2 サラ、未来の夫を勘違い【挿絵あり】
あとがきに挿絵があります。ぜひご覧ください。
次の日の正午過ぎ、嫁ぎ先の公爵家からの馬車が迎えに来ると、舗装されている王都の通りを抜け、緑溢れる辺境の地へと到着した。
家族は誰一人見送りに来なかったけれど、メイドのカツィルが見送りに来てくれたので、知らない土地に妹の代わりに嫁ぐことになったサラの心は晴れやかだった。
「精一杯頑張りましょう……! うん、きっとやれることはあるはず」
昨日の今日であることと、屋根裏部屋には生活をするための必要最低限のものしかなかったことから、サラは信じられないほど身軽だった。
着ているドレスは、昨日初めて袖を通したものと同じものだ。
薄ピンクの生地に、袖に少しだけフリルがあしらわれている簡素なドレス。どう考えても輿入れ時に着用するようなものではなかったが、サラにはこれしか無かった。
しかも2日続けて同じドレスなんて控えめに言ってあり得ない、のだが背に腹は代えられない。
「後5分もせずに屋敷に到着します。揺れるのでご注意ください」
「ええ、ありがとう」
馭者と軽く会話を交わすと、サラは舌を噛みたくないので口を閉じることにした。
することがないので、夫となるカリクスについてサラは思いを馳せる。
まず到着したら挨拶をする。そしてミナリーではないことの謝罪が必須だ。
(本当に申し訳ないわ……サラだということは早馬で連絡したらしいけど、それにしたって……あちらはミナリーとだから政略結婚を持ち掛けたのだろうし。……私が現れたらこの話は無かったことに……? あり得るわね……)
それならもう謝り倒すしかない。今更ファンデッド家に居場所がないことをサラは感覚的に理解していた。
「お待ちしておりました」
約3時間馬車に揺られ目的地に着くやいなや、穏やかな男性の声が聞こえてサラはすかさず背筋を正す。
それからサラは数年ぶりのカーテシーを行うと、自分自身の緊張を解くために頬を緩めた。
「はじめまして。サラ・ファンデッドと申します。この度は迎えの手配をしていただきありがとうございます」
「いえいえ、当然のことでございますので」
「本当に助かりました。アーデナー公爵閣下」
「はい?」
「──え?」
しばしの沈黙。サラはこの凍りついたような空気を良く知っていた。過去に何度も人を間違えたことがあるサラは、この状況を理解するのは容易かった。
(まっ、間違えたのね……!!)
サラは「冗談ですわ」とサラリと告げて、慌てて口元を隠す。言ってしまった言葉は無かったことにはならないが、咄嗟の行動だった。
多少おかしい、と、思ったものの主人からは丁重にもてなすようにと指示を受けている執事のヴァッシュは、追求はせず自己紹介だけしておくのだった。
馬車から積荷を下ろしてくれた執事のヴァッシュ。丁寧な口調、こちらに合わせた歩調、緊張をほぐすための雑談に、サラはただただ感銘をうける。
(こんなに、立派な執事──ヴァッシュさんが仕えるのだから、公爵閣下も素晴らしいお方なのかも。お母様たちから聞いた噂は一旦忘れましょう)
百聞は一見にしかず。まずは本人と話してみないことには分からないし、何より花嫁変更という非礼を行ったのはファンデッド家だ。
サラは胸に手をやって深呼吸をしてから、ヴァッシュの後に続いてカリクスがいるという執務室に足を踏み入れた。
「失礼致します旦那様。サラ・ファンデッド伯爵令嬢をお連れいたしました」
「ああ。ではこちらに」
右側のテーブルで執務に励んでいたカリクスはサラが来たことにより手を止め、左側にあるソファへと足を進めた。
言われた通りサラもソファの前に立つと、緊張しながらもスカートに手をやり淑女の挨拶を行う。
「はじめまして。サラ・ファンデッドと申します。公爵閣下におかれましては」
「前置きは良い。疲れただろうから座って話そう」
「……は、い」
向かい合うようにしてソファに腰を下ろし、サラは俯く。
身体の配慮をしてもらうことが、より花嫁を変更をした罪悪感を膨張させた。
──ガバリ。
サラは勢いよく頭を下げる。額がテーブルにスレスレだった。
「この度は花嫁を変更するなどという非礼、本当に申し訳ありません……!」
「頭を上げてくれ。気にしていないから」
「そんなわけありません……! どこの世界に適当に妻を娶る人間がいましょうか」
「ここにいる。君の目の前に」
「えっ」
パチクリと、サラの瞳が大きく開かれる。
てっきり、ミナリーを妻にしたくて縁談の話が来たと思っていた。だからこそ金銭を融通する話も上手く進んだのだと。──けれど実際はどうやら違うらしい。
サラは、それならばこの婚姻を白紙に、とはならない可能性が高いことに安堵し、再びカリクスの言葉に耳を傾けた。
「3年前父が亡くなって私が後を継いだんだが、そろそろ妻を娶れと周りが煩くてな」
「なっ、なるほど……」
「それでそれなりの爵位で適齢期な女性を探していたわけだ。別にミナリー嬢がどうこうというのは一切無いよ。ただの偶然。だから君は気にしないでくれ」
「分かりました。話してくださってありがとうございます」
サラにとっては好都合なことだったので、肩からフッと力が抜けた。
膝辺りに置いていた拳も解かれる。
「あの、公爵閣下、私からも伝えなければいけないことが」
「ああ。何でも言ってくれ。我が家に嫁ぐ以上不自由をさせるつもりはないから」
カリクスは優しく微笑む。
声色から微笑んでいるのだろうと想像して、サラの表情には影が落とされた。
伝えれば婚姻が白紙になる可能性があることをわざわざ云いたくはない。──けれど、カリクスの包み隠さない言葉に、サラは伝えておかなければいけないと思ったのだった。
「実は……昔から人の顔を見分けることが出来ないのです」
「……? もう少し詳しく話してくれ。済まないが理解できなかった」
「はい。勿論です。──信じて頂けないかもしれませんが」
そうしてサラは自身の症状について事細かく説明した。
5歳の頃、妹と遊んでいる拍子に頭を打って気絶し、目が覚めたら人の顔が見分けられなくなっていたこと。
見分けられないのは人の顔や表情だけで、食べ物、衣服、建物などは普通に見分けが付くこと。
初めは眉間にシワを寄せていたカリクスだったが、サラが説明を続けると、その表情は少しずつ変わっていった。
「この症状のせいで、私は昔から社交界では役に立ちません。人の顔を見分けられず、表情も読めません。貴族社会において絶望的です。声や仕草で多少見分けることは出来ますが、時間がかかりますし間違うことも多いです。──幼少期は、母でさえ間違えたことも有りました」
「…………そうか」
「お医者様はこんな病気をご存知ないようでした。家族にも信じてもらえませんでしたが…………本当に、本当なんです。嘘では、ないんです」
ザザザ、と開いた窓から風が入ってくる。
サラは乱れた前髪をそのままに、カリクスを見た。
漆黒の黒い髪に、アッシュグレーの瞳、唇は少し薄い。
パーツパーツでは捉えられるのに、顔として、表情としては捉えることができない。
遣る瀬無さで再び俯くと、カリクスがずいっと顔を近づけた。
サラは何事かと肩をビクつかせる。
「それならこの顔にある火傷痕も分からないのか?」
「何となく見えますが……だからどうとか無いといいますか……ただそこにぼんやりとあるだけで」
「……気味悪くはないんだな?」
「はい。それは全く。……失礼かもしれませんが、むしろ私からしたら見分けるのに有り難いのです。……こう、ぼんやりと温かくて赤い……何だか優しいオーラのように見えるというか……」
きっと信じてはもらえない。サラはそう思いながらも自分が見える景色を一生懸命に伝えた。
するとサラの膝の上においた手が、カリクスのゴツゴツとした大きな手に掴まれる。
そのまま彼の顔へと誘われ、指先が頬の辺りに触れる。
「触れば分かるか? 私は今笑っている」
「はっ、はい」
「ありがとう……この火傷痕を気味悪がらないどころか褒めてくれて。この火傷痕は、私にとっては大切なものなんだ」
「そう……なのですね」
「サラ、君の言葉を信じるよ。だから大丈夫だ」
火傷痕の理由は聞かなかった。
きっとまだその時ではないと思ったのと、サラ自身も伝えたいことで胸がいっぱいだったから。
「カリクス様、と呼んでも?」
「もちろん」
「……カリクス様、信じてくださったのは貴方が初めてです。ありがとうございます、信じられないくらい、嬉しい、です……っ」
「当たり前だろう。どこの世界に妻になる人の言葉を信じない人間がいる?」
「ふふっ……それは、中々多いと思いますよ?」
──そうかな。──そうですよ。
カリクスの頬に指が触れたまま、サラはつられたように頬を緩ませた。