第7話
星凌大総合病院。
診察室に入って、沙耶が1人で患者用椅子に座ると、久遠はキョトンとした顔を見せた。
にっこり笑って挨拶する。
「11先生、こんにちは」
「沙耶ちゃん……1人?」
「はい」
沙耶のその返事に、キョトンとした顔は難しい顔に変わる。
その表情のままで久遠が言う。
「検査結果が出たから今日はお母さんが来てね、そう伝えたよね?」
「お母さんは仕事が忙しくて来れないので、私が代理です」
「それじゃあ、近日中のお母さんの都合の良い日に改めて日にちを設定して、検査結果はその時にお話しします」
「先生、私もう高校生です。自分の事は自分で判断できます。保護者は必要ないです」
「沙耶ちゃん」
「検査結果を伝えるのが、どうして患者本人でなく保護者なんですか? 私はなにの病気ですか?」
身を乗り出すようにして沙耶が問う。
3日前に病院から電話があり、検査結果の件で話があるから、病院に保護者が来るようにと言われた。
患者本人ではなく保護者になんておかしな話。
そして考える。
患者本人には伝えたくない病気。それは一体なに?
「教えてください、先生」
真剣な目で相手にそう訴える。
沙耶の懇願にしばし沈黙した後、久遠は重い口を開いた。
病名、すい臓癌。
すい臓は臓器に囲まれていて病巣が見つかりにくく、初期症状が少ない発見されにくい癌。
進行性癌のため、早急に入院して手術を行う必要がある。入院は早ければ早い方がいい、今日でも明日でも明後日でも。
……そう言われた。
病院を出て、沙耶は重い足取りで自宅に歩きながら考える。
癌。
すい臓がん。
進行性癌。
私は癌になってしまった。
どうしよう。
「駿になんて言おう……」
病院で検査した事も症状の事も伝えていない、まだ知られていない。
癌だと知ったら駿はなんて言うだろう。
嫌われたらどうしよう……。
これ以上隠し通せるはずはない。
すぐに入院して手術するのだから、否応なくバレる。
そんな事を考えているうちに、あっという間に自宅に着いてしまった。
制服のスカートのポケットから鍵を出し、玄関の扉を開ける。
と、いつもそこにあるはずの男物の靴が今日はない。キッチンから美味しい料理の匂いもしない。
シンと静まり返った我が家。沙耶の王子様の姿がない。
腕時計を見ると5時半。
「……駿?」
玄関を出て沙耶はすぐ隣の家に向かう。
大きくもなく小さくもなく、純和風の一軒家が駿の自宅。
沙耶と駿は互いの家の合い鍵を持っている。
鍵を使い玄関を開けると、きちんと揃えて置かれた男物の靴があった。家の中は静まり物音は聞こえない。
沙耶は家の中に入り、階段を上り2階の駿の部屋に行く。
ここに来るのは中学以来だ。
いつも駿が家に来てくれるし、特に用事もないから来る必要がない。
駿の部屋の本棚には、薬学辞典や医学書や難しい本ばかり並び、見てるだけで頭痛がするというのも敬遠の一つ。
部屋の扉をそっと開けると、綺麗に整理整頓された部屋の中、奥のベッドの上に私服に着替えた駿の姿があった。
静かな寝息が聞こえる。
寝てる……昼寝なんて超珍しい。
壁側に顔を向けているため、残念ながら王子の寝顔を見る事ができない。
ふと枕元に開いて置かれたパンフレットに目が止まる。そこに書かれている『留学』の文字。
…………留学?
何気なく視線を勉強机の上に移すと、いくつかの書類が重なるように置かれていた。そこには『海外留学制度』と書かれた文字。
頭の中に思い出す。
自分達が通っている高校では毎年、成績優秀者の中から選ばれた1名が、海外留学できる制度がある。期間は4ヶ月、渡航費や現地滞在費含め全額無償。通常は3年の生徒の中から選ばれるが、昨年は2年生だった蘭堂先輩が選ばれた。今年は1年生の駿が選ばれたという事だろうか。
バクバクと心臓が鳴る。
震える手で書類に触れようとしたその時、机の片隅に、見覚えのある小箱があるのに気付く。
沙耶が先日母親にプレゼントした箱だ。
そっと手に取り、蓋を開けると中にハートのペンダントが入っていた。
「……」
なんで……これがここにあるんだろう?
なんで……駿が持っているんだろう?
小箱を手に持ち、沙耶は逃げるようにして部屋を出た。
自宅に戻って2階の自分の部屋に入ると、沙耶の目から1粒2粒と涙が落ち、ベッドに顔を伏せてそのまま泣き崩れた。
なにが悲しいのかよく分からない。
自分の病気のことか。
海外留学で離れてしまう駿のことか。
母親にあげたはずのハートのペンダントのことか。
あるいはそれら全部か。
ポロポロと涙は止まることなく落ち、沙耶は一人泣き続けた。
こんなに泣いたのは初めて。
両親が離婚した時も、幼い頃一人で寂しく家で過ごした時も、ポロリと涙を落とした事はあったが、これほどまでに泣いた事はない。
大声で泣きじゃくるほど子供じゃない。
だけどすべてを簡単に受け入れるほどの大人でもない。
そうしてしばらく泣いた後。
顔を上げて涙を拭い、沙耶はゆっくり立ち上がった。
バタンっ!!
派手に大きな音をさせ玄関の扉が開く音がして、次にバタバタという大きな足音が聞こえ、キッチンに辿り着くなりその人物は言った。
「沙耶ごめんっ! 気付いたら俺、昼寝してた。今から速攻で食事作る……」
「ごはんできてるよ~」
エプロン姿の沙耶がそう言い、盛り付けた最後の皿をテーブルの上に置いた。
本日の夕食のメニューは、ごはん、あさりの味噌汁、焼き魚、きんぴらごぼう、かぼちゃの煮物、筑前煮、卵焼き、それからデザートの抹茶プリン。
駿がビックリ顔で言う。
「なにコレ……凄ぇ、お前が作ったの?」
「ううん、全部レトルト。でも明日からは手作りするね」
「は? 明日からって?」
「いただきます。駿も召し上がれ~」
椅子に座り、食事の挨拶をしてから沙耶が早速食べ始める。
駿も向かいの席に座り一緒に食べ始める。
時刻は7時半。いつもより遅い2人の夕食。
味噌汁を飲みながら駿が訊く。
「明日から手作りするってどういう事だよ?」
「駿が海外留学から帰って来るまでに、私が飢えて餓死しないように、明日から少しづつ料理作って覚える事にした」
あっけらかんと沙耶がそう答えると、駿の箸が止まる。
顔を上げて、なんで知ってるんだ、という表情の彼に、私はなんでも知ってるぞとばかりに沙耶が言う。
「私に隠し事は通用しない」
「沙耶……それ」
「ん?」
そう言って駿が見つめる視線の先には、沙耶が首にかけているハートのペンダント。
ちらりとペンダントを見てから、
「さっき駿の部屋に行って見つけた。このペンダント、お母さんに返されたの? せっかく買ってあげたのに。でもこれ、お母さんより私のほうが似合う。そう思わない?」
「……」
小さく笑いながらそう話す沙耶に、言葉が見つけられずにいる駿を見て、これが母に返されたものだと確信する。
悲しい気持ちを顔に出さないように、卵焼きを大きく一口食べてから、話題を変えようと沙耶は留学の話をする。
「海外留学の出発はいつなの?」
「11月20日……まだ返事はしてない」
「え、なんで?」
学校推薦の名誉ある海外留学を、断る理由なんてどこにもないはず。
向かいの席に座る、見目麗しい我が王子の顔をじっと見て、
「たった4ヶ月」
自分自身に言い聞かせるかのように。
行かないで、なんて絶対に言わない。
「学校から選ばれた1名の海外留学なんて、物凄く名誉な事だよ。将来就職する時には有利な肩書きになる。駿が目指す夢に近づける」
駿の将来の夢は薬剤を開発する研究者。
その夢を私は応援する。
自分の大切な人は、なぜか意図せず離れて行ってしまう。
父親、母親、そして駿。
だけど駿は違う。
ずっとじゃない、4ヶ月後にはこうしてまた毎日会えるから。
いつまでも寂しがり屋の泣き虫少女じゃいられない。
「迷う必要ないと思う。期間は4ヶ月間でしょ、4ヶ月なんてあっという間だよ?」
「……そうだな」
エールを送るように沙耶が言うと、ずっと黙って食事してた駿はそう答えた。
ご機嫌でも不機嫌でもない表情の彼。
沙耶はかぼちゃの煮物をパクリと食べて、
「今までずっと駿に料理を作ってもらってきたから、今度は私が駿に作る番。明日から作る私の手料理、楽しみにしててね!」
にっこり笑顔でそう言うと、駿は頷いて綺麗な微笑を返した。
その夜。
沙耶は母親に電話をして、自分の病気の事を伝えた。
母から返ってきた言葉はひと言、
そう。
たったそれだけ。
『病院の支払いはクレジットカードでしてちょうだい』
「お母さん……病気になってごめんなさい」
『仕事があるから、電話を切るから』
呆気なく電話が切られた。
母との通話時間はわずか2分。
「でもね私……なりたくて病気になったんじゃない」
切れたスマホの画面に向かい、沙耶はポツリそう言った。
駿には病気の事は知らせない事にした。知れば心配の1つもするだろう。
海外留学前に余計な気遣いはさせたくない。
出発は2ヶ月後。
彼が旅立った後で自分は入院すればいい。
待っているのは決して絶望の旋律じゃない。
* * *
翌日の夕方。
沙耶が初めて作る手料理第1日目。
自分で作る事に強いこだわりを見せる彼女に、駿は一切手伝う事をせず見守るだけにした。
エプロン姿の沙耶が真剣な目で見ているのは、ピーラーで皮をむいた大根1本。その大根をキッチンのまな板の上に置き、危ない手つきで包丁で切っていく。
彼女は一体なにを作ろうと考えているのか。
まな板の上には大根のみ。キッチンにそれ以外の食材は見当たらない。
1時間後。
大小様々な形に雑切りした大根をお湯で煮ただけ、それをポン酢で食べるという、前代未聞の斬新メニューが完成。
大皿の上に山に盛られた茹で大根を見て、駿は絶句。
「明日はこれのにんじんバージョンを作るよ!」
高らかに沙耶が言った。




