未完の
「ドアが開きます、ご注意ください」車掌の声が聞こえる。それに合わせてドアが開くと、外気の熱風と共にスーツを来た人たちがなだれ込む。私はそれに押し流されながら、スマホをいじってネットの波を乗りこなす。吊り革につかまっている左手は全体重を支えるのに忙しい。学生の乗っているような時間で、会話と共に私の古き良き時代の記憶も掘り起こされ、哀愁さえ感じる様子を空想していたが、どうも私の近くにはいないらしく、ただただ電車の駆動音と自分の心臓の拍動が聞こえるだけだ。
私は、一般には地味と言われる服装で電車に乗っている。おしゃれに気を遣うほど外に出るのは慣れていないし、そもそもこうして電車に乗るとは思っていなかった。しかし、最近はそうにもいかなくなったのだ。始まりは四か月前、私がずっと引きこもっていたころだった。
そのとき、私は学生だった。いや、「元」学生だった。不登校が続いて学校を中退したのだ。そして、マンションの一室で、時間と食料を無為に消費していた。実家からは、今家ではどうだとか、こっちでは頑張ってるのかとか、思いつく限りのすべてを長文で書かれた母からの手紙と、たらふく食えという思いを物理的に贈ってくる父からの大量の野菜が毎月送られてきた。その段ボールを見るたびに、私は心が痛むのを感じた。
そしてある日、春の陽気が暖かい(多くの人にとっての)休日である。何日ぶりかにインターホンの音が鳴った。ドアを開けると、そこにはカレー入りの鍋を持って立っている、こぢんまりとした長髪の女性が困り笑いをして立っていた。見た感じ、同年代だろうか。内心、マンガでよくあるシチュエーションだなと思いながら、ドアに手をかけたままでいると、その人は早口で言った。
「あっこんにちは!ちょうど外出してていなかったらどうしようと思っちゃいました!あっこれ奮発しすぎてめちゃくちゃ余っちゃったカレーです!どうぞ召し上がってください!いや鍋より小分けのタッパーとかの方が良かったかなでも持てないかもしれないしまあいっかこれ割と重いので注意してくださいね!あっ私今日隣に引っ越してきました藤波志乃です!よろしくお願いします!」
予想外の集中豪雨に気圧され、私は感謝の気持ちを述べて大量のカレーを受け取るしかなかった。そしてこれまた予想外のうちの予想外だったのだが、「何でも教えてくれそうなんで!」という理由で、彼女は私の部屋に入り浸ることになったのだ。
私と彼女は、年が近かったということもあり、すぐに打ち解けた。だが、彼女が私の部屋に来ることはあっても、私が彼女の部屋に行くことはなかった。
彼女は、芸術系の学校に通っているらしかった。油絵が好きというが、「いつか見せてあげる。今、大作を描いてるの、超!大作!」と言って、見せてはくれなかった。隠しているようにも思えたが、私は彼女のハツラツとした笑顔を曇らせるようなことはしたくなかったので、それきり言わなかった。
私に彼女を惹きつける何かがあるのだろうか。分からないが、彼女は私がひどくお気に入りのようで、簡素なインテリアがいくつか据えつけてある部屋のソファに深々と座り、私のお気に入りのインディーズを流してくつろいでいる。
「こういう曲聴いてると創作意欲がふつふつ湧いてくるんだよね。このCD買って聴いてみたんだけど、なんかここで聴く方がいいの!」
来るたびに毎回紡がれるその言葉たちが私の心に充足感を与える。一方で、彼女は何か虚勢を張っているのではないかという疑問が浮かんでくる。果たして彼女は太陽なのか、はたまたそれに似せた電灯なのか。どちらにせよ、私はその光の恩恵を受けている。もう彼女なしには生きられなくなってしまったのだろうか。確かめようにも、それに白黒をつけるのが怖くて、私はのうのうと生きていた。
一か月ほどが経ったとき、「何か始めてみたら?」と、彼女に言われた。思えば、趣味と言えそうなものはもうやめてしまっていたし、何かを集めることもしていなかった。だが、今何かを始めたとしても、いつまで続けられるのか見当もつかない。そのことを伝えると、彼女は「趣味なんだからいつやめてもいいんだよ。ていうか、したいときにするのが趣味なんであって、こういうのは義務じゃないから」と微笑んだ。
「あ、そうだ。カメラいいと思うよ、カメラ。目に留まったものを残しておけるし」という言葉に素直に従い、デジタルカメラを買った。ただ単に、一眼レフは私には似合わないと思っただけでデジカメを選んだが、このカメラは、すっと手になじむような気がした。
早速、マンションに着くまで、通り道の写真を撮っていた。撮った写真を中に入って見返すと、撮ったそのときの空気までも感じられるような気がして、すぐに気に入った。
それから私は、毎日見知らぬ町を歩き、その旅路をカメラに収めていった。その中でも、特に気に入ったものを印刷して、アルバムに日記とともに入れた。私の小さな旅行記は、少しずつ厚みを増していった。
およそ一週間前のことである。もはや日課になった朝の散歩から帰ってきて、写真の整理をしていると、またいつものように彼女がやってきた。雑多な話の中で彼女は、一週間ほど実家に帰省するという話をした。
「最近、作品が仕上がる気がしなくて。リフレッシュのためにも一回帰省しようかな、って」
心なしかワクワクしているように見える。なんだか寂しい気持ちになったが、彼女の邪魔をしてはいけないと、やんわり後押しすることを言った。
「あ、そうだ。彩奈も一緒に行かない?きっといい写真が撮れるよ。山も海も近場にあるし。……まあ、それくらいしかない、とも言えるけど。どうでしょう」
数秒、考えた。考えて、行きたい、と言った。いいのだろうか、本当に。
とまあ、そんな一言で、彼女についていくことが決まり、私は彼女と電車に乗っていることとなる。とうとう彼女のおかげで、ここまでできるようになったのかと思うと感慨深いが、これは夢なのではないかとも思っている。自分の意思で動いているといえども、いわゆる明晰夢のような、本当の肉体はとうに肉塊になっている状態なのかもしれない。それでも、こんな状況になっていることを素直に喜ぼう。
彼女の帰省先は、遠く半島の先端らしい。電車も通っておらず、終着駅からはバスが日に何回か来るという。電車の車窓から見える風景は、次第に緑が多くなっていき、目的地へ着々と近づいていることを感じられる。あれだけ高い建物があった町はもうとっくに見えなくなっていた。
終着駅は、誰もいなかった。まだ帰省シーズンではないにしろ、学生はもう夏休みに入っているような時期だ。「ああ、それは単純に、子どもが少ないんだよ。というか家が少ない」と、彼女はカラカラと笑った。
写真を撮った。光に透いた若緑から、風が通っているのも見えそうなくらいだ。……綺麗だ。恍惚としていると、バスがやってくる音がした。彼女が、微笑んでいるのが見えた。
乗客のいないバスに乗ると、運転席から、男性の声が聞こえた。
「おや、志乃ちゃんやないか、久しぶりやなあ。そちらの人は?」
「あ、田島さん。お久しぶりです。この人は石田さんっていって、私のお隣さんなんです」
私はお辞儀をした。おどおどしていただろうか。
「こんなとこによその人が来るなんて、まったく久方ぶりだよ。何もないとこやけど、ゆっくりしてってな。んじゃ行こか」
ありがとうございます、と言って、前のほうの席に座った。ぽつぽつ、話をしながら、時々窓越しに写真を撮る。「どこ撮っても同じだよ」と運転手さんに言われたが、何か違うものがあると思って、ずっと撮っていた。
運賃を払ってバスを降りると、停留所の目印と、茶色い木造の待機所があった。人が三人並んで座れるだろうかというベンチを囲うように建てられており、壁にはチラシが数枚貼られている。そこで待っていると、青い車が目の前で止まり、窓が開いた。彼女の父親らしき顔が見えた。なんとなく目元が似ている気がする。
「やあ、おかえり。そちらの方も、お話は聞いとります。さあさ、乗ってください」
促されるままに後部座席に乗り込むと、数分で彼女の実家に着いた。大きな家だった。驚いていると、そこまで驚くようなもんじゃないよ、と言われた。周りにも同じような大きさの家が立ち並んでいることに気付いた。マンションの一室と比べるようなものではなかったな、と思った。
そこでの一週間は、客観的には単調でありながら、有意義な時間だった。山の緑の空気を吸いながら、海の潮風を全身に浴びながら、行き交う人々のぬくもりに触れながら、写真を撮った。アルバムはすぐに厚くなった。夜には、彼女と、その両親と、ともに語らい、笑い、楽しんだ。
最終日の夜深く、彼女がもう寝てしまったころに、そっと彼女の両親に言った。
私は彼女に助けられました。彼女がいなければ、私はもう、とっくにいなくなっていたかもしれません。彼女と出会い、芸術に出会い、私は生きがいを見つけることができました。彼女には感謝してもしきれません。
彼女の両親は、私が言い終わるのを静かに待っていた。母親が、二冊のスケッチブックを持ってきた。
「これね、家に置いてあったやつと、志乃が持って帰ってきたやつ。見てみなさい」
開いてみると、その差は明らかだった。片方は、全てのページが黒く塗られており、濃い水彩が時折ちらりと見えているだけ。もう片方は、淡い色遣いの、軽やかなタッチで描かれたページが綴じられている。私は、目を大きく開けて、息を詰まらせた。
母親は、優しい口調で、言った。
「志乃もね、あなたがいなかったら、そのままだったと思うわ。外には何も出さないで、ずっと自分の中にだけ溜め込んでしまって。自分が思っていることを伝えられないままでいたかも。本当に、ありがとう」
私には、他人を変えるような力があるのだろうか。私は太陽ではない。高々が太陽の周りを回る惑星だろう。そのことを言うと、母親は笑って、
「二つの星は、お互いが影響しあって回っているの」
と言った。
帰りの電車の中で。私は彼女に尋ねた。
「そういえば、前に言ってた超大作は、いつ見せてくれるの?」
「え?ああ、あれ。」
一息ついて、彼女は答えた。
「あれは、もう描くのやめた」
「どうして?見たかったなあ」
「あれは、ほんとは心の中のそのままを描こうとしてたの。でも、見直したら、もう心の中に残ってないような感情が描いてあって。上から描きなおしてもいいんだけど、そういう感情があったっていうことは忘れたくないな、って。だからあれは、もう完成したってことにして、私だけが見られるようにするの」
私は、そっか、と微笑んだ。
「タイトルは、『未完の』、です」