第8話
食欲は旺盛。
血圧普通、顔色普通、体力普通、時々起こる腹痛は普通じゃない。
尋常じゃないほどの耐え難い痛み。
「11先生、こんにちは。今もらっているのより強い痛み止めください」
星凌大総合病院。
診察室の患者用椅子に座ってすぐ、目の前に座る自分の主治医に沙耶はそう訴えた。
相手は大きく溜息を吐いてこう返した。
「あげられないよ」
ケチ。とは絶対に言わない。
自分に非があるのを十分知っているから。
そしていつもの説教が始まった。
「沙耶ちゃん、君は病人なんだ。1日も早く入院して手術をする必要がある。癌は若い人ほど早く進行する怖い病気なんだ。腹痛が強くなっているのはその証拠、僕が言っている事が分かるよね?」
「入院は11月20日にします」
「どうして11月20日なの? どうしてその日にこだわるの? 急がないと手遅れになる、何度もそう教えたよね?」
癌告知されてから1ヶ月が経つ。
学校が終わった後、定期的に検査のため病院を訪れるたび、毎度同じ説教を聞かされる。
沙耶が11月20日にこだわる理由はただ一つ。病気を駿に知られたくないから。彼が海外留学に旅立った後で入院すると決めた。
すっかり黙り込んだ沙耶に、もう一度大きく溜息を吐いて、久遠が言う。
「今出している痛み止めは十分強い薬で、それ以上強い薬を飲むと、体はダメージを受ける。だから出す事はできないんだ」
「分かりました」
「沙耶ちゃん。入院の準備はできているから、気が変わったらいつでも病院に来て入院して。すぐに手術できるようにチームも組んで待機してあるから」
そんな言葉を寄越される。
随分な周到ぶり。
そして沙耶を見ながらこう続けた。
「君になにかあったら、僕は崇に末代まで祟られる。君のお父さんは根に持つタイプなんだ」
主治医の天才医師の弱点は、同じ大学で友人だった、離婚した沙耶の父親らしい。
「君のお母さんと連絡を取りたいんだけど、電話が全く通じない。先日病院から電話をかけて、繋がらなくて5分間隔で電話してたら、不審電話と思われたのかそれ以降通じなくなった。君の病状の件で話がしたいから、電話が繋がるように、もしくは病院の方に連絡をくれるよう、お母さんに伝えておいて」
診察が終わって部屋を出る間際、主治医にそう言われた。
診察室を出てから、沙耶は廊下の長椅子にゆっくり座った。
交渉は決裂。
結局、望む痛み止めは出してもらえなかった。腹痛は今のところ自宅で1人でいる時にだけ起こっている。日を追うごとに強くなる痛み。
入院する日まであの激痛に耐えられるかな……。
そんな事をぼんやりと考えていたその時、
「水崎さん?」
ふいに呼ばれて顔を上げると、生徒会長の蘭堂先輩が傍に立っていた。
私服姿を初めて見た。
ごく普通のラフな服。カッコイイ人はなにを着てもカッコイイ。
「蘭堂先輩、どうしてここにいるんですか?」
「ここは僕の父が運営している病院なんだ。僕は長男だから、将来後継の勉強を兼ねて時々ここに来てるんだ」
「ぇ…………ココ? この病院ですか? この凄くでっかいこの病院? ここは蘭堂先輩のお父さんの病院!? えええええっ!!?」
「そうだよ」
さらりと肯定の返事が返る。
立派な建物の大きな大きなこの病院、蘭堂先輩は星凌大総合病院のご子息様だった。
驚きまくってる沙耶の隣にゆっくり座り、優しい声音で蘭堂が訊ねる。
「水崎さんは、どうして病院に来たの?」
その一言に沙耶はハッと我に返る。
とっさに口から出た言葉が、
「生理痛がひどくて薬をもらいに……」
「え? この階は外科と整形外科だけだよ?」
そして墓穴を掘る。
後の祭り。
黙り込んでしまった沙耶を、不審に思った蘭堂が言葉をかける。
「水崎さん?」
「……誰にも言わないでください。今日私が病院に来た事、絶対に誰にも言わないでください。お願いします」
早口で一気にそう言った後、逃げるようにして沙耶はその場を離れた。
長椅子に1人取り残された蘭堂。
あまりにも不自然な彼女のその行動に、違和感を覚える。
廊下に表示されている『外科』の文字を数秒見つめた後、立ち上がり、すぐ傍の診察室の扉をノックした。
中から返事はない。
静かに扉を開けて中に入ると、机上のボードに掛かる数枚のレントゲン写真を、1人の医師が椅子に座ったままじっと見つめていた。
背後からその写真を見ると、水崎沙耶の患者名が記されていた。
「……すい臓の周囲に腫瘍が見られる。すい臓癌、なんですか?」
「うわあっ! だ、誰っ……て、和樹君じゃないか。驚かせないでくれよ、あー心臓止まるかと思った」
背後から突然声をかけられ、驚いて振り向くと、そこには現院長のご子息で、将来この病院の院長になるであろう少年の姿。
椅子からズレ落ちそうになっている久遠に構わず、写真を見ながら蘭堂が続ける。
「腫瘍が大きくなっている……進行性癌?」
「ああダメダメ! 勝手に患者さんの個人情報を見たりしちゃっ。レントゲン写真の診断なんて、一体誰に教わったんだい? 君はまだ高校生でしょ」
「彼女は、水崎沙耶さんはすい臓癌なんですか?」
ボードから慌てて写真を取り外していた久遠の、手が止まる。
振り向いた医師に蘭堂が言う。
「彼女は同じ高校で僕の友人です」
「そう……」
「レントゲン写真の日付が1ヶ月前と今日……まさか、彼女は1ヶ月も通院しているんですか!? 久遠先生、なぜすぐに入院させて外科的切除を行わないんですか?」
それは写真を見て知れば、誰もが思うだろう率直な疑問。
癌患者でそれも進行性癌なら、早急に対処しなければ手遅れになる……命を失う。誰でも知っている常識。
真剣な表情で問う目の前の少年に、しばし沈黙した後、久遠は大きく溜息を吐いた後言った。
「主治医の言う事を全く聞いてくれない、困った患者なんだ」




