう。もう日が暮れてしまうぞ。冬の日暮れは本当に早い。じきに此処も寒くなるぞ。
さて、私がこの話をすることはもう無いだろう。何時しか彼女を待つのも私一人になってしまった。彼女の帰りを待つ間に、私はこんなにも年老いてしまった。きっと彼女が見たら笑うだろう。私の大好きなあの笑顔で。
ああ、私は待つ。私は待つ。今日も明日もこれからも、ずっと変わらず君の帰りを此処で待つ。