地獄
地獄の、その風景。
彼女は仰向けになり新聞で顔を覆い眠っていた。
風が吹き込んだ。
彼女の顔を隠す新聞がはためき、白い首元と顎がちらりと露わになって、また隠れた。首元にはうっすらと痣があった。新聞を揺らした風はやがて勢いを失って陽光に溶け込んでいき、ついに彼女の顔を暴くことは無かった。黒く重い文字の大軍はまた、彼女の顔の上でひたりと動かなくなった。
ちゅんちゅんちゅん、と鳥の声がする。のどかな昼下がりの日差しが、黒く太いインクで書かれた新聞の見出しを際立たせた。
「自殺して正解だった」74% 安楽死は92%
先月行われた冥福新聞社の世論調査によると、自殺者のなかで「自殺して正解だった」と答えた人は64・3%で、「しないほうがよかった」の14・3%を大きく上回った。しかし「正解だった」と答えた人は前年度より0・2ポイント減少したのに対し、「しないほうがよかった」と答えた人は1・5ポイント増加しており、4年連続の――――――――
むくり、と持ち上がった。
彼女が上体を起こし、新聞が顔の上からずり落ちた。
整った女性の顔が、伏せがちな目の眠たげな表情で現れた。
彼女は大きく口を開け、唇が波打つほどの大きなあくびをした。
緩慢な間がしばし空いた。
頭の中には昼寝の心地よいけだるさがわだかまっていた。
彼女は強く目を瞑り、手のひらの底を眼窩に押し当て目を擦った。
瞼が開かれると、どこともつかないところを見つめていたおぼろげな瞳が徐々に生気を帯びはじめ、光の輪郭が現れた。
彼女は両の手のひらを天高くつき上げうい~っと伸びをした。各所の関節の隙間から滲みだしたにわにわとしたかゆみが脱力した体全体にいきわたる。息を大きく吐いて、彼女は外を見渡した。
突然、瞳が大きく見開かれた。まつ毛が跳ね上がり、光の粒がはじけ散った。
早急の用事が彼女をまどろみから引き揚げた。彼女は急いで腕時計の時刻を確認した。
短い針は3、長い針は6と7の間で止まり、秒針は刻々と動き続けていた。
彼女はすぐに立ち上がり、縁側を飛び出して庭のつっかけの上に着地した。さっさと履いて駆け出し、家屋の角を曲がって玄関を出て、家の隣に泊めてあるレトロな赤い車に乗り込んだ。ばたん!と扉を閉め、ささったままの鍵をひねった。
ギュイーーーンとメーターの針が跳ね上がる。ブロロロロとエンジンがかかり、ガスがぶはっと吐き出され、車体が小刻みに揺れ始める。彼女は手首にまいたヘアゴムを剥ぎ取って、はむっと唇でくわえ、髪を束ね、ポニーテールを作った。
彼女のサンダルはアクセルを踏んだ。
木の葉がざわめいた。車はもう通り過ぎている。木々の間にできた砂利の道を、ぼこぼこっと車体を跳ねさせながら進んでいく。
数十メートル走って、やがて綺麗に舗装された道路の前まで抜けて、彼女は左右を確認してから、ハンドルを切って車体を道路の上に乗せた。
二つの山に挟まれた晴天を突き破る一本の道路をレトロな赤い車がすーっと走ってゆく。
開け放った窓から強く風が吹き込み、髪が激しく揺れる。彼女はにししと笑う。
ミーンミーン、とセミの声がする。
彼女はアクセルと強く踏んだ。グーン、と力強く進んでいった。
彼女が本屋に入ると、むわっと本の香りがした。
ぎっしりと本が詰まった本棚と本棚の狭い隙間を通って、彼女は奥にあるカウンターに抜けた。そこには誰もいなかった。
ベルを鳴らすと返事が聞こえて、まもなく一人のおじいさんが奥から現れた。白い髭を生やし、眼鏡をかけ、作業用エプロンを着た、恰幅のいい老人で、本屋の主人だ。
「はいよ、久しぶり。漫画の受け取りだね」
「はい、ぎりぎりになってすみません」
彼女が申し訳なさそうな顔でぺこりと頭を下げてそう言うと、本屋の主人はひらひらと手を振って、受付の後ろにある棚から一冊の漫画を取り出し、彼女の前に置いた。
「これでよかったかな」「ありがとうございます」
彼女がその漫画を手に取ると、
「次巻の取り寄せ予約も今していく?」と本屋の主人は言った。
「あ」彼女は眉毛をぴくんと跳ね上げ、
「お願いします」と答えた。
すると、主人は受付の引き出しの中から一枚の用紙を取り出し、ボールペンを添えて彼女の前に置いた。いくつかの枠が与えられた用紙だ。
【現世書籍取寄せ専用受付用紙】
お名前「 」
TEL「 ― ― 」
没年月日「 年 月 日」
郵便番号「 ― 」
住所「 」
予約書籍名「 」
彼女はペンを手に取り、俯いてさらさらと書き終わって、ボールペンのペン先をしまった。
「すみません、これでお願いします」
「はいよ」店の主人は用紙を受け取って、眼鏡をずらして見始めた。
「ちょっと新刊を見て回ってもいいですか」と彼女は言った。
「ああもちろん」その答えを受けて、彼女は受付の前を離れて、新刊、と書かれた本棚を見る。表紙が正面を向く形で様々な本が立てかけられている。
『私が死ぬまでにしたかった100のこと』
『ずっとあなたを探しています』
『地獄で今日も花が咲く』
など、エッセイから小説まで他にも色々と並んでいた。
一つずつ手に取って、裏返して、裏表紙に書かれたあらすじを吟味していく。
すると狭い店内、受付の方から本屋の主人の声が飛んできた。
「お嬢ちゃん的にはどうなの、最近の、自殺者に配慮」
彼女は本を選びながら、んー、とうなって、答えた。
「どうとか以前に、マイノリティの意見者は気が大きいので困ります。民主主義で選ばれたわけでもないくせに、すぐに代弁者面するところが好きじゃないです」
にやりとしながら彼女はそう言い切った。毒をユーモラスに中和するような笑みだった。
がっはっは、と受付の方から笑い声がした。
「あぁ、まあ、確かにね」と笑いながら本屋の主人は言った。
彼女は一冊本を選んで、カウンターに向かって歩きながら彼女は呟いた。
「性格も個性も思想も行動も、人格は、死に方によって特徴づけられるものじゃないのに」
そう言いながら彼女は選んだ本を受付に置いた。
『私が死ぬまでにしたかった100のこと』という題名だった。
「それは、その通りだ」
本屋の主人は受付の中で、引き出しから一枚の紙を取り出して、慣れた手つきで必要事項を記入していった。
「はい」
そういって本屋の主人はその本と、先ほどの漫画を重ねて、彼女に差し出した。
「ありがとうございます」
そういって彼女が受付に背を向けて歩き始めた時、背後から質問が飛んできた。
「お嬢ちゃんはさ、まだしばらく生きる予定?」
彼女は振り返った。
「はい、この漫画のラストを読むまで死ねません」
本屋の主人は、ははは、と笑った。
「そうか、じゃあ、また来てね」
「はい、また来ます」
彼女は本屋を出た。
空は夕陽で赤く染まっていた。彼女は車に乗ってエンジンをかけた。Uターンをして、来た道を戻り始める。開け放った窓からそよ風が吹き、彼女のこめかみに垂れる一房の黒髪がふわりと浮いた。差し込む夕陽の光が白い頬と首筋を照らした。
ほっそりとした白い首に刻まれた一本の痣が、赤赤と際立つ。
彼女はその痣を指でなぞりながら、穏やかに微笑んだ。
空が、山が、家屋が、人が、穏やかな夕陽に染まっている。
自殺した人は地獄に墜ちるというが、それにしてはとてもとても美しい夕暮れであった。