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前編




 はい、どうぞ。お待たせいたしました。


 こんな蒸し風呂みたいにむっとする夕暮れは、そのうちざざっと雷神様が雨を降らしていくもんです。そういう日には、あらかじめ空調の利いた場所に逃げ込んどいて、冷やっこいアイスコーヒーでも飲みながら時間をつぶすのが一番いい。そう、お客さんみたいにね。


 ここですか? 先代から店を引き継ぎましたんで、もうかれこれ40年ほど続いています。私が店をもらったのは2年ばかり前でしてね。この店の歴史に比べたら、私なんかはまだまだひよっこですよ。


 と言いましても、存外、この仕事は私に合っていまして。いろんなお客さんとお話するのは非常に楽しい。つぶれた遊園地の裏なんて妙な場所にあるからでしょうか。中には私が経験したこともないような、奇妙な話を教えてくれるお客さんもいましてね。


 ただ、怪奇話なんてのはどうにも好きになりません。ああしたらこう、こうしたからああみないな答えもなしに、唐突に終わったりするでしょう。丁寧に豆を挽いて、さあこれからだって時に客に帰られちまったような、置いてけぼりをくった心地がしてしまう。


 お客さんは興味がおありですか。物好きな人もいるもんですなあ。




    *   *   *




 あの日も、ひどい夕立が降りましてね。


 当時はまだ店をもらう前だったんですが、先代が近所に届け物があるっていうんで、私ひとりで店番をしておりました。けれどもバケツをひっくり返したみたいなお天気の中、わざわざ来るような客がいるはずもありません。ただただ、ぼおっと外を眺めておりました。


 しばらくそうして過ごしていると、ふと窓の外に人影が浮かび、からんと鐘の音を響かせてお客が入ってきました。


 男を見た途端、私は思わず立ち上がりました。彼の姿は、それほどにひどい様相をしていたのです。


 全身ずぶぬれなのは言わずもがな、男は手も足も何遍も転んだみたいに泥だらけで、あちこち血がにじんでおりました。それなのに男は何一つ気にした風もなく、ぎょろりと大きな目で私を見ました。


「な、なあ。兄さん、俺が見えるかい? 俺の声が、聞こえているかい?」


 おずおずと怯えた顔で、妙なことを口走るものです。これはやっかいな客だと思いつつ、びしょ濡れで怪我までしている男を放り出すわけにもいきません。仕方がないので、私は奥から大きなタオルを取り出して、男の髪をぐしゃぐしゃと拭いてやりました。


「見えているかって? なに馬鹿なこと言ってやがる。こんなひどい有様で目の前に立たれて、どうやって見えない振りしろっていうんだ」


 すると、男の顔はみるみるうちに血の気がよくなり、こらえようのない喜びが湧き出ているのがわかりました。そうして男は、興奮して叫びはじめました。


「すると俺は、本当に外に出られたんだ。やった、やったあ!」


 やった、やったと男が何度も騒ぐもんで、ちゃんと身体を拭いてやることもできない。とりあえず落ち着かせようとコーヒーを淹れてやると、今度は「うまい、うまいなあ」とむせび泣くものですから手に負えません。


しばらくたってようやく大人しくなった男は、テーブルに肘なんざついてくつろぎながら、奇妙な話をしはじめました。そうそう、ちょうどお客さんが座っているのと同じ席でした。


「兄さんよう。信じられないかもしれねえが、俺はね、ついさっき鏡の中から逃げ出してきたんだよ」


「鏡だって? 鏡ってのは、前に立つと何でも左右反対に映し出す、あれのことかい」


「そうだよ、その鏡だよ。ほらよ、そこにも掛かっているじゃないか。俺はね、もうずっと前から、鏡の中にあるあっち側の世界に囚われていたのさ」


 余談ではありますが、鏡というのは無くては不便ですが、あったらあったで薄気味悪い代物ではありませんか。よく言いますでしょう。丑三つ時にのぞくと霊が出るとか、合わせ鏡の向こうに自分の死に顔が映るとか。そうでなくとも、誰もいない店で一人作業していると壁にかかった鏡から誰からがこちらを見ているような気がしてきて、ぞっと背筋が寒くなる。


 話を戻しましょう。この喫茶店の裏にね、何年も前につぶれた遊園地があります。正確に言えば遊園地の裏にこの喫茶店があるんでしょうが、そんなのはどちらでもかまいません。あの遊園地には、昔から妙な噂がたくさんありましてね。オーナーが手放した後も貰い手が見つからず放ったらかしとなっているのですが、オカルト好きな連中がちょくちょく忍び込んだりするんだそうで。


男は、あそこにあるミラーハウスから逃げ出してきたと話しました。


「俺がミラーハウスに入ったのもね、ちょっとした悪戯心だったんだ。あそこはね、昔から入った人間に憑りつく霊がいるって有名なんだぜ」


「霊だって? はは、ばかばかしい。今時、雑誌やテレビだって心霊特集など組みませんよ」


「夢がないねえ。けどよ。こんなに近くに店があるんなら、あんただって聞いたことぐらいあるだろう? ミラーハウスに入ったあと、別人みたいに人が変わっちまったって話をさ」


 まさに男の言う通りでしたので、私は黙りこくるしかありません。確かに、ミラーハウスに入った後で、少しばかり変わった様子を見せるお客がいるというのは、噂に聞いたことがございました。


 穏やかで笑顔が絶えなかったご婦人が、急に怒りっぽくて神経質になる。

 陰気でふさぎこみがちだった青年が、ころっと陽気に明るくなる。

 元気に外を走り回っていた子供が、部屋の隅でじっと膝を抱えているようになる。


 周囲の人々は首を傾げて、同じ台詞を口にしたそうです。

まるで、別人になってしまったみたいだって。


 けれども、そういうのは長く続かなくて、大抵2・3日もすれば元の人に戻る。決まってミラーハウスに入ったあたりから記憶があやしくなって、人が違っちまった数日分に関しちゃ何も覚えてやしない。ね、変な話でしょう。


 さて、噂を聞きつけた男は、ひとり裏の遊園地に忍び込むことにいたしました。


 どうして、そんなことをしたんだって? さあ。興味本位かもしれませんし、案外、作家だかルポライターだかそういう職業をしていたのかもしれません。


 人目を避けて夜半に遊園地に忍び込んだ男は、誰とも出くわすことなく、問題のミラーハウスにたどり着きました。荒れ放題でほったらかしにしていたためでしょう。鍵はとっくに錆びついていて、おまけに誰かに壊された後です。中に入るのに全く苦労しなかったと、男は話していました。


「ようやく噂の場所にこれたんだ。武者震いみたいなのが身体を駆け巡ってね。懐中電灯の明かりをつけると、白い光を手にした顔色の悪い男が何人も暗がりの中に浮かび上がった。当然、俺だよ。さすがの俺も、ちっとはびびっていたんだな」


 小さな部屋であるのに、向かい合わせに並べられたいくつもの鏡のせいで、男は自分が無限の広がりの中にいるような錯覚を覚えたそうです。鏡の奥にまた一人、そのまた奥にまた一人、鏡の数だけ男の姿もあって、皆が皆、同じように青ざめた顔をしておりました。


 男も、何も一晩そこで過ごそうと考えてきたわけではありません。用意してきたビデオカメラを設置し回し始めると、明け方にもう一度カメラを回収しに訪れるつもりで、その場を離れようとしました。


 その時、男の背後を、何か黒いものが駆け抜けていきました。


「誰だ! 俺は、思わず叫んだよ。けれど、何もいるわけがないんだ。足音なんてしないし、第一、四方を鏡で囲まれた部屋で隠れられるわけがない。そう頭ではわかっているのに、俺は否定することができなかった。鏡の向こうに、奴はいた。鏡の奥の奥、そのまた奥の暗がりから、あいつはじっと俺のことを見ていやがったんだ」


 ぞっとした男は、逃げようと足を踏み出しました。しかし次の瞬間、彼の背中を何かがとんと押した。よろけてしまった男は、懐中電灯を落とし、鏡に手をつきました。床におちた懐中電灯は、白い光を放ちながらころころと転がっていったそうです。


「なんとか転ばずには済んだが、こうしちゃいられない。慌てて俺は、懐中電灯に手を伸ばした。けれど、駄目なんだ。すぐそこに見えているっていうのに、どんなに手を伸ばしたって、俺はそいつに触れることができない。その時、気づいたよ。俺は、鏡の中に閉じ込められたんだ」


「それで、あんたはどうしたんだい?」


「どう? どうしようもあるもんか! 叫んでもわめいても、走りまわってあちこちを殴っても、俺は無限に広がる鏡の中にいるだけだ。そのうち、何かが懐中電灯に手を伸ばして、それを拾って出て行っちまった。最後に振り返った奴の顔をみて、俺は血の気が引いたよ。奴の顔は、間違いなく俺だった」


 何かに憑かれたように一気にまくし立てた男は、グラスをひっつかんでごくごくと水を飲み干しました。それで少し気が収まったのか、口元を袖で拭いながら、へへっと締まらない笑いを漏らします。


「いけねえ、いけねえ。せっかく外に出てこれたんだから、怯えてちゃあしょうがないな。そうだよ。俺はようやく自由に……」


 と、そこで男は変な顔をして振り返り、そこの鏡がかかっている壁のあたりを見ました。


「兄さん。この店には、俺たち以外に誰かいるのかい? たとえば、そこのトイレの中に誰かがいるとか」


「いいや。私とお前さんしか、ここにはいないよ」


「ふうん」


 なんだか釈然としない顔をしながらも、男はそれ以上を訊ねようとはしませんでした。そんなことよりも、自分に起きた奇妙な体験を語ることの方に、彼は集中したかったようです。


「それで、鏡の中に閉じ込められたってのが本当だとして、どうしてお前さんは私の前にいるんだい」


「そう急かすなよ。いいか。俺はそれからというものの、鏡の中をずっと彷徨っていた。本当のところ、俺もどれだけの期間、向こうにいたのかわからない。途方もなく長かった気もするし、ほんの数時間だったような気もする。それぐらい、あっちの世界はめちゃくちゃだった。右と左どころか、上と下、前と後ろ、朝と夜、何もかもが入れ替わって、うねうねと動きやがる。そのくせ、あちこちに窓みたいなものがあって、こっちの世界を映し出すんだ。あんな場所にいて、気が狂わなかったは奇跡だと思うよ」


 鏡から鏡を渡り歩き、途方もなく広がる奇妙な世界をさまよい歩いた男は、ある時、のぞいた窓の向こうに見慣れた景色があることに気が付きました。


「それは忘れもしない、ミラーハウスの部屋の中だった。昔と違ったのは、そこには若い男がいて、部屋の中をあちこち調べてまわっているんだ。なるほど、どうやら俺みたいに、噂につられて来やがったな。そう思って見ていると、鏡に触れて何かを確かめていた男が、次の瞬間、こっちの世界に入ってきやがった。俺は、歓喜に震え上がったね。どれだけ調べてもわからなかった出口が、そこに開いているのがわかったんだ。俺は飛び出してって男を突き飛ばすと、死に物狂いで外に飛び出したんだ。その足で、俺はこの店にたどり着いたんだよ」


 そういって、彼はにやりと笑ってみせました。


 彼の話を信じたのかですって? 実を言いますと、これっぽっちも信じておりませんでした。嘘をついたとまでは思いません。ただ、酔っぱらったか頭を打ったかで、変な夢をみてしまったのだろうと思ったのです。


 ただ、あんまり男が晴れ晴れとしてみせるもんですから、なんだか情が沸きましてね。御代はもらわずに、おごってやることにしました。男は非常に喜びまして、「また必ず来る」と約束して、雨が上がると同時に帰っていきました。


 ですが、しばらくの間、男は店に現れませんでした。

 そのうち、私も彼のことを忘れていたのです。




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