第XXX話 幕間~遠野杏奈①~
その日は兎にも角くにもついていない日だった。
目覚まし時計の電池が切れており、寝坊をし、朝ご飯を食べ損ねた。
朝ご飯だっていつもなら朝練で早朝に学校へ向かう弟がテスト期間で部活が休みのため、遅めに出るそうで私の分まで食べられてしまった。
だいたい、姉ちゃんが寝坊したから代わりに朝飯食べといたあっはっはって何よ。馬鹿なの?起こしなさいよ。
そんな経緯で朝から弟と喧嘩した。お母さんは寝坊したあんたが悪いと取り合ってくれなかった。
お父さんは仕事のために私が起きるより早くから家から出ていた。最近はいつもそうで顔を見るのはいつも寝る前ぐらいだけ。
しかも、今日は連休明けの日直だったせいで各授業の提出物を担当の先生に持っていく羽目になった。
朝から山積みの荷物を運ぶのは辛かった。
更に悪いことに、一番仲の良い友達の奈々子も今日は体調不良で休みだった。
この苛立ちをどこにぶつければよいのか。
英語の授業中、若くて面白いと女子に人気の男性教師が少し汚い字で教科書の一文を黒板に書き出す。
スペルミスが見つかり、女子の一人に指摘され、照れ笑いしながら書き直す。
「……あんなののどこがいいのか」
窓際の私の席からは外が良く見えた。
重そうな黒い雲が広がっている。今日は天気が悪く、夕方からは雨が降るそうだ。
今夜は塾なのに、本当についていない。
それに雨は眼鏡に水滴が付くし、曇る。髪もまとまりにくい。今朝だって梳くのに苦労させられた。自分で肩より先まで伸ばしておいていうのもあれだが、手入れが少し面倒だった。
「杏奈は年上好きなんじゃなかった?」
「もっと落ち着いた、ダンディな人がいいの。大切なのは中身よ」
「オジ専だったか。こりゃ彼氏はまだ先そうね」
「うっさい」
後ろからペンで突いてきた久美と声を潜めて話す。
この男性教師は女子に寛容だ。女子の私語はほとんど注意されない。
一部ではレディファーストだなんだと持て囃す声もあったが、たぶん違う。
彼は女子が怖いのだ。私だって怖いと思う。
女子中学生は一種の凶器だ。
集団意識が強いのに、罪悪感が薄い。
平気な顔をして、多数で少数を責める。
それに比べると男子のなんと幼稚なことか。
先生に隠れて、教科書の影や机の下で平気で携帯ゲームで遊んでいる。
私も弟とよくゲームをする方だが、それでも学校、ましてや授業中に遊ぶなんてとんでもない。
「遠野、次のところを読んでくれ」
「……あ、はい!」
私の名前が呼ばれて、慌てて自席で起立する。
次ってどこだ。聞いていなかった。後ろの久美から教えてもらい、私は教科書を朗読する。
英語はあんまり好きじゃない。
どうせ私は日本から出るつもりもないし。英語の授業は数学と一緒で受験のための教科という感じがするのだ。
単語と文法、それを暗記するだけ。
文系科目なら物語を読める国語の方が好きだし、暗記科目なら理科社会の方がいい。
身近なものや、物語性があるものの方が勉強していて楽しい。
ただ、英語が嫌いと言ってもあと一年と少ししたら高校受験がある。嫌と言っても勉強しなくてはいけない。
しかし、家にいても勉強に身が入らなかった。
そんな私をどうにかしようとした両親が選んだのが塾だ。
三年生になったら、受験五科目全部通わせる気らしいが、まだ二年生の今は英語と数学の二科目だけだ。
だから今は週に二回だけ、塾に通っている。
授業が終わり、いつもなら友人の奈々子と二人で帰る道を今日は一人で歩く。
家に帰って、課題をして、ご飯を食べたら塾の時間だ。
中学生はハードスケジュールだ。仕事が終わればあとは全部休める大人とは大違い。
「お、杏奈じゃん。一人でって珍しいな」
「今日は奈々子が休みなの」
小学校から付き合いのある男友達だ。背が高く、短く揃えた黒髪と日に焼けた肌がスポーツマンらしい。運動は昔から得意な奴だったが、頭は残念だった。天は二物を与えず。無念。
クラスも部活も違うので普段話すことはあまりないが、こうしてたまに会えば気安く話す程度の仲だ。
うちの弟とも仲が良く、部活でも先輩後輩の関係だと聞いている。
「うん、知ってる。本人から聞いた」
「はい?」
「……誰にも言うなよ」
男子がこそこそしていた。
きもい。
「この間の金曜日から付き合い始めた」
「誰と、誰が?」
「俺と、奈々子が」
「マジ?」
「超マジ。ちゅーもした。おい、誰にも言うなよ。まだみんなには内緒って奈々子に言われてんだ。お前は俺とも奈々子とも仲良いし口も固そうだからな!」
うわー。こいつから聞きたくはなかった。
特に羨ましいとか嫉妬の気持ちはなかったけど、自慢げで普通に腹立つ。
奈々子もこいつも今まで浮いた話は聞いたことがないので二人とも初彼女と初彼氏なのだろう。
ただ誰にも言うなと言いつつ、話したくて話したくてしかたなかったのだろう。そんな顔をしている。
王様の耳はロバの耳の童話を思い出す。
王様の秘密を知ってしまった床屋が秘密を一人で抱えきれなくなり、井戸に向かって叫んでしまい、結局は皆に秘密がばれてしまうお話だ。
奈々子もどうしてこんな奴をファーストキスの相手へ選んでしまったのか。
私ならもっとこう、かっこいい落ち着いた人を選ぶのに。
「じゃあ、私そっちだから」
「おう。また今度な。さっきのは本当に誰にも言うなよ。絶対だからな。絶対に言うなよ」
「それは振りなの?」
「ちげーよ!じゃあな!」
道の分岐点より少し手前で私は彼に別れを告げた。
くだらないやり取りをした後、大きく右手を振り上げて走り去る奈々子の彼氏を見送る。
「あ、降ってきた」
眼鏡に水滴が付き、雨に気付く。足元のアスファルトにも黒い小さな染みが増えつつあった。
自宅までまだ少しだけ距離があるので、鞄の中の折り畳み傘を取り出そうとして――私は落ちた。
落下する。
浮遊感。
突然の異常事態に、体が強張る。
別に足を踏み外したわけでもなく、『落ちた』という表現が正しいのかはわからない。
しかしさっきまで立っていた足元の地面はなく、目を開くと白い光しか見えなかった。怖くなってすぐ目を強く閉じる。
そして。
長い浮遊感が終わり、固い地面に降り立った。
浮遊感を感じた時間の割に衝撃は大きくなかった。
しかしいきなりの衝撃にバランスを崩し、尻餅をつく。
尻餅の衝撃で眼鏡がずり落ちた。
「いったあい……」
リノリウムのように、いや、更につるつるの地面。
さっきまでアスファルトの上に立っていたのに。
顔を上げると不思議な部屋だった。
薄暗いのに空気全体が白い気がする。
しかし光源がなかった。
蛍光灯も、窓もない。
じゃあどうしてこんなに明るく感じられるのか。
こつこつと誰かが私の前へ歩いて出てきた。
女神のような女性。
長い金の髪、輝くような緑の眼。碧眼、というのだろうか。
服装は首から足元まで覆うマキシワンピのような服。しかし、体の線が丸わかりで、その豊かな胸や扇情的な腰のラインが彼女を艶やかに魅せた。白いその服はシルクのように滑らかで、太ももに沿うようなそのスカート部分は膝下の辺りでひらひらとレースをあしらい、少し膨らんでした。
どう見ても日本人じゃない。外国人だ。見た目から年齢がわからない。たぶん20台前半くらいか。
さっきから彼女はこちらに伝えようと何かを言っているが、まったく意味が分からなかった。
もっと英語を勉強すればよかったかもしれない。
いや、そもそも英語じゃない気もする。
「この言葉ならわかる?」
「ひゃいっ」
いきなり流暢な日本語だった。
思わず変な声が出た。
「……わかり、ます」
「そう、よかった」
目の前の女神と見間違う女性が微笑む。
「改めまして、こんにちは。あなたは魔王と戦う勇者に選ばれました。どうか、この世界を救ってください」
「……え。魔王?今勇者って言った?」
混乱する私の元に女性が近づく。
そして、彼女はその美しい顔を私に寄せ、
「聖女たる私と契約を――」
唇と唇が触れ合う。
彼女の唇はとても柔らかく、唇を通して全身が何かで満たされる感覚を覚えた。急に目の前がすべて白塗りされていく。
薄れゆく意識の中、ああ、私のファーストキスが奪われてしまった。そんなことを思った。
お読みいただきありがとうございました。
次回から第二章です。