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はちみつクッキー

 

 結局野営する事が決まり、夜が来る前に草原地帯で休む事になった。


「まずはメシの用意だな」


 そう呟くと、アランが「僕は戦力になれないからテントでも張っておくよ」と言った。

 申し出はありがたいが、俺が石小屋を作るぞと断った。

 とりあえず石で長椅子と長机を出してそこで皆んなを休ませる。アスカルは相変わらず仕事をしているが、御者のオッサンは疲れた様子だししっかり休んでもらいたい。彼も今夜は宿に泊まるつもりだったろうに、大変だな。

 ポーチから保冷庫を出し、そこから材料を取り出していく。


「ししょう何作るのー?」

「今日はラザニアだ。ミーシャにはホワイトソースを作って貰おうかな。そうだ、マナは魔法の応用だ」


 俺は氷のコップを作り、そこにトマトを入れて左手で蓋をした。

 その左手からいくつもの小さな風刃を放って、コップの中で踊らせる。

 暫くすると、トマトがミキサーにかけられたようにピューレ状になった。


「出来るな?」


 そう問いかけると、マナは元気よく頷いた。


「凄いね、リュートにとったら魔道具の殆どは不要なんだろうね」


 やっぱり本来は魔道具を使ってこういう作業を行うんだな。確かに俺の魔法はとても便利だ。正直言うと魔法を戦いに使うよりも、こうやって日常生活に使う方が好きだ。


「それにしてもそろそろ本気で邪魔な氷だな……あ、そういえばレイラこの前炎の鞭みたいな魔法使ってただろ? あれってどうやるんだ? 炎って実体が無いものなのに」


 右手の氷を見てたらあの日の戦いを思い出した。


「貴方には無理よ」


 返ってきたのはぶっきらぼうで否定的な言葉だった。


「おいおい、なんて事言うんだ」

「だって貴方、相手を拘束したい場合はどうするの?」

「え? そりゃあ土か氷の魔法で……」

「だから無理なのよ。私は炎以外の手段がないから魔法の性質が変化したの。固有魔法ってそういうものでしょ」

「え? 固有魔法って変化するのか?」


 初めて聞いた情報に戸惑うと、レイラは呆れたように笑っていた。


「まぁ変化っていうのは語弊があるかもしれないけど……成長っていうのかしら。或いは熟練度による技の派生……言葉で説明するのは難しいけれど、貴方のその右手の氷も、固有魔法の変化に貢献するのかもね」


 なんだ、そういう事だったのか。

 俺の固有魔法は四属性魔法ではないし、危機感知でもない。それらの魔法は、俺の本当の固有魔法であるマギアテイカーによって得たものだ。

 それは魔法を受け継ぐものと言われているが、本質は魔法を奪うもの。

 そして奪う為には魂が必要と考えていたけど、もしかしたら殺す必要はないのかもしれない。

 シフティはこの氷を使いこなす力は俺の中に備わっていると言った。それがこの固有魔法の事だとすれば、やり方を変える必要がある。


 初めて意識して使おうとする本当の固有魔法。

 心臓の音が聞こえてきそうなくらい大きくなり、全身の魔力が右手に集まっていく。

 右手を拘束する異物を喰らうイメージで力を流し込む。

 身体が熱い。

 目の前がチカチカしてくる。

 頭が痛い。

 ズキズキ痛む脳内に、知らない情報が流れ込んでくる。

 解読は不能。

 でも、直感で魔力の動かし方を理解した。

 右手の異物を消滅させる方法を。

 この魔法を奪う方法を。



「――――っ! 出来た!」


 久しぶりに見た右手の素肌。

 握ったり開いたりしてみると、ちゃんと動く。

 シフティの氷魔法の使い方はなんとなくわかる。

 再び氷を出してみると、先ほどとほとんど変わらない強度の解けない氷が出来上がった。

 力はちゃんと得られた。使いこなせてる。


「り、リュート! 鼻血が……」


「へ?」


 アランに指摘されて鼻を拭うと、拭った右手がベットリ赤く染まった。


「自傷つき魔法って、これは気軽に使えない魔法だな……ともかく、ありがとうレイラ。お前の助言のおかげだ」


 氷を克服した俺を見てあんぐりと口を開けてたレイラに礼を言うと、「別に……」と納得いかなそうに目を逸らされた。


 それにしても……これってもしかして、レイラにもう一度炎の鞭を使って貰えばそれも奪う事ができるんじゃないか?

 流石にミーシャの謎の固有魔法は無理な気がするけど、既に有している炎系の魔法なら奪えるかもしれない。


 ――いや待て。


 何を気軽に『奪える』なんて考えているんだ俺は。

 レイラは自分が使える魔法で出来ることを増やす為に、努力して技術を身に着けて行ったんだ。

 それを簡単に奪うなんて、強さを求めて研鑽を積む人々を冒涜する行為に他ならない。


「ししょうー。コップを石にしちゃダメ?」


 自省中に声を掛けられて振り向くと、マナが手にした氷のコップはヒビだらけになっていた。


「――えっ? あ、あぁ……うん、ダメだな。石のコップで失敗したら料理に石の破片が混じっちゃうだろ? コップが割れてしまうなら、風魔法の威力を弱めるんだ。トマトを切るのに力なんて要らないって事はわかるだろ? 弱い風刃を、大量に放つ事を意識してみるんだ」


「わかった!」


 早速挑戦したマナは見事に成功させた。アランと御者のオッサンがニコニコしながら拍手している。あのオッサンは感じの良い人だ。

 俺も両手が使えるようになった為テキパキ料理を進めていった。野菜を切り、ミートソースを作り、魔法で石皿を作ってそこにミートソース、ホワイトソース、チーズと茹でたラザーニャを重ね合わせる。このラザーニャは薄く伸ばしたパスタ生地らしいが、日本のスーパーではあまり見かけない。妹に「ラザニアが食べたい」と言われて困ったあの日が懐かしいな。あの時は確か輸入食品を取り扱ってる高級スーパーまで遠出したんだっけ。あいつ、今頃ワガママ言って母さんを困らせてないといいけど。


「これで完成?」


 手伝ってくれたマナとミーシャが目を輝かせている。


「いや、最後に焼き上げて完成だ」


 予熱しておいたオーブンの魔道具に作ったものを入れる。このオーブン、かなり詳細な温度設定が出来る上に、見た目以上に物が入る。やはり高性能な物で間違いない。フィオナに会うのが恐ろしい反面、楽しみにも思えてきた。


「ミーシャ、この時計で二十分経ったら教えてくれ」


 懐中時計を渡して少し離れる。

 今のうちに寝る場所を作っておこう。

 隣り合わせに二つの石小屋を作った。床も壁も石で出来た無骨な小屋だが、天井は解けない氷にして、綺麗な夜空を眺められるようにした。新鮮な空気が入って来るように窓や扉の部分は開け放たれている。寝る時は布でも被せるか。これで男部屋と女部屋の完成だ。

 寝る場所だけじゃ足りないな。

 更に小屋の近くに石風呂を二つ作り、それぞれを高い壁で囲ったら男湯と女湯になる。床は水捌けの為に斜めにし、一番低い所に穴を空けて水が地面に流れるようにした。隅っこの方には衝立と棚を用意して簡易脱衣所も忘れない。おっと、手桶も用意しないとな。御者のオッサンとアスカルは力が無さそうだから、薄い石で軽くて持ちやすい桶を作る。同じように銭湯によくある形の椅子も作った。中々魔力操作が上手くなってきたぜ。

 作り始めると夢中になってしまい、暫く仲間達を放置してしまった。

 振り返ると、皆揃ってポカンと口を開けていた。


「これで簡易キャンプ場の完成だ」


「どこが簡易なのよ!」


 レイラのツッコミにアランも同調した。


「これに慣れたら普通の野営では物足りなくなってしまうね……」


 こういうの、ラノベでよくある「俺なにかやっちゃいました?」みたいな展開っぽいよな。

 でもこれくらいならマナも頑張れば出来ると思う。それにシフティだったら氷の城くらい作りそうだし、フィオナなんかもっと凄い何かをやってのけそうだ。

 それを考えると俺の石小屋は少し見窄らしいか……?

 次はもっと豪華なのをつくろう。


 二十分経ったとミーシャに教えられて、出来上がったラザニアを取り出す。

 オーブンの調子は完璧だ。

 出来たてだと皿に触れないくらい熱いので、少し冷ましてから夕食にしよう。

 人数分作ったからと、御者のオッサンに渡すと涙を流して喜んでいたが、アスカルに渡したら戸惑っていた。


「その、私はパンが残ってますし、お気遣いなく……」

「もう作ってしまったんだから貰ってくれ。アンタだけ仲間外れにしてるみたいで気が引けるんだ。それとも嫌いな物でも入っていたか?」

「いえ、そんな事は……でしたら、ありがたくいただきます。その、こんなに素晴らしい料理に宿までご用意していただいて、私は後どれくらい支払えばよろしいのでしょうか」

「金貨二枚も追加で貰えるんだ、それで十分。そもそも、俺たちが使うついでみたいなもんだしな」

「で、でしたらこれを受け取って下さい。私が提携している養蜂場の蜂蜜です。料理が得意な貴方でしたら使い道があるかと」


 どうも馬車でのやり取り以降気が小さくなったというか、気が使えるようになったというか。

 瓶いっぱいに入った蜂蜜を受け取り、礼を言ってから席に着く。

 みんなで食事を開始すると、あちこちで感嘆の声が聞こえて来た。


「まさか噂の特級冒険者様がお強いだけでなく、料理の腕もこれほどとは……私感激です」


 そう言ったのは御者のオッサンだった。どうやら彼は元々俺たちを知っていたらしい。


「噂って……アンタ冒険者じゃないだろ? ギルド以外でも特級冒険者の噂が流れているのか?」

「えぇ、馬車に乗って街の外に出る冒険者は多いですからね、ここ数日は毎日のように皆さんの噂話を聞いてますよ!」

「冒険者ってホント噂好きだな……JKかよ」

「貴方って偶に全く意味のわからない事を言うわよね。戯言と思って聞き流そうとも思うんだけど、どうにもちゃんと意味がある様に思えるのよね……」

「俺以外には伝わらない言葉。その意味を理解しようとする行為は賢者の戯れか愚者の足掻きか――」

「やっぱり戯言ね」


 雑談を交えながら食事を終える。アスカルは痩せているから食が細いのかと思ったが、綺麗に完食してくれた。満足してくれた様子でよかった。


 食事の後は風呂だ。マナに手伝ってもらって温水を大量に作り、風呂に流し込む。


「あっちぃ! マナ、これじゃあ茹で上がっちゃうぞ。特にミーシャは熱いお湯が苦手なんだから少し冷まそうな」

「わかった!」

「ちょ、待ちなさいよ! なんで貴方がそんな事知ってるの!? まさか一緒に――」


 想像力豊かな思春期少女を無視してお風呂を作り上げる。

 因みにミーシャが熱いお湯を嫌うというのは、ホテルのスタッフから聞いた話だ。初日、俺が気を失ってる時にシャワーを浴びさせられたミーシャが熱いお湯を嫌がったそうで。そのせいで俺たちが泊まった部屋のシャワーは他の部屋よりも温度が少し下げられているという話を聞いたのだ。

 まあその話をしてもしょうがないので、「さっさと風呂入れ」と皆んなに先に入るよう促す。


「いいのかい? 苦労した君が一番最初にリラックスするべきだと思うんだけど……」

「俺はまだやる事があるし、一人は周囲の警戒をするべきだろう。幸い近くに気配は無いからゆっくり休んで来てくれ。あ、そうだ、このシャンプーと石鹸を使ってくれ」


 アニスからもらった物をレイラとアランにそれぞれ渡す。

 アスカルと御者のオッサンにも風呂を勧めると、ペコペコしながら男湯に入って行った。


 俺は早速さっき貰ったはちみつを使ってクッキーを作る。

 何度か妹に作らされているからレシピは覚えてる。確か食感を良くするためにアーモンドパウダーを入れるんだっけ。買っておいてよかった。

 作った生地を魔法で冷やしてから丸くくり抜いてオーブンに入れる。

 この世界の魔法を使った生活にも慣れて来たぞ。地球より便利な面も多くて楽しいな。


 作業を終えて休んでいると、風呂場から「マナ、泳がないで!」なんて声が聞こえて来る。子供が温泉で泳ぐのは恒例行事だな。

 男湯の方からも談笑の声が聞こえる。御者のオッサンとアランが話してるようだ。誰とでも仲良くなれるアランだけど、アスカルの声は聞こえてこない。難しいおっさんだな。


 クッキーが焼き上がり、魔法で冷風を送って冷ましていると、一番最初にアスカルが出て来た。


「ちゃんと寛げたか?」


 何気なく質問したが、返事がない。

 振り返ると、アスカルは焼き上がったはちみつクッキーを凝視していた。


「アンタがくれたハチミツでクッキーを焼いたんだ。食べるか?」


 一枚差し出すと、アスカルは恐る恐る受け取ってから口に運んだ。

 目を閉じて咀嚼する様子は、まるで何かに思いを馳せる様で。

 なんて考えていたら、彼の瞳から大粒の涙が流れる。

 あまりに突然の事に思わずギョッとした。


「お、おいなんだよ。そんなに不味かったのか?」


 アスカルは「すみません」と言ってから涙を拭った。


「いえ、あまりにも美味しくて。娘が作ってくれたはちみつクッキーを、思い出してしまったんです」


「へぇ、娘がいるのか。そうか、だから早く帰りたくて急がせたんだな」


 俺が勝手に納得してると、アスカルは首を振った。


「娘は死にましたよ。三年前に。たった八歳にして、その生を終わらせてしまいました」


「……辛い事を聞いてすまない」


「いえ、むしろ話させて下さい。これは私の懺悔です」


 そう言ってアスカルは話し始めた。


 アスカルの妻は体が弱く、一人娘を産んですぐに亡くなった。

 彼は悲しみに暮れたが、残された子供を幸せにするために立ち直る。とは言え商会の仕事もあるし、男一人では出来ないことも多い。乳母を雇い、子育てについて学びながら仕事に明け暮れた。

 そんなアスカルの努力が良い方向に働いたのか、娘は元気に育った。五歳になった頃には仕事が忙しい父の為に家事を手伝おうとしてくれるような、優しい子に成長したのだ。

 アスカルは幸せだった。

 どんなに仕事で疲れても、家に戻れば娘が笑顔で迎えてくれる。料理が好きな娘は、アスカルが望むものをなんでも作ってくれた。中でも、仕事中につまめるはちみつクッキーは常に持ち歩くほど気に入っていた。

 満たされた生活だった。

 だが、それは永遠には続かなかった。

 仕事の都合で、多くはないが偶に街の外に出るアスカルは、一緒に行きたがる娘を連れて街を出る事が増えていた。

 事故が起きたのは娘が八歳になって間もなくの事だった。

 養蜂場から帰る途中の馬車の中で、娘は「このハチミツでまたクッキーを焼いてあげるね」と笑っていた。

 しかしその笑顔が突然揺れた。

 馬車に何かが激突したのだ。

 続いて聞こえたのが護衛をしていた冒険者達の悲鳴と怒声。


「馬はもうダメだ! 走って逃げるぞ!」


 娘の手を握ってアスカルは外に出た。

 細い山道。視界の悪い茂みの先から魔物に襲われたのだと理解した。

 娘の小さい手を引いて馬車から降ろそうとした時だった。

「危ない」という声と共にアスカルの襟首が引っ張られ、後ろに転ぶ。そのせいで握っていた娘の手を離してしまう。

 直後、巨大な大蛇の尻尾が鞭を振るうように馬車に叩きつけられた。

 容易く砕ける木材、押し出される積荷、そして、崖の下に落ちて行く娘。

 喉が潰れんばかりの声で娘の名を呼ぶが、アスカルは冒険者に担がれて強制的にその場を後にさせられた。

「娘がまだ残されている」と抗議しても、返ってきたのは「依頼主が死んだら誰に報酬を貰うんだ」という酷く冷たい言葉。


 結局娘は帰って来ず、アスカルだけが生き残ってしまった。

 護衛を頼んでいた冒険者達は「運が悪かったな」と、慰めかどうかも怪しい雑な言葉を掛けてきた。




「彼らはきっちり報酬を受け取って行きましたよ。娘の護衛には失敗しましたが、私が生き残ったから依頼はそれで達成なのです。おまけに、予期せぬ襲撃への対応という事で、追加報酬も迫られました。因みに、娘を護れなかった事による報酬の減額は金貨一枚。ですがそれを差し引いても最終的に私が彼らに支払ったのは金貨三枚。私は最も護りたいモノを失ったにも関わらず、彼等は貰える物を貰って満足げな表情でした。未だに彼等の言葉が蘇ります。運が悪かった。果たして誰の、何の運が悪かったのでしょうか? 強敵に出会ってしまった冒険者の運? 逃げ遅れた娘の運? それとも、B級というランクを信用して碌でもない冒険者と契約してしまった私の運? あの日から、私は冒険者という人間を忌み嫌っていました。護衛対象をただの荷物か何かと勘違いしている人間に命を任せるなんて馬鹿らしい。彼らがその気なら、私も冒険者を見下して扱おうと思いました」



「…………」


 何も言えなかった。

 その冒険者達を酷い奴らだと思ったが、彼らの行動が間違っているわけじゃない。

 発言にこそ問題はあったが、敵わない強敵を前にして助けられる命を優先して助けたのは事実。

 護るべき者が複数いる場合、命の取捨選択を行わなければいけない場合がある。判断が遅れれば誰も助からない可能性だってあった。しかしその冒険者達は即座に判断を行い、被害を最小限に抑えたのだ。

 しかしアスカルにとってそんな事は評価すべき点じゃない。

 彼らが娘の命を軽視したのもまた、事実なのだから。


「あの日から三年。私はずっとこのような捻くれた考えで冒険者達と接してきました。彼らには礼節も気遣いも不要だと思い、ただ仕事を頼むだけの関係として」


 ガイストが今回の仕事をそれ程重要ではないと言った事を思い出した。彼がそんな事を言うなんて意外だと思っていたが、あれはアスカルに対する信用が地の底まで落ちているからこその発言だったのか。

 きっとアスカルの依頼を受けた冒険者達はぞんざいに扱われた事に対する不満でも言いふらしたのだろう。それが積み重なって彼の依頼の重要性は下がっていったのだ。悲しいくらい負の連鎖が続いている。


「ですが、先ほど馬車の中で……貴方のその黒く澄んだ瞳を見て、私は自分の姿を省みました。貴方の瞳に反射した私の姿は、意地の悪そうな目つきで周囲のもの全てを見下すような、酷く穢らわしい人間に見えたのです。それと同時に思い出しました。私が疲れた表情をする度に、はちみつクッキーを焼いてくれた娘の姿を。きっとあの子は、私に笑っていて欲しかったのでしょうね……。今の私をあの子が見たら、どんなに悲しむか……」


 頭を抱えるアスカルの後ろから、風呂から出てきたアラン達やレイラ達が歩いて来た。

 アスカルはそれに気付いて振り返ると、深く頭を下げた。

 皆一様にギョッとしている。


「皆様、本日の非礼を心よりお詫び申し上げます。皆様を不快にさせる態度をとっていたのは私の弱さ故です。許しは請いません。ですが心を入れ替え生きる事を誓います」


 きっとこの誓いは今はいない娘の為に宣言しているんだ。

 娘を心配させないように、恥ずかしい生き様を晒さないように。

 彼が今日自分の過ちに気付けたのは、娘が遺してくれた沢山の幸福な思い出があったからだ。

 このはちみつクッキーは思い出を蘇らせるきっかけになったに過ぎない。

 道を踏み外したままで終わらなかったのは、間違いなく娘の優しさのお陰で。

 それを思い出せた彼はきっともう大丈夫だ。娘もそう思って安心している事だろう。




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