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後編



 それが、つい先週のことです。


 その日も、今日みたいに蒸し暑い夕暮れでした。遠くの空に大きな入道雲がみえて、これは一雨来るなと思いのぼり旗を片付けていた私は、通りの向こうからよろよろとした足取りでやってくる人影を見つけました。それは、あの時の男でした。


「どうしたんだ、お前さん。ひどい顔をしてるじゃないか。どっか悪いのかい?」


 そういって支えてやった男の身体があまりに軽くて仰天したのを、今でも覚えています。近くでみると男は目の下に大きな隈があり、頬はおちくぼみ、全身痩せこけていました。そうして虚ろな顔で、何かをぶつぶつ呟くのです。


 ちょうど他にお客さんもいなかったですし、私は男を店にいれて、そこに座らせました。すると、彼の様子があの人はまったく違うのがわかって、いささか私を困惑させました。小さく体を縮めて椅子に座り、ぎょろりと大きくなった目で周囲をせわしなくうかがう彼からは、あの日の晴れやかな様子は欠片も見当たらないのです。


「ひさしぶりに顔をみせたと思ったら、いったい何があったっていうんですか。自由だなんだって、あんなに喜んでいたじゃないか」


 水を置いてやると、男はそれには手を付けず、怯えたように私を見上げました。そして、震える声で囁きくのです。


「声がするんだ」


「声?」


「声だ。声が、俺を呼ぶんだ」


 ひゅっと息をのんで、男はすばやく振り返りました。当然、そこには誰もいやしません。顔面蒼白でがたがたと震える男と、わけがわからず顔をしかめる私の姿が、壁の鏡に映っているだけです。


 私から見ても、男がノイローゼ状態にあるのは一目瞭然でした。彼は筋のうかびあがった細い腕で頭をかかえると、机の上にぽたぽたと涙をこぼしました。


「声がするんだ。どこにいたって、何をしていたって、聞こえてくる。戻ってこい。返せ。返せって、俺を呼ぶんだ。今だってそうだ。俺には、ちゃんと聞こえるんだ……」


「落ち着きなよ。声なんて、聞こえちゃいないよ。それに、返せってなんのことだい。思い当たるものなんて、ありはしないんだろう?」


 男をなぐさめようと、私はできるだけ優しく話しかけました。けれども男は一層身を縮めると、絞り出すような声で言いました。


「身体だ」


「か、からだ?」


「この身体は、俺のものじゃないんだ」


 その時の心地を、どう表現すればよろしいでしょうか。店の中がなんだか大きく広がっちまって、目の前に座る男が途方もない怪物であるかのように感じたのです。腹の底が冷えるのを感じながら、私はなんとか笑顔を浮かべました。自分でも、顔がぎこちなく引き攣っているのがよくわかりました。


「ば、馬鹿なことを言うものではないよ。それがあんたの身体じゃないっているのなら、目の前に座っているそれは誰の身体だっていうんだい」


 男は何も答えません。ただただ男は――、青年は、身を縮めてすすり泣くだけです。


 ええ。私は彼の話を信じてなどいませんでしたし、現れるまで彼から聞いた内容も忘れておりました。けれども尋常ではない男の様子に、叫ばずにはいられませんでした。


「つまり、ミラーハウスにいた男の身体を奪って、あんたは逃げてきたっていうのかい? その男はどうしたんだ。お前さんのかわりに、今でも鏡の向こうを彷徨っているっていうのかい?」


「仕方がないじゃないか!」


 だんっ、と強く机をたたいて、男は顔を上げました。ひどい顔色のせいで、彼の両眼は、夜闇に浮かび上がる鏡のように底知れず落ちくぼんで見えました。


「俺だって、あいつに身体を奪われたんだ! 同じことをしなけりゃ、俺は今でもあの世界を彷徨っていた。あんただって俺の立場だったら、同じことをしただろう!?」


 窓に無数の小石をぶつけたみたいな音が響いて、私はぎょっとして外を見ました。みるとひどい夕立ちが降っており、大粒の雨が窓に叩きつけております。稲妻が空を二つに引き裂き、一瞬、店の中が真っ白に輝きました。


 途端、耳をつんざくような悲鳴があがって、私は飛び上がりました。叫び声をあげた男がみていたのは、窓の外ではなく部屋の奥―――壁に掛けられた鏡でした。半狂乱になった彼は、止める間もなく椅子を転げ落ち、鏡から逃れようと床を這いずっておりました。


「いやだ」


「見逃してくれ」


「戻りたくない」


「助けてくれ」




「この身体は、俺のものだ!!!!」




 悲壮な叫び声と共に、ひときわ近くで雷が鳴り響き、鋭い光が店内を白く染め上げました。その時、私は「あっ!」と叫びました。あれは、手でした。ちょうど鏡の下あたりから男の方にむかって、手の形をした無数の黒い影が、くっきりと床に浮かび上がったのでした。







「直後、男は外に飛び出していってしまいました。私は慌てて窓に駆け寄りましたが、降りしきる雨が視界を遮って、彼の姿を完全に隠してしまいました。一体、あの手はなんだったのか。彼は、あの手から逃れることができたのでしょうか。それだけが気になって、私の中にしこりを残しているのです」


 すべてを語り終えたマスターは、多くを語りすぎてしまったことを恥じるように、こほんと小さな咳払いをした。


 彼が黙ってしまったことで生まれた沈黙をごまかすために、僕は彼が淹れてくれたアイスコーヒーをごくりと飲んだ。真鍮製のマグカップはひんやりと冷たく、中でからころと氷が鳴った。


「ねえ、マスター。最初にあなたは答えがないから怪奇話が嫌いだと話していたけど、この話の場合は答えがはっきりと見えていると思うよ」


「どういう意味でしょう?」


「もちろん、人の物を盗んではならないということさ」


 子供におしえる家庭教師のように、僕は人差し指をたててひらひらと振ってみせた。


「彼は気の毒だよ。身体を奪われ、鏡の中に閉じ込められたんだ。そこは同情の余地がある。けれども、だからといって他人の身体を奪うべきではなかった。因果応報、悪因悪果。彼が鏡の世界に連れ戻されたなら、それは然るべき報いであると僕は思うなあ」


「そうなのですね。ええ、きっとそうなんでしょう」


 自分を納得させるように、マスターは何度もうなずいた。しかし、それは失敗に終わったらしく、彼は表情を曇らせて拭いていた皿を下においた。


「けれども、彼がふたたび鏡の世界に囚われてしまったのだとしたら、あんまりに可哀そうだと思うのです。もし私が彼の立場であったなら、同じように誰かの身体を奪っていたことでしょう。それしか、逃げだす方法がなかったのなら」


 僕は残りのアイスコーヒーを飲み干すと、それをカウンターの上に戻した。それから、財布から釣りがないようぴったりの金額で小銭を取り出し、カップの隣に置いた。


「ごちそうさま。この様子なら、しばらく夕立ちがくるまでは時間がありそうだ。いまのうちに、早めに退散することにするよ」


「ありがとうございました。また、お待ちしています」


 僕は席をたって、扉に向かって歩き始めた。すると、後ろから「お客さん」とマスターに呼び止められた。僕が振り向くと、なんだか彼は困ったような顔をしていた。


「体の調子はどうですか? 気分が悪かったりはいたしませんか?」


「すこぶるいいよ。気遣ってくれてありがとう」


 マスターはまだ何か言いたそうにしていたが、それ以上を口にすることはしなかった。扉を押しあけると、むっとした空気が肌を不快になでて、僕は思わず顔をしかめた。


 雨のにおいがする。やはり、後で一雨くるのだろう。


 僕は窓から店の中をのぞきこんだ。ちょうどマスターが、僕がのんでいた真鍮カップを流しに下げるところだった。慣れた手つきで片付ける彼から視線をそらし、僕は店の奥―――壁に掛けられた鏡を見た。


 鏡から、黒い影が僕の方をみていた。


 輪郭のはっきりしない人影のようなそれはゆらゆらと揺れていて、目と口のような穴がぽっかりと開いている。そいつは、膨れ上がったり小さくなったりしながら、嘆き悲しむみたいに口に見える穴をわななかせていた。


『カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、カエセ、――――カラダヲカエセ』


「返さないよ」


 影を見据えて、僕は切り捨てた。


「この身体は、僕のものだ」


 汗でシャツに滲み、身体に不快に張り付く。まるで無数の手に絡みつかれているような心地がして、僕はひどく気分が悪くなった。仕方なく羽織っていたシャツを脱いでくるりと丸めて鞄に詰め込むと、僕は通りに向かって足を踏み出した。

 



 遠い空のどこかで、雷鳴が鳴り響いた気がした。







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