第12話
星凌大総合病院、外科診察室。
手術着に着替えて椅子に座る沙耶に、主治医で本日の手術の執刀医でもある久遠が言う。
「えっ、昨日の夜食事したの!? 手術の前日夜からご飯を食べちゃダメって言ったでしょ!」
「はい。だからパンを食べました」
沙耶のその答えに、久遠は手に持っていたペンを落とす。
拾い上げて手渡しながら沙耶は言葉を続けた。
「あとカツカレー食べました」
「……随分と高カロリーで重たい食事を。美味しかった?」
「はいっ!」
満面の笑みでそう話す彼女に、再びペンを落としそうになる。
椅子に座り直し、机の上で書類を書きながら久遠が訊く。
「沙耶ちゃんの手作りカレーなの?」
「いえ、えっと、隣の家に住む隣人さんの手作りカレーです」
「その隣人さんは今日、沙耶ちゃんの面会に来るかな? 先生は少し説教をしてやろうと思うんだけど」
「来ないです。隣人さんは今頃は空の上」
そう言いながら人差し指を上に向け、沙耶は少し寂しそうな顔を見せた。
駿が乗る飛行機の出発時刻は9時10分。
今はもう日本にいない。
「11先生、私、今朝はなにも食べてないです。だからお腹空いてます」
「さっきからグーグーお腹鳴ってるから分かるよ」
「私、成長期で昨日のカツカレーはもうとっくに消化しています。朝に病院から下剤渡されて、トイレにも何度も行きました。もう私のお腹の中は空っぽだから手術できますよ。レッツゴーゴーです」
そんな言葉を言い放つ我が患者に、色々と説教を施してやりたいが、残念ながら時間に余裕がない。
壁の時計は9時45分。
手術は10時開始、本当ならとっくに手術室に移動している時間。
時計を見ながら久遠が言う。
「沙耶ちゃんのお母さん遅いね」
「お母さんは仕事が忙しくて今日は来ません。先生、私は1人で大丈夫です」
「そういうわけにはいかない。今日は大事な1人娘の大切な手術日だ、君は未成年だし保護者が来るのは当然だよ」
横にいた女性看護師に、至急電話するように伝える。
沙耶の母親とはあれ以降電話連絡が全くつかない。病院にも1度も来ない。
手術同意書や入院の必要書類は、筆跡は全部沙耶のものだ。
「君のお母さんにも説教が必要だ」
久遠が溜息交じりにそう言った次の瞬間、
ガラリっ!!
乱暴に診察室の扉が大きく開かれた。
現れた人物を見て、沙耶の目が大きく見開かれる。
それもそのはず。
今は上空にいるはずの人。
「手術の話は本当だったんだ……」
走って来たのか、息を切らしながらそれだけ言うと、手術着の沙耶を見たまま黙り込んだ。
今朝窓から見たままの同じ服装。
一体どこで知ったのかと考え、前年の海外留学生が翌年の海外留学生を空港で見送りする、そんな慣例がある事を誰かが言ってたのを思い出す。
という事は、
「蘭堂先輩に聞いたの? 絶対に言わないでって、あれほど言ったのに」
沙耶の言葉に、相手からの返事はない。
室内にいた職員全員が、見知らぬ訪問者の彼を凝視している。
重たい空気を打破しようと、沙耶は立ち上がり自己紹介をはじめた。
「先生、この人は私の同級生で、私の隣の家に住む隣人さん。駿、こちらは私の主治医の11先生で、天才で無免許のブラック医師!」
「沙耶ちゃん。僕の紹介を色々と間違えていて、ツッコミどころ満載なんだけど」
沙耶の発言にすかさず久遠が異議を唱える。
駿はじっと沙耶を見たまま、微動だにしない。
その様子を主治医は黙って見ていた。
沙耶は久遠を向いて言った。
「……先生、5分だけ時間ください」
「3分だけあげるよ。僕はその間、君のお母さんに電話をかけまくるとしよう」
そう話すと、主治医と看護師達は隣の部屋に移った。
診察室の中には駿と沙耶の2人だけ。
沙耶が静かに呼びかける。
「駿」
「沙耶の病気に全然気付かなかった、少しも知らなかった」
「黙っててごめん、駿あのね……」
「俺のせいだ。俺が沙耶に毎日作ってきた食事の栄養が偏っていて、だから沙耶は病気になってしまったんだ」
拳を握りしめ、吐き出すように駿が言う。
自分を責めはじめたまさかのその展開に、沙耶は即座に否定。
「なんで、違うよ! 私の病気は駿のせいなんかじゃない、誰のせいでもない!」
「沙耶」
「食事が原因だったら、私と同じ食事をしてきた駿だって同じ病気になるよ。そうじゃない?」
癌になったのは駿のせいじゃない。
誰のせいでもない。
敢えて言うなら自分の運命。
病気の事を知れば心配の1つもするだろうと考えたが、まさか飛行機に乗らず会いに来るとは、想定外で想像外。
駿の真っ直ぐな視線を受け止めてから、沙耶は椅子に座り、諭すかのように言い始めた。
「駿あのね、私は病気だけど駿が想像しているような重病人じゃない。体の中に悪いものがあるから、今日はお腹を切ってそれを取り除く。それが終われば終了、たったそれだけ」
重病人だったら昨日の夜に駿とあんなコトしてないよ、小さな声でそう付け加えると、彼の硬い表情が少し崩れる。
「心配してくれるのは分かる、でも私のせいで駿が海外留学を辞退するような事になるのは絶対イヤだ。もしそうなったら私は一生後悔する」
「……」
「全校生徒の中から1人選ばれた名誉ある海外留学だよ、誰でも行けるものじゃない」
「……」
「私は大丈夫。だから駿は、たった4ヶ月の海外留学に行ってきて」
「……分かった」
沙耶の必死の説得に応じ、ようやく駿が首を縦に振る。
笑顔を見せた沙耶に駿が言う。
「明日渡航する」
「明日?」
「1日くらい遅れて行っても大丈夫だろ。今日は傍にいる。手術が終わって麻酔が切れて目覚めた時に、横に知ってる人間がいると安心するだろ?」
沙耶の家族は病院に来ないと駿は知っている。
さり気ない優しさをくれる我が王子に、少し迷った後、沙耶は小さく頷いた。
駿は沙耶に背を向けて、部屋の扉のほうに歩きながら言った。
「俺、一度家に帰るから。あ、なぁ、お前の病気をなんで蘭堂さんが知ってたんだ?」
そう言って駿が振り向くと、椅子の前でしゃがみ込んでいる沙耶の姿。
蒼白の顔に両手を当て、指と指の間から大量の血液が流れ落ちていく。
「さや……沙耶っ、沙耶!!」
尋常じゃないその声を聞き、隣の部屋にいた久遠らが駆けつける。
沙耶の姿を見て言葉が飛ぶ。
「ストレッチャー!」
運ばれたストレッチャーに沙耶を横たえる。
彼女の意識は混濁していた。
顔中が血だらけ、よく見ると鼻から出血していた。
大量の鼻血。すい臓癌患者でこんな症例は見た事も聞いた事もない。
急いで中央手術室に体を運ぶ。
大量の血溜まりができた外科診察室で、駿は呆然と1人立ち尽くしていた。
水崎沙耶の手術は予告なく突然開始された。
「彼女の母親はまだ来ないのか!?」
「電話が繋がりません」
「繋がるまでかけ続けろ!」
「血圧上昇、心拍数低下」
「見えてるよ」
助手の言葉に久遠が言う。
手術室の中にある患者モニターには、沙耶の全身状態がリアル表示されている。
イヤでも目に入る。
メスを握り腹部を開腹。
久遠はいつも通り早く正確に仕事をしていく。
外科手術は数をこなして慣れている。手術手技に自信もある、今まで患者を死亡させた事は一度もない。
現れた臓器の奥に位置する目的のすい臓、だが次の瞬間久遠の手が止まった。
息を呑む。
患部に複数の腫瘍。事前のレントゲン検査で写らなかった腫瘍だ。
「……冗談じゃない、16才であの世に連れて行かせられるか」
メスを手に握り直す。
絶対にこの子を死なせない。
「沙耶さんの保護者と連絡取れました。今日は仕事で行けないので、全てお任せします、沙耶さんにもそう伝えているとの事です」
「鼻からまた出血です」
「血圧低下」
「出血が止まりません」
「心拍数が乱れています、先生!」
「久遠先生!!」
絶対にこの子を救う。
「心停止」
待っているのは決して絶望の旋律じゃない。




