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第3話

 9月3日、日曜日。沙耶の母親の誕生日。

 その日は朝から沙耶は多忙だった。

 リビングに全身鏡をズルズルと引っ張ってきて、ハンガーにかかる2つの洋服を持ち、キッチンの奥にいる相手に声をかける。


「ねぇ、どっちの服を着て行ったらいいと思う?」


 キッチンのカウンター越しに顔を出した彼は、相手を見て呆れたように言う。


「お前、俺が男だということを忘れてるだろ?」


 それもそのはず。

 沙耶の今の格好は、ブラジャーとパンティだけの下着姿。


「忘れてないよ。で、どっち?」


 手に持つ服は、1つは淡いピンク色のフェミニン系ワンピース。

 もう1つは上が白色のカッットソーに、下は緑色のミニ丈プリーツスカート。

 駿が選んだのはワンピースのほう。

 両手に持つ2つの服を見比べて、首を傾げた後、沙耶はプリーツスカートの服のほうを着だした。


「……俺の意見を反映しないなら訊くな」

「だってプリーツの方が可愛いし、お母さんはこっちの服の方が喜ぶと思う」


 その場で急いで着替えて、全身鏡でチェックした後、肩まで伸びた髪を緑色のリボンでポニーテールに結ぶ。

 沙耶の表情はにこやかで、全身から嬉しさが溢れている。

 その姿を見ながら駿が言う。


「嬉しそうだな。会うのが楽しみか?」

「うん。すごく楽しみ」

「そうか」

「ヘンな奴って思ってるでしょ? 自分の母親に会うのに、はしゃいで大喜びしてって」

「いや。沙耶の母親は、忙しい仕事でなかなか家に帰れないから。理解してる」


 そう返してみたが、帰らないのは仕事が忙しいだけだろうか、とも考える。

 1年に2日しか会えないのは……あまりに忙しすぎる。

 考え過ぎだろうと、払拭するように駿は沙耶に声をかけた。


「弁当用のおかず、作ったぞ」

「ありがと! わっ、もう10時だ、急がないと遅くなる」


 いつもプレゼントと一緒にお弁当も渡している。

 駿に作ってもらったお弁当用のおかずを、彩りを考えながらお弁当箱に丁寧に入れていく。

 そしてフルーツケースに、皮をむいて食べやすくカットしたフルーツ数種類と、うさぎの形のりんごを入れて、完成。

 キッチンのイスに座って、作業を見ていた駿が唐突に言う。


「なぁ……俺も一緒に行ったらダメか?」

「えっ? いいけど……でもなんで?」

「沙耶の母親の職場は、日本を代表する製薬会社リトマだろ、あのリトマだぞっ!? 研究職を目指してる人間なら誰でも憧れる神存在の会社だ! 一度会社の中を見てみたいとずっと思ってた」


 拳を握りしめ珍しく興奮気味に話す彼に、キョトンとした後、不思議そうに沙耶が言う。


「ただの箱の建物だよ? アトラクションもないし着ぐるみもいないし、ポップコーンも売ってない」

「いいのか? いいんだな!? じゃあ、早く行こう!」

「パレードも花火もないよ?」


 お互いの家を戸締りして、そうして2人はすぐに家を出た。


 * * *


 沙耶の家から電車で約40分の場所に、沙耶の母親の職場がある。

 電車の窓に映る自分の髪や服装をチェックしてる沙耶に、隣に座る駿が話しかける。


「誕生日プレゼントなに買ったんだ?」 

「ペンダント。ペンダントだと仕事してる時もつけていられるし、邪魔にならないと思ったから」


 そう言って、沙耶がカバンの中から取り出して見せたのは掌サイズの小箱で、駿が思わずひと言。


「小さっ」

「贈り物用の可愛い箱が店にこのサイズしかなかったの! 綺麗にラッピングしてるし、中身もちゃんとした商品だよ!」

「分かった、悪かった」


 頬を膨らませて怒る沙耶に、謝ってから、持っていたグミのワイロを渡して機嫌を取る。

 自分の掌の上に置いた小箱を見ながら沙耶が言う。


「昨日10軒の店をはしごして、すごく悩んで迷って、お母さんに一番似合うと思ったハートのペンダントを買ったの」


 1ヶ月間バイトをして、貰ったバイト代は決して多くはない。

 その予算内で選んで買ったペンダント。


「お母さん……喜ぶかな?」

「喜ぶだろ」

「だといいな」

「自分の子供にプレゼント貰って、喜ばない親なんていないだろ」


 駿の言葉に笑顔で頷き、大事に小箱をバッグにしまう。

 沙耶がどれほど母親を大切に思っているかが伝わる。


 40分後。

 目的地の駅に到着して2人が電車を降りる。

 駅から6分程歩くと、郊外に大きくそびえたつ建物が見えた。


 製薬会社リトマ。

 日本を代表するトップ製薬会社。

 手前に手入れされた綺麗な芝生が広がり、奥に建物が幾つか建ち並ぶ。

 研究棟と工場施設に分かれていて、建物同士が渡り廊下で繋がれて、行き来できる構造だ。

 建物の広い入り口を入り、沙耶は迷うことなく真っ直ぐ前へ進む。

 受付カウンターで話して母親との取次ぎを頼んだ後、駿と2人でエレベーターに乗る。


 建物内はどこも静音に包まれていた。

 ここは外部と空気が違う。

 澄んだ空気、と表現しても過言ではない。空気調和設備で温度・湿度・空気清浄度・循環・換気など、調整管理されているのだろう。

 大きな建物、高い天井、広い通路、最新機械設備、随所に監視カメラが設置。

 この会社には日本国内だけでなく世界各国から、名立たる科学者や研究者達が出入りするため、セキュリティレベルが高いと推測できる。

 広いエレベーター内で、スケルトンの天井板を見つめたままの彼を、不審に思い沙耶が声をかける。 


「駿?」

「俺、今感動してたところ。この会社……色々スゲー」

「私には冷たい大きな建物にしか見えない」


 興奮気味に答えた彼とは対照的に、沙耶はポツリそう言った。

 目的の5階に到着してエレベーターの扉が開く。

 下りてすぐ、駿は立ち止まり沙耶に言った。 


「俺はここで待ってるから、行って来いよ」

「え? 一緒に行かないの?」

「親子の大切な時間をジャマしたくない。俺はこの辺散策してるから」


 そう言って、早く行けとばかりにヒラヒラと手を振る。

 ヘンな気遣いに沙耶はキョトンとして、まあいいやと1人で歩き出す。

 沙耶の姿が見えなくなってから、駿はゆっくりと歩き出す。


 広い通路を少し進むと、ガラス張りの研究室らしい部屋が見えた。

 駿の目がそこに釘付けになる。

 ドラマや映画で見るような部屋の中で、白衣を着た人達が仕事をしていた。

 顕微鏡を覗いたり、なにかを調合したり、パソコンに打ち込んだり、ノートに記録したり、社員はどの人も若い。

 この会社の平均年齢は33歳。

 頭の固い年寄りよりも、柔軟性と将来性ある若年層や女性を多く採用している。

 部屋の中には、カラフルなクッションや、キャラクターのついた筆記用具、マウスパッドがアニメだったり、随所で若さを象徴するモノが見られる。

 だが社員達の目は皆真剣そのもの。

 日本を代表するこの会社で、誰もが自信と誇りを持ち働いているのが伺える。


 製薬会社リトマ内でもここは、薬剤の研究と開発を担う研究棟。

 国立大卒の選ばれたエリート達だけが働いている。

 年収は入社1年目で1千万超。

 常に最新の機械設備が完備され、最新技術で未来を見据えた研究が日々行われている。

 未知の薬が多数開発され、過去に助からなかった命が、現在は治療完治できる実績を作り上げ続けている。


 駿の脳裏に3歳で死んだ弟の姿が浮かぶ。

 自分の力をここで発揮したい、新薬開発に貢献したい、今は救えない命を1人でも多く救いたい、叶うのならばここで働きたい。

 でも簡単に入社できる類の会社でない事も知っている。

 手の届かない雲の上の存在。

 現実を目の当たりにして、駿の心が大きく揺れる。


 * * *


 腕時計を見ると11時40分。

 突き当りの廊下を左に曲がり少し歩いた先、ロビーチェアが置かれた場所がいつもの待ち合わせ場所。

 白衣を着た女性が廊下の向こうからゆっくり歩いて来た。

 それを見つけて沙耶が駆け出す。


「お母さん!」


 5月の母の日以来の再会に沙耶の心が躍る。

 走り寄り、目の前の母に笑顔で話しかける。


「ごめんなさい、突然来て」


 長い髪を後ろで一つに束ねて、眼鏡の奥に見える目はいつも凛としている。

 感情を表に出さない無表情。面長で整った綺麗な顔。

 沙耶は母の顔が大好きだ。

 だが残念ながら沙耶は母親似ではないらしい。

 人気のない廊下のロビーチェアに2人で座り、母が娘に言う。


「今日はどうしたの?」

「あの……これ」


 まるで他人みたいなそんな台詞。

 持っていたバッグからプレゼントとお弁当箱を取り出して、母の前に差し出す。

 沙耶の心臓がドキドキしてる。


「今日はお母さんの誕生日だから。お誕生日おめでとう! これは私からのプレゼント、それからお弁当も、私が!」


 私が…………詰めました。

 作ったのは駿だけど、とは言わない。


「プレゼントが小さい箱でごめんなさい、だけど中身はちゃんとした商品だから。開けてみて?」


 お弁当と一緒に手渡した小箱。

 綺麗にラッピングされた小箱を開けると、ハートのペンダントが入っていた。


「買ってきたの?」

「うん。ペンダントだと仕事してる時もつけていられるし、邪魔にならないと思ったから。お母さんに似合うよ」

「今日が自分の誕生日という事を忘れていたわ。ありがとう」


 ありがとう。


 たったその一言が、沙耶には嬉しくて溜らない。

 母の綺麗な横顔を見ながら沙耶が言う。


「お母さん……あの、少し、話してもいい?」

「なに?」

「う、ん。あのね、会うの4ヶ月ぶりだね。元気そうだね! 相変わらず仕事は忙しいの? 夜はちゃんと睡眠時間確保できてる? 食事はちゃんと3食食べてるの? いつも社員食堂で食べてるの? 野菜ちゃんと食べてる? それから、エート……」


 沙耶の言葉が止まらない。

 嬉しくて恋しくて仕方ない。

 もっと話したい、もっとずっと、お母とさんと一緒にいたい。


「……崇に似てる」

「え?」


 唐突に寄越された母のそのセリフに、沙耶の言葉が止まる。

 たかしとは沙耶の父親の名。

 母はロビーチェアから立ち上がり、無表情のまま娘を見て言う。


「気をつけて帰りなさい。お弁当をありがとう、お昼休憩に頂くわ。駿君にお礼を言っておいてね。駿君の作る料理は健康を意識していて、塩分控えめでお野菜が多くて美味しくて、お母さん大好きよ」


 手に持つお弁当箱を軽く挙げて、そしてあっさり立ち去って行った。

 ロビーチェアに1人取り残された沙耶。

 親子の面会時間はわずか3分。


 ……崇に似てる。


 沙耶は本当は気付いていた。

 母は父似の自分を嫌っているという事を。

 家に帰らないのは嫌いな娘がいるから。母を捨てた父似の娘。

 だからずっと帰って来ない。

 それを気付かない振りして、今までやり過ごしてきた。

 唯一の肉親に嫌われたら、自分の居場所はもうどこにもない。


「お弁当……バレてた」


 ポツリ呟いて立ち上がる。


 * * *


 沙耶が廊下を歩いていると、正面から駿が近づいてきた。


「沙耶? あれ……おばさんは?」


 1人でいる沙耶を見て、周りを見ながら駿が問う。


「もう行っちゃった」

「行ったって……数分も経ってないだろ?」

「お母さんは仕事が忙しいから。でもプレゼントはすごく喜んでくれた!」


 笑顔でそう話す沙耶に、駿はスマホをポケットにしまいながら言う。


「母さんから今メール届いて、ついさっき、おばさんからウチに贈り物が届いたから直ぐにお礼を言ってくれって。俺ちょっと言いに行って来る」

「うん。そこの角を左に曲がった先に、ロビーチェアがあるからその周辺探して。私、下の入口で待ってる」

「分かった」


 沙耶が指し示した方向を見て、駿が返事を返す。

 言われた方向へ小走りで進んで行くと、チリ一つない綺麗に清掃された広い通路に、誰かが落としたらしいレシートが1つ落ちていた。

 なんとなく気になって手に取り、近くにあったゴミ箱にそれを入れる。

 と、ゴミ箱の中に見覚えのある包装紙と小箱が捨ててあった。

 何気なく箱を開けると、中にハートのペンダントが入っていた。

 駿の手が止まる。


「……」


 その小箱をズボンのポケットに入れて駆け出す。

 ロビーチェアが置かれた場所を通り過ぎて、真っ直ぐ進んだ先に1人の人物が見えた。

 渡り廊下の窓から外を眺めていたその女性は、走り寄る少年にすぐに気付いた。


「あら。駿君も来てたの」

「おばさん、お久しぶりです」

「何年ぶりに会うかしら? 随分大きくなったわね」


 駿が会釈をしたその時、女性が持つ社内用電話の呼び出し音が鳴る。

 電話に出て、すぐに行くと伝えて切った目の前の人物に、駿は敢えてこう言った。


「3分だけ話をさせてください」


 話す事がある。

 訊かなければいけない事がある。

 沙耶の母が首を縦に振ったのを見て、すぐに話し出す。


「母からメールが届いて、ついさっきおばさんからウチに贈り物が届きました。母の好きな甘味らしくとても喜んでいました。ありがとうございます」

「大したものじゃないわ。駿君のお母さんは京菓子が大好きって言っていたから、取り寄せたの。駿君のお母さんや駿君には、沙耶がいつもお世話になっているから」


 柔らかい口調で女性はそう答えたが、感情の見えない無表情のまま。

 それを気にする事なく、駿はズボンのポケットから小箱を出して、相手に見せて訊ねた。


「通路のゴミ箱の中にこれが入っていました。沙耶がおばさんにプレゼントしたペンダントですよね? 間違えて入れたんですか?」


 沙耶からの誕生日プレゼントの品。

 なぜそれがゴミ箱の中にあったのか。

 駿のその質問に寄越された答えは、


「いらないから捨てたの」

「……どうして」

「駿君、あの子に言っておいてくれないかしら。私のクレジットカードで無駄な買い物はしないでって」


 無表情のままで、眼鏡の奥の目が駿を見て、非情な言葉をさらり言う。

 ぐっと堪えて吐き出すように駿が話す。


「沙耶は……おばさんの誕生日プレゼントを買うために1ヶ月間バイトして、そうして貯めた自分の金で、これを買いました」

「バイトをする時間があったら勉強してもらいたいわ」


 まるで興味なさそうにそう言い、視線を窓の外へ向けて、そして独り言を呟くように言う。


「駿君、沙耶はどうしてあんなに頭が悪いのかしら。私は恥ずかしいわ」

「……」

「誰に似たのかしら……」


 なぜ今ここでそんな事を自分に話すのか。

 駿には分からない。


「駿君の成績はいつも上位で、とても優秀で羨ましいわ。この会社に入社したいなら、私が推薦してあげてもいいわよ?」

「……結構です」

「あら、どうして? 駿君は研究職志望でリトマ入社を切望してると、駿君のお母さんから聞いたけど?」

「俺がここに入社する時は……自分の実力で入ります」

「コネがないと100%入れないわよ?」


 駿を見て本気とも冗談とも取れる軽い口調で、そんなセリフを言う。

 社内用電話の呼び出し音が再び鳴った。


「そのペンダントは捨ててくれてもいいし、あの子に渡してもいいわ。お弁当をありがとう、駿君の作るお料理大好きよ。お昼休憩で頂くわ。それじゃあね」


 手に持つお弁当箱を軽く挙げて、そして沙耶の母は立ち去って行った。

 小箱を持ったまま駿が固く目を瞑る。


『ペンダントだと仕事してる時もつけていられるし、邪魔にならないと思ったから』

『昨日10軒の店をはしごして、すごく悩んで迷って、お母さんに一番似合うと思った、ハートのペンダントを買ったの』

『お母さん……喜ぶかな?』

『プレゼントすごく喜んでくれた!』


 * * *


 駿が下の入り口に戻ると、玄関の内側から外を眺めていた沙耶が、駿に気付いて声を掛けた。


「駿! 今そこにトンボいたんだよ、神様トンボ~」


 外を指さして無邪気にそう報告した、彼女の伸ばしたその手を握る。


「……駿?」

「帰ろう」


 初めて繋いだ手は、少し強引で少し痛いくらいの強さ。

 沙耶が隣の顔を見上げる。

 前を向いて歩きながら駿が言う。


「夕食はなにが食べたい? 沙耶が食べたい物を作ってやる」

「じゃあ、肉! 肉食べたい。駿が作る食事は健康を意識して魚料理が多いから、肉三昧したい。焼肉、焼き鳥、トンカツ、ステーキ、しゃぶしゃぶ、豚の角煮、肉団子、唐揚げ、ハンバーグ、ギョーザ、肉まん!」

「分かった。全部作ってやる」

「え……全部?」


 宣言通り。

 その日の夕食は、沙耶がリクエストした食べ物が全部テーブルに並んだ。

 食事の後、当分肉はいらないと駿に言った。


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