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スモーキー・イン・ザ・UK

作者: カモメ

ヤン・オーレ・ゲルスター監督とチバユウスケ氏に最大限の敬意を込めて。

「1」

 二〇〇五年は、僕たち大学の喫煙者たちにとって最後の楽園の年だった。

 敷地内には幾つかの喫煙所があって、そこでは朝から夕方まで常時誰かが煙草を吸っていて、当時はまだ加熱式の電子煙草も無かったので、煙と僅かに灰が舞い。誰もそれを咎めなかった。屋内の喫煙室は換気扇を除けば完全な密室で煙が廊下に漏れる事は無かったし中庭に設置されていた灰皿だって随分と隅の方にあった。本当に煙草の煙と匂いが苦手な人たちにとってもそれを避けて通れないような場所には決してなかった、と思う。これは僕が喫煙者だから、そんな風に一方的に思っていただけかもしれないが。

 僕らは楽園で、だけどそれなりにマナーだとか節度だとかルールとか周囲への配慮とか兎に角そういったものを律儀に律儀に守って暮らしていたはずだ。敬虔だった、と言える。慎んでタール神とニコチン神を敬っていた。

 二〇〇六年。仲良くしていた先輩たちが春に卒業してゆき。その年の後期のセメスターが始まる際に、大学側は突如として構内の全面禁煙に向けた取り組みを始めた。喫煙所は全て撤去され、代わりに『移行期間』『段階的』という名の下に小さなプレハブ小屋を一つ僕らはプレゼントされた。分煙という事だった。僕らはそれからは小屋の中だけで喫煙を許された。これまでのものが分煙じゃなかったという大学側の認識に僕らは驚いた。

 失楽園だった。僕らは文句こそ垂れたが、誰も抵抗は出来なかった。ような気がする。

 二〇〇八年の三月に僕は大学を卒業し、四月、大学からはプレハブ小屋も消えて敷地内は完全禁煙となったらしい。


 二〇〇五年のある日。まだ僕らが楽園にいた頃の、自由に煙草を吸えていた頃のある日の思い出を綴る。


「2」

 僕がまだ大学二年生だった頃、カシマ先輩は大学四年生だった。カシマ先輩というのは同じサークルの先輩で同じ喫煙者だった。

 サークルの活動内容に関して、大学を卒業した後の今となってはとてもじゃないが胸を張って世間に言えるようなものではなく、つまりまあ外枠だけを語らせてもらえば飲み会を開く為のサークルみたいなものだった。外枠だけで中身は無い。どこの大学にだって十や二十はあるような大学生らしい集まりだった。今となってだからこそそんな風に客観的にやや自虐的に思えるが当時はそれがえらく崇高な事のように思えたから不思議だ。酒を飲む事と煙草を吸う事が、現代東南アジア論の単位を取る事よりもずっと大事な事のように勘違いしていたし、その勘違いは結果的に大学四年生になった頃の僕をひどく追い詰めた。

 当時のカシマ先輩について少し語る。

 長身で華奢。その体型をしてモデルのようと言えば聞こえは良いだろうが、彼女にはまるで飾り気は無く。モデルというよりは、都会で夢とプライドの為に清貧に甘んずる売れないバンドマンのような不健康だけどどこか研ぎ澄まされた雰囲気を漂わせていた。痩せ細った細過ぎる脚をいつもタイト感の出ないジーンズにねじ込んでいた。

 全体的にカシマ先輩は不健康なイメージだ。煙草がそのイメージを助長していたという事もあるが。髪型もいつもあまり変わらなかった。無精で伸びたという感じのストレートの長髪。周りの、大学内にいる他の女子たちと違って黒くて長い。

 服や靴やカバンを買う金を惜しんで煙草を買う。髪を切る金や髪を染める金や髪を巻く金を惜しんで酒を飲む。彼女はそういう女子大生だった。

 あの頃の僕は酒と煙草を随分と信仰していたし、今再度振り返ればやはり恥ずかしい大学生活だったと思う。だけどそれらを介して知り合ったカシマ先輩の事はあの頃心の底から尊敬していたし、今でも偶像みたいに心のどこかで信じている。



「3」

 その日は先輩のアパートの床で目を覚ました。雑魚寝だった。ひどい二日酔いだったのを憶えている。


 ******


 僕より先に起きていた先輩が旨そうに煙草を吸っていた。テーブルの上には昨夜の酒盛りの跡が散乱していた。僕が半身を起すと先輩は僕に「よう」と声をかけて、吸っていた煙草をテーブルの上の灰皿へ押し付けた。灰皿の中にも昨夜の飲み会の跡が残る。吸い殻の山。僕と、先輩と、カシマ先輩と三人とで、一晩の内に随分と吸った。

 アパートというのは、正確に言うと先輩の彼女さんが借りている大学近くのアパートの一室だ。先輩というのはカシマ先輩の同輩で、僕とカシマ先輩と同じサークルに所属していた。先輩の彼女さんについても以下同文だ。つまりその昨夜の酒盛りというのはいつものサークル活動みたいなものだった。先輩の彼女さんの部屋で四人で一晩中飲み明かした。

 先輩と先輩の彼女さんは学生ながら半同棲のような形でお付き合いをされていた。ちなみに半同棲とは先輩たちによる自己申告なので、僕にはそれが完全な同棲生活とどのように違うのかよく分からない。分からなかったが尊敬する先輩たちの言う事なので鵜のように消化不良のまま飲み込んだ。

 交友関係が広く素敵な恋人を持つ先輩を、僕はカシマ先輩の次の次くらいに尊敬していた。ちなみにカシマ先輩の次に尊敬しているのは先輩の彼女さんである。優しくて才色兼備な女性だった。

 そんな優しい先輩の彼女さんはというと、僕や先輩より一足先に起きて台所でモーニングコーヒーの用意をしてくれていた。そういう事を平気でやれる女性だった。村上春樹の小説の登場人物みたいな人だ。油断していると「ねえ今日はこのまま大学なんてサボってカンガルーの赤ちゃんでも見に行かない?」とか言い出しそうな。

 カンガルーはどうか分からないが、だけどたしかに今日は嫌な事なんて一つも起きなそうな予感がする晴天だった。寝起きの、この、二日酔いの嵐さえ過ぎ去ってしまえば、あとはもう何も。

 先輩は続けて新しい煙草に火を点けた。僕も早く目覚めの一服が欲しかった。胃の底に二~三本、缶ビールが沈んでいる気分だった。ビールが缶のまま沈んでいる。そんな気分。アルミ缶でよかったスチールじゃなくてよかったと思うがそれでも腹は重い。頭も少しクラクラする。起きるのが辛い。動くのがしんどい。早く一刻も早く、コーヒーの為の湯が沸くのより早くカンガルーが地を駆けるよりも早く早く、ただ煙草を吸いたいと思った。

 テーブルの上から僕は僕の煙草の箱を取り、そうしてすぐに中身が空な事に気が付いた。切らしている。昨夜、僕かカシマ先輩のどちらかがこの箱の最後の一本を吸った。

 僕とカシマ先輩は同じ銘柄の煙草を吸っていた。正確に言うなら僕はカシマ先輩に強要されてカシマ先輩と同じ銘柄の煙草を吸わされていた。そして昨晩早々に煙草を切らしたカシマ先輩は僕から貰い煙草をしていた。煙草を切らした時に身近に同じ銘柄の煙草を吸っている人がいると便利、という理由でカシマ先輩は僕に同じ銘柄の煙草を吸う事を強いていたのだった。僕ももうそれに慣れてしまっていたので何の抵抗も無く彼女に自分の買った煙草を好きに吸わせていた。寧ろ昨夜に関してはそれも想定して一箱余計に持っていたのだがどうやら吸い差しの一箱と新品一箱、どちらも昨夜の内に吸い尽くしてしまったようだ。

 様子に気付いた先輩が「いるか?」と自分の煙草を分けてくれようとしたが、僕はそれを丁重に断った。大学まで歩いていくその道中にコンビニがある。そこで煙草を補充しようと思った。先輩の彼女さんがお盆の上に僕と先輩と彼女さんの分と、三人分のコーヒーを乗せて部屋に入ってきた。流石ご自身も酒嗜まれるだけあってよく分かっている。二日酔いに良く効く濃い目のコーヒーだった。その深い香りは僕の喫煙衝動と二日酔いを幾分か緩和してくれた。

 カシマ先輩はと言えば、どうやら誰よりも早く目を覚まして、そうして誰も起こさないようそっと部屋を出て行ったようだった。



 ******


「4」

 当時のカシマ先輩についてまた少し語る。

 前夜確かに一緒に飲んでいたはずだが目を覚ますと煙のように消えている。そういう事が往々にしてあった。彼女は異常に酒が強く二日酔いとは無縁らしく、またカラスのように朝起きるのが早かった。

「野良犬みたいなやつだよなあ」と大学一年生の頃からの付き合いの先輩は言い、「あの子は野良猫みたいな子だから」と同じく大学一年生の頃からの親友である先輩の彼女さんは言う。

 僕らは当時、誰の部屋彼の部屋となく飲み会を開いたが(当時学生の僕らは金銭的な余裕が無く、酒を飲むとなれば専ら店で飲むより安上がりな誰かの部屋での持ち寄りでの宅飲みだった)カシマ先輩は決まって誰よりも夜遅くまで酒を飲み続けて、そうして翌朝(僕やカシマ先輩は大学や市街から少し離れた地域に住んでいたので、大抵宅飲みの際は開催場所となるアパートなどの部屋主に一晩泊めてもらっていた)誰にも寝顔見せずに姿を消していた。もう、煙というより妖精みたいなものだった。夜にしか姿を見られない妖精。鱗粉の代わりに口から吐いた白い煙を纏っている。

 僕はカシマ先輩とは、僕自身は大学一年生の頃からの付き合いという事になるが彼女からしてみれば三年生になってからの知り合いというわけで。当時で、出会ってから一年間と少しだけの関係。カシマ先輩の僕への興味はどうやら物凄く希薄だったらしく、喩えるならそれは、彼女にとっては僕は履修しなくても卒業できる選択の体育の授業みたいなものだったように思う。

「君、私と同じ煙草吸っているんだね」

 とカシマ先輩に嬉しそうに言われた事がある。

 僕に自分と同じ銘柄を吸うよう勧めて来たのはカシマ先輩自身であるにも拘らず、だ。


 ******


「5」

 先輩の彼女さんに「午前中は何か授業あるの?」と訊かれ、時計を見るともう一時限目も残りわずかという時間だと気付いた。僕はなんとなく一時限目と二時限目両方履修している事を言い出せず「二限が」とだけ答えた。先輩はコーヒーを飲み終えて三本目の煙草に火を点けていた。僕もカップの中に僅かに残ったコーヒーをぐっと飲み干すと、先輩たちに一宿の礼を述べて足早に部屋を出た。

 外は寒くもない暑くもない心地良さだった。季節の割に少し日差しが強いようにも感じたがその分、田んぼの方から吹いてくる緩やかな風が清々しかった。ここは陽も風も遮るものが少ない郊外のニュータウンだった。

 田畑を切り拓いて大学を建て、周りに宅地を分譲して出来上がった街だった。人口の割にカフェとパン屋が多い、村上春樹の小説に出て来そうな街だ。パンを買うには常にパン屋の店員さんの哲学的な問いかけに答えなければいけないような、会計ではポケットから直接小銭を出して支払いをしなければいけないような(その際に小銭はポケットの中だけで正確に数えてからトレイの上に出さなければならないような)、そんな街だ。

 先輩のアパートから大学までは歩いて七~八分ほどだった。こんな街だがコンビニもある。セブンイレブンとサークルKが一軒ずつある。僕は大学への道すがらセブンイレブンへと寄った。

 店内に入って意味も無く雑誌コーナーの前を通り、グルっと店内を一周してからレジの前に立つ。そうして店員にいつもの煙草の番号を告げると、その煙草は現在在庫を切らしているのだと告げられた。

 仕方なく僕は何も買わずに店を出た。もう一軒のコンビニにも寄ろうかと考えたが大学へ行くには少々遠回りになる上、いよいよ二時限目にも間に合わなくなる。必修の単位。今期はもう既に二度サボっていて今日サボると随分まずい事になる気がした。

 僕は諦めて大学へと向かう事にした。煙草は昼休みにまたもう一軒別のコンビニ、サークルKの方へ行って買えばいいと思った。


「6」

 勉強を終えた後は猛烈に煙草が吸いたくなる。もう僕らは半ば条件反射のように授業と授業の間には自然中庭にある喫煙所の灰皿の周りへと集まった。二時限目が終わった後は昼休みに入るが、皆食事を摂る前に一服しようとやはり灰皿の周りはパブロフの犬たちでいっぱいだった。

 僕も、もうせめて一本くらいはいつも吸っている銘柄でなくても誰か知り合いがいれば貰い煙草をしてその場しのぎをしようと、そう決めて中庭へと足を運んだ。コンビニまで歩く時間さえ我慢できないような喫煙衝動が授業の終わった直後というのはあった。

 しかしこういう時に限って、いつもは誰か一人くらいは知人がいるはずの灰皿の周りには見事に知らない話した事もない学生ばかりだった。授業が終わる五分前からもしかしたらカシマ先輩がそこにいるかもしれないと都合の良い妄想をしていた自分に溜め息を吐く。無味無臭、無色の溜め息。

 こうなればもうこれ以上無駄足を踏んではいられない。一足でも早くサークルKへと向かう事にした。

 中庭を抜けて学生ロビーを突っ切りそのまま正面玄関から北門へと向かう。向かおうとして、学生ロビーの所で足を止められた。日頃から目を掛けてもらっている仲の良い教授に声を掛けられて一緒に昼食をと誘われた。

「お昼は食べたかい? まだか。よしそれじゃあ今から『アリシア』に食べに行くから一緒に行こうじゃないか」

 教授は有無を言わさぬ調子で言って、僕の返事も待たずに歩き出した。教授の両脇には四年のゼミ生が二人。どちらも短期ではあるが留学経験を持った優秀な女性だ。二人とは何度か話した事があるが、二人とも僕が八年間大学に通っても取れないほどの単位を持っていた。それもA(優)以外の成績は、仮に単位取得条件であるB(良)C(可)であっても、それは自分たちにとって恥であるかのように話す。僕は彼女たちを別世界の生き物のように思っているし、それはどうやら向こうも同じようだった。

 彼女たちは僕があらゆる理由で授業をサボったり、またやむを得ず演習に出席できなかったり、泣く泣く講義を受けられなかったりという話を嫌味でなく興味深そうに聞いてくれた。彼女たちからすればそれはもうほとんど異文化理解の域だったようだ。

「こういう駄目な学生が放っておけないんだよな、僕は」と教授は言う。研究者でありながら、教育者の鑑のような人でもある。駄目とか、面を向かって言ってくれるのも正直で好感が持てる。ただ時々、もう少しフィルターを通した言葉をと思わない事もないが。


 ******


「7」

 カシマ先輩と出会った頃の話を少し語る。

 大学に入って間もなく。僕は休み時間には必ず中庭の喫煙所へと足を運ぶようになっていた。中庭は教室棟や研究棟など四棟に囲まれた吹き溜まりになっていたが、ベンチが多く設置されている事や教室棟から学生ロビーへ向かう際の通り抜けに便利な事もあって天気の良い日には喫煙者非喫煙者問わず学生が多く行き交う場所だった。僕は演習で親しくなった同学年の友人数人と煙草を吸いに通った。

 中庭の喫煙所にはスタンド式の灰皿が並べて二つ設置されていた。僕が大学に入って間もない頃というのは当然、灰皿の周りを囲うのは上級生が殆どだったので少し緊張もしたが、別段彼らに灰皿を独占しようという気はなく、寧ろ開放的であったようにさえ感じた。灰皿二つというのは中庭に訪れる喫煙者の数に対してやや不足に感じたが、その為にそこの利用者は皆他の利用者たちに対して寛容であろうとしたのだと、今になっては思う。喫煙者特有の謎の連帯感があった。彼らが嫌ったのは灰皿があるにも拘らず吸い殻をその周りにポイ捨てされる事や、灰皿の上に吸い殻以外のゴミ(空き缶など)を捨てられる事だった。モラルある楽園だった。僕はすぐにそこに居心地の良さを感じるようになった。

 カシマ先輩はそんな楽園の中においてとりわけ僕の目を惹いた。後に同じサークルの先輩と知る事になるのだが、入部以前から僕はカシマ先輩の姿を一方的に、そしてセンセーショナルに憶えていた。贔屓目を抜きにしてもやはり彼女は異端だったように思う。

 女性が一人で煙草を吸いに来る事自体がまず珍しいと、最初はそう思って目を止めた。それから、その姿がまるで煙草を吸う姿がまるで映画のワンシーンみたいに様になっていて少し憧れた。

 カシマ先輩は堂々と煙草を吸った。そこには寧ろ一切の協調が無かったようにさえ思える。不足気味の灰皿を僕らは遠慮し合いながら仲良く使っていたが、彼女は自分の吸いたいようにだけ吸って灰皿も使いたいように使った。平和な楽園だと思っていたのに、一匹だけ獣が混じっているのを知った気分で少しドキドキした。

 それからサークル活動の中でカシマ先輩と何度か話すようになり、中庭の喫煙所でも会えば自然と話すようになった。

 カシマ先輩はよく煙草を切らす人だったので、共通の話題は少なくても彼女が僕に話しかける切っ掛けには事欠かなかった。


 ******


「8」

 喫茶店『アリシア』はその店名とは似つかない、中々男らしいランチメニューを揃えた店である。オリジナルの丼ものが四種類もあって、どれもが洒落た内装からは想像し難い食いでのあるサイズ感だった。その辺は流石大学周辺に居を構えた飲食店というべきか、学生のニーズに応えているように思えた。

 しかし一方で、やはり語るべきはその洒落た内装の方だと思う。まずフロアの隅っこにピアノが置いてある。いかにもこの街のカフェらしいやり方だ。ピアノを楽器じゃなくてこの世で最もお洒落なオブジェだと思っている。不自然なまでにナチュラルなものに拘った、木製のイスとテーブルその他の調度。個々のテーブルの上と、それと窓際のカウンターには雑貨屋と見紛うほど小物の装飾が散りばめられていた。

 店外にも良く手入れされたガーデニングが並べられている。それはまるで主人の趣味というよりはこの街の住民たちの義務みたいだった。教育、納税、ガーデニング。

 勿論店内で煙草は吸えない。終日禁煙、灰皿さえ置いていない。テーブルの上に置かれた角砂糖入れは、ガラス製のそれはなんとなく僕に灰皿を想起させ、必要以上に僕を誘うような煽るような調子だった。僕はその容器の中から角砂糖を二つ取り出し、食後に運ばれてきたホットコーヒーへ入れた。

 教授と先輩たちはハーブティーを飲んでいる。ランチの後にハーブティーを飲むという感覚は僕はたぶんあと百回生まれ変わっても理解できない。ランチの後にはやはりコーヒーと煙草だ。

 先輩たちはハーブティーをちびちびと少しずつ口に運びながら卒業旅行の算段をあれこれ話していた。どうやら海外経験豊富な教授に色々助言をもらって、最終的に行き先を決めようというつもりらしかった。それにしてもこの時期から卒業旅行とは、随分と気の早い先輩たちだった。計画的だとも言える。

 理由は分からないがアジア圏に拘っているようだった。インド、ベトナム、タイ、カンボジア、ラオス。そうかと思えば、やはりヨーロッパも捨てきれないと言い出してきりがない。教授はそれぞれの国の長所短所を懇切丁寧に説明してくれた。中には「僕は行った事がないけれど」と枕詞が付く国もあったが、そんな国でもまるで本当に行ってきて観光地以外の市井の様子まで見て来たかのように語るから研究者というのは偉大なものだ。

 三人より先にコーヒーを飲み終えた僕は、海外の話に花を咲かせている彼らに「すみません、三限が」と言い残し一足先に席を立った。実際午後の授業が始まるにはまだ少し時間があったが、大学に戻る前にコンビニに寄りたかった。

 先輩たちは午後はもう履修している授業が無いらしく、まだ暫く教授と店にいるとの事だった。僕が財布を出す素振りをすると教授はそれを手で制した。僕は丁寧にお礼を言って小走りで店を出た。店を出た後も小走りだった。

 幸いアリシアとサークルKは然程離れていなかった。大学へ戻る直線上には無いものの食後の運動には丁度良いランニングだった。途中石造りの小さな橋があり、その脇には細流に沿うようにして公園があった。名前は知らない。ベンチとカラフルなジャングルジムしかない小さな広場。ベンチには大分年老いた様子の老人が一人腰掛け、陽に当たっていた。僕は走りながらその様子を横目に見る。全てが若いこの街には不釣り合いな老人だった。まるで別の知らない街から移植されてきたかのような、老木。

 コンビニに駆け込んだ僕は真っ直ぐレジへと向かい目当ての煙草の番号を店員に告げる。

「三〇〇円になります」

 僕は財布の中を見て息を飲んだ。店員に「すみません。やっぱりいいです」と断ると、事情を察した店員も気まずそうに笑顔を返してくれた。いいわけがなかった。僕の財布の中には現在、小銭が一三〇円しか入っていなかった。当然紙幣は一枚もない。

 ただ口から煙を吐きたいだけなのに、僕は顔から火が出る思いで店を出た。恥ずかしさと、いよいよもってどうしようもない焦燥が僕を襲う。僕はまた駆け出していた。カフェからコンビニへ向かった時よりも、更に早いペースで走った。


「9」

 大学に着いた僕は昼休みが終わるギリギリの時間まで知り合いを探して構内を徘徊した。だけどやっぱり喫煙者の知り合いには一人も会えなかった。

 三時限目の講義を傾聴する気分にはとてもなれなかったが、こうしてこのまま構内をうろついていて教授たちに会っては気まずいと思い仕方なく授業に出た。

 教室に入り、席を確保した所で昨晩部屋に泊めてもらった先輩から携帯電話にメールが届いた。「カシマがお前を探していたみたいだけど、会った?」と。


 授業が終わると僕はすぐに中庭の喫煙所に向かった。早く着き過ぎて灰皿の周りにはまだ誰もいなかったが、次第に同じく授業を終えた学生たちが集まってきた。僕はそれをやや遠巻きに暫く眺めていたが、カシマ先輩がそこに現れないのが分かるとその場から離れた。そうして早足で思いつく限りの大学敷地内にある喫煙所を巡回した。

 カシマ先輩に会いたいと思った。会えばきっと煙草を一本分けてもらえると、そう思った。

 しかし結局カシマ先輩には会えないまま休み時間が終わり四時限目になった。このまま授業をサボって彼女を探したいとも思ったが、灰皿がある場所以外に探す当てもなかったので諦めて授業に出た。

 四時限目と五時限目の間の休み時間も同じように過ごした。だけどやはりカシマ先輩は見つからなかった。不思議とカシマ先輩がもう大学から帰ったとは思えなかった。理由は無いが、ただなんとなく。彼女が午後の授業を履修しているかどうかも分からなかったけど、だけどカシマ先輩は、まだなんとなく大学内にいるような気がしていた。

 五時限目が終わって、今日の授業は全て終了した。午後五時。サークルなどの課外活動を行う学生以外は皆下校の時間になる。

 僕は今度はゆっくりと中庭へ向かった。そうして下校前の一服に訪れる学生たちを先ほどと同じように遠巻きに眺めていた。紫煙が夕焼けに溶けていった。そうして、煙草を吸い終えた学生たちは一人また一人と帰路へと着いた。

 最後の一人がいなくなったところで僕は灰皿へと近付いた。まだ残り香が立ち込めていた。僕は誰もいない中庭を見渡して、そうして教室棟の方へと目を向けると、ドアからカシマ先輩が出て来るのが目に入った。

 カシマ先輩は真っ直ぐ灰皿に向かって歩いてきて僕に声掛けた。


「10」

「やあ」探していたよ、とカシマ先輩は言う。なんだか随分と久し振りに会ったような気がしたが実際には昨夜の飲み会から二十時間と経っていなかった。

「僕もです」と答えて、実は煙草をと切り出そうとしたところで、カシマ先輩の方から煙草を一箱差し出された。それは僕と彼女が普段から愛飲しているもので、封も切っていない新品だった。

「それ、あげるよ。君には随分とたくさん貰い煙草、していたしさ」

 あまりにも意外な事だったので僕は咄嗟にお礼が言えなかった。戸惑う僕の手に半ば強引に煙草の箱を握らせカシマ先輩は続けて言った。

「実は煙草、止めようと思ってね」

 それはまあ、今までのお礼さとカシマ先輩は少し恥ずかしそうに告げる。夕焼けが彼女の白い肌を橙に染めていた。僕は急に悲しさが込み上げてきた。肺にぽっかりと穴が開いたような気分だった。きっと僕は、カシマ先輩たちが大学を卒業する時が来てもこんな感情にはならないだろう。寂しくて何も言えなかった。

 車で大学に通っているカシマ先輩はそのまま駐車場へと歩いて行った。夕陽に輪郭をぼやけさせられて、彼女の後姿はまた一層細くなったように見えた。煙草を止める理由については何も言ってくれなかった。クリント・イーストウッドが西部劇のエンディングで、荒野へ去っていくような帰り方だった。ああそうだ。今のこの気持ちは映画が終わる時の寂しさに似ているのだと思った。冷たい銃弾に盟友を撃ち抜かれた戦争映画のようなやるせなさと、だけどヒロイン一人だけが生き残った後のホラー映画みたいな僅かに救われたような気分と。

 僕はカシマ先輩から貰った煙草の箱を握り締めながらそんな風に感傷に浸っていた。

 

 大学の最寄駅は無人駅だった。僕が大学に入学する以前、かつてこの駅は沿線で一番不正乗車が横行していた駅だったらしい。キセルがひどかったのだそうだ。小さな駅舎の中は窓一つ無くて暗い。外はもう夕陽が沈みかかっていた。駅舎の中には誰も利用者がいなかった。壁に貼られた時刻表を見るとまだ次の電車には随分と時間があった。一時間に二本、上りと下りそれぞれ一本ずつしか来ないローカル線。電車が止まるだけマシとさえ言えた。それは運転手が注意深く見ていてくれないと皆に忘れ去れてしまいそうな、寂れた駅だった。

 僕は定期券がある為切符を買う必要は無かった。まだ暫く電車が来ない事が分かると駅舎から外に出て、なけなしの小銭で自動販売機で缶コーヒーを一本買った。今日は随分と走り回ったので喉が渇いた。無機質なフォントで書かれた微糖の文字が、その温度が丁度良く感じた。自動販売機の横には灰皿が設置されている。僕はコーヒーを多めに一口飲み、それからカシマ先輩に貰った煙草の封を開けた。外から線路の方を眺めたがやはりホームの上には誰も人がいないようだった。

 カシマ先輩は禁煙とは言わずに煙草を止めると言った。それは大学を辞めるとか、サークルを辞めるとか、そういう言い方に近い気がした。止めるじゃなくて、辞める。大学一年生の頃からの知り合いである先輩や先輩の彼女さんは「カシマのようなヘビースモーカーが禁煙なんて出来るわけがない」と笑うだろうか。それともやはり、僕よりも彼女と付き合いが長く彼女の心の機微をより理解している二人は、彼女の目の前から全ての灰皿を遠ざけて彼女のその意思を尊重しようとするのだろうか。

 僕にはよく分からなかった。カシマ先輩がなぜ煙草を辞めたのか。カシマ先輩の考えている事が分からなくて、ただ一方的にカシマ先輩の言葉を信じて、もうカシマ先輩とは二度と一緒に煙草を吸えないのだなと、そう、やっぱり一方的に勝手に一人で悲しくなっているだけだった。

 駅前はロータリーになっていて、バスの停留所があった。ベンチには昼間公園で見かけたのと同じ老人が座っていた。老人は、バスを待っているのだろうか。僕はあのバス停にバスが迎えにきた所を今まで一度も見た事がなかった。昼間は暖かかったが日が沈むと外は季節相応に肌寒い気温だった。老人は昼間と同じ格好でベンチに座っている。本当は太陽もバスも、老人は何も待っていないのかもしれなかった。

 家に帰ろう、と思った。今日は家に帰って熱い風呂にゆっくり浸かろうと、そう思った。

 新品の箱から僕は煙草を一本取り出し、口に銜えた。このまま鼻で大きく息を吸ったら、なんだかもっと感傷的になってしまいそうで駄目だった。僕は急いでポケットからライターを取り出し、煙草に火を点けようとする。

 しかし何度やってもライターの火打石は空振り、カチカチと音を立てるばかりだった。気が付くともう夕陽は完全に沈み切っていた。僕は口に銜えていた煙草を手に戻し、息を吸う代わりに大きく吐いた。ガス欠だった。コンビニまで今度はライターを買いに行こうにも、もう僕の財布には百円ライターを買う小銭も無い。定期券が無ければ電車で家までも帰れない有様だった。再度僕は口に煙草を銜えてライターで着火を試みる。しかし結果は同じだった。カチカチ、カチカチと僕がライターを鳴らしていると不意に、バス停にいる老人がこちらを見ているのに気付いた。

 僕も顔を上げて老人の方を見た。すると途端、後方をゴウッと音を立てて電車が通り過ぎて行った。時刻表には乗っていない電車だった。電車は無人駅には停まらずに速度も落さず通り過ぎた。線路を振り返った僕の目は通り過ぎる電車の最後の車両をかろうじで捉え、その車窓の中にカシマ先輩によく似た人が映っている錯覚を見せた。


 ******


「11」

 あの日以来、カシマ先輩が大学で煙草を吸っている姿を見かける事はなかった。彼女はサークル活動の飲み会への参加もあれ以降、減ったように思う。ただ時々は飲み会の席にやってきて変わらずに酒を飲んでいたので、そういった場で卒業までに僕は何度かカシマ先輩と話す事で出来た。会話の内容はロクに憶えていない。

 カシマ先輩はきっちりと四年で大学を卒業していった。卒業後については連絡を取っていないので何も分からない。

 それから僕が煙草を吸う事に対して何か考えが変わったとか別段そういう事はなく、値上げと禁煙に向けて変わっていく大学の中で変わらず煙草を吸い続けた。卒業までに銘柄を二回変えたが、それも特別な理由は無かった。僕も危うい所ではあったが、なんとかきっちりと四年で大学を卒業できた。

 大学構内の喫煙所と灰皿撤去は二〇〇六年の夏休みの間に作業が全て行われたようだった。長期休暇明けの九月に久し振りに大学へ行って、灰皿が無くなっていた事よりも周りの風景にまるで合わないプレハブの存在感に、その違和感に驚かされたのを憶えている。

 二〇〇六年十月。構内を散歩している際に人気の無い裏庭で、撤去され忘れた灰皿を一つ見つけた。その灰皿はかつて中庭の喫煙所に設置されていた灰皿同様スタンド式だったが、脚から簡単に取り外し出来たため、僕はそれを頭の灰皿部だけ外して他の人に見つからないようトイレに持ち込み、洗面台で丁寧に洗い、そうしてカバンに仕舞ってこっそり持ち帰った。

 その灰皿は今でも僕の部屋の机の上に置かれている。


<了>

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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読しました。 先にオレンジの方を読まさせていただきましたが、やはり印象は変わらず。。。文学だなあ、です。 カッコいいですねえ。煙草を辞めると宣言したカシマ先輩だけでなく、その理由を明…
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