第11話
11月20日、日曜日。
午前7時30分。
駿は母親の軽自動車のトランクに、大きなスーツケース2つを入れた後、隣の家のまだ寝ているだろう沙耶の部屋を見上げ、数秒間眺めてから助手席に乗り込んだ。
そして車がゆっくりと走り出す。
その様子を沙耶は、1階のリビングの窓からそっと見ていた。
彼が出発したのを確認して、自分も出かけるためにタクシーに電話をかけた。
* * *
駿を乗せた車は1時間後に空港に到着。
あとは1人で大丈夫だからと言い、空港の入り口で母親と別れ、荷物を持ち1人で中に入って行った。
ショルダーバッグを肩から斜めに掛け、2つの大きなスーツケースを両手で引きながら、搭乗カウンターに向かい歩いていると、なぜかそこに生徒会長の姿を見つける。
相手も気付いて近付いて声をかけてきた。
「橘君、おはよう」
「おはようございます……蘭堂先輩、ここでなにしてるんですか?」
「君の見送りに来たんだ。前年の海外留学生が翌年の海外留学生を空港で見送りする慣例、知らなかった?」
なんだそれは、全くの初耳だ。
首を横に振った駿に、蘭堂が辺りを見ながら、ふと言う。
「橘君1人? 今日、ご家族や友達は見送りに来ないの?」
「親には空港まで送ってもらい、入り口でさっき別れました。クラスメートには海外留学の事は話してません」
あっけらかんとそう話すと、相手は驚いた顔を見せた。
搭乗カウンターまでスーツケース1つ持つよと言われ、それを駿はやんわりと断る。
歩きながら自分の隣の生徒会長をちらり見る。
秀麗な横顔。
自分より5センチくらい背が高いか、いや大して変わらないな、などと頭の中で自分を擁護してみる。
「蘭堂先輩」
「なに?」
「水崎沙耶は俺の恋人ですから」
今なぜこの場でそんな事を言っているのか。
気付けば駿はそう話していた。
今のセリフを沙耶が聞いたら歓喜する事だろう。
蘭堂は一瞬虚をつかれた顔を見せ、でもすぐに相手が意図する事柄を察知し、こう返事した。
「人のものに手は出さないよ、それに僕は水崎さんに告白してフラれてる。彼女から聞いてない?」
「……いえ」
苦い顔をしながら蘭堂がそう話す。
相手の懐の大きさを知り、自分の余裕のなさを思い知らされる。
大人の対応を見せられ、駿は敵わないと悟る。
「見送りはここまででいいです。ありがとうございました」
暫く2人で歩いてから駿はそう言った。
搭乗カウンターはすぐ先。手続きをして後は飛行機に乗るだけだ。
礼を言い軽く頭を下げて後ろを向いたその時、
「橘君!」
呼ばれて駿は蘭堂を振り向き見る。
「……向こうは朝晩と日中の気温差が大きいから。体調を崩さないように気をつけて」
「分かりました。ありがとうございます」
そう返事した駿に、蘭堂は片手を軽く上げ別れの合図を送り、来た通路を戻って行く。
そして駿も搭乗カウンターへと歩き出す。
通路の途中の窓辺で蘭堂は立ち止まり、窓の外を見た。
蘭堂の目が見ているのは、行き交う人達ではなく、動かないただの木。
どれくらいそこでそうしていただろう。
気付けば、駿が乗る飛行機の、搭乗開始を知らせるアナウンスが流れていた。
「蘭堂先輩」
自分を呼ぶその声に振り向くと、スーツケース2つを持ったまま、さっき別れた時のままの格好で、そこにいるはずのない後輩の姿に目を疑う。
「橘君? 君……なに、してるの?」
「さっき俺を呼び止めた時、本当はなにを言おうとしたんですか?」
「えっ? 別になにも。飛行機の搭乗開始のアナウンス聞こえなかった? すぐ手続きして早く乗らないと……」
「教えてください。本当はなにを言おうとしたんですか?」
駿は真っ直ぐに目の前の人物を見据えて言った。
気候の事なんかじゃない。
気のせいなんかじゃない。
それがなにかは分からない。
ただ自分の中の本能が、絶対に訊け、とうるさいくらいに何度も告げる。
冷静沈着な生徒会長が、必死に言葉を探しているのを見て、確信に変わる。
「蘭堂先輩、教えてください」
駿が乗る飛行機の搭乗開始のアナウンスが再度流れる。
微動だにしない後輩の姿を見て、蘭堂は一度目を閉じ、ゆっくり目を開けた後、心を決めて彼を見ながら静かに言った。
「……今日、星凌大総合病院で、午前10時からすい臓癌の手術が行われる。患者の名前は……水埼沙耶」
「もう一度、患者名を言ってください」
「名前は、水埼沙耶」
駿は身を翻すと、一気に駆け出した。
あっという間にその姿は空港入り口に消えていく。
彼の行き先はただ一つ。
置き捨てられた目の前の2つのスーツケースを見ながら、蘭堂は小さく呟く。
「水崎さんに怒られるな」
あれほど絶対に言うなと言われていたのに、なぜ今日ここで話してしまったのか。
きっと、自分が彼の立場だったら教えて欲しいと思ったから。
それが大切な相手なら尚更。
「患者の守秘義務が守れないなんて……僕は医者に不向きかな」
今日これから、難しい長時間に及ぶ手術が始まる。
水崎沙耶のすい臓癌は進行していた。




