第八回 山人の掟
山道を歩いていた。
内住郡南西部。山深い隘路だ。路傍には雪。宝暦十一年の如月も暮れようとしている。
先月末、清記は藩主・利永と共に夜須に戻っていた。そうなったのは利永直々の命令で、ただ弟の主税介だけが江戸に残された。菊原の下で、暫く働くという。
利永から、妙に気に入られた。きっとあの日以来、又一郎の乱行が治まったからだろう。今では、人が変わったように大人しくしているらしい。
久々の夜須では、大和が刺客に襲われるという事件が起きていた。
廉平は犬山梅岳の仕業だと言ったが、その証拠はどこにも無い。襲われた大和は東馬に救出され、あろう事か梅岳の屋敷に駆け込んだという。まるで七将に急襲された石田三成が、神君の屋敷へ助けを求めたかのようで、結果として梅岳は次の一手を封じられた。
逃げた刺客が捕縛されたのは、清記がちょうど帰国する直前だった。捜査の指揮を執ったのは、なんと梅岳自身で、刺客は黒河藩の手の者だという事が判明した。
何とも上手い落としどころだった。夜須藩を目の敵にする、伊達黒河藩によるものだとしたら、皆が納得する。事実、それ以降は梅岳と大和の対立は一旦収まっている。
(しかし、何とも険しい)
山道は険しかった。平坦な道など無い。しかも、雪もある。気を抜けば、残雪で足を取られるほどだ。数か月の江戸暮らしで身体が鈍ったのか、微かな息切れを覚える。
内住郡は山が多い。全体の六割以上が山間部だ。しかし、その中には小さな村落が幾つも点在している。そこから年貢も徴収せねばならないし、変事があれば対応しなければならない。故に、その一つ一つを管理し、巡察する事も代官所の務めなのだ。
「そのような事など、下役に任せておけばよいものの」
父にはそう言われた。
父は代官職の一切を、代官所の役人に任せているのだ。歴代の平山家当主がそうであったように、父もまた内住郡代官は御手先役の隠れ蓑としか思っていない。
(自分は、そうはなりたくない)
と、清記は思っている。
代官職も、重要な役目。そして、それを立派に果たす事で、始末屋という裏の仕事をしなくてよくなるかもしれない、という期待がある。
代官としての職責を果たす事で、平山家の価値を高めるのだ。その上で、御手先役としても務めを果たす。そうなれば、藩庁も足らぬ費用の補填も考えてくれるだろう。そうした願いがあり、時間があれば代官所の職務を手伝っている。
山間部の巡察に、清記は供を連れなかった。下役が随行を求めたが、それを断ったのだ。公的の立場では、見習いに過ぎない。その見習いの為に、貴重な人手を割く必要は無い。
隘路を登り切ると、道が拓け高台に出た。ちょうど、郡内が一望出来る。
所々白いのは雪だろう。これらが完全に溶けるのは、弥生を待たなければならない。
清記は腰を下ろし、竹の水筒で喉を潤した。
冷たさが濃い如月の風が、難所越えで火照った体には心地よかった。吹き出した汗を、凪いでいくのだ。
(志月にも見せたいな)
山間に広がる集落や田畠を眺めながら、清記は思った。
この美しい内住が、俺の大切な故郷なのだと教えてあげたい。しかし志月とは、帰国後に一度しか顔を合わせていなかった。その時は軽い挨拶だけで終わってしまったのだ。剣術指南も、ここ最近は大和の多忙で延期している。
ふと、会いたいと思った。
志月は愛想の無い暗い女だが、それが堪らなく愛しいと思える。その理由を考えても、自分には判らない。志月の何処に惚れているのかも。
(いかんな)
と、清記は頭を切り替え、懐から帳面を取り出した。訪れた村々の情報や印象を書き残しているのだ。
昨日、建花寺村を出て、今日までに五つの村を訪れた。今日はあと二つまわる予定にしている。
その時、背後に気配を感じた清記は、ゆっくりと振り返った。
男が、太い腕を組んで立っていた。藍色の貫頭衣に、鞣し革の手甲脚絆。腰には、両刃の剣をぶら下げている。
漂泊の民、山人だ。
山人とは人別帳に名前を載せず、狩猟や山菜を採取しながら山野を渡り歩く漂泊の民である。独自の風俗と信仰、そして〔カガン〕と呼ばれる厳しい掟を持ち、里人と交わる事は少ない。
その山人には、二つの系統がある。山中に幾つかの拠点を置き、季節によって棲家を変える岩山人と、棲家を持たず山々を渡り歩く風山人。険しい山に囲まれた夜須には岩山人が多く、特に内住郡に集中している。
「よう」
男は、牟呂四という名の若者だった。
歳は少し下で、やっと二十歳を越えたぐらいだろう。
会うのは、三度目。村に降りて里人と喧嘩をしていた所を止めに入り、暴れる牟呂四を叩きのめしたのが出会いだった。
義侠心が厚く、若い衆の兄貴分。しかし、短気なのが欠点だった。
「村廻りか?」
「まぁな。見ていたのか?」
「ああ。お前が山に入ったと聞いて会いに来た。久し振りだな」
「江戸に行っていた」
「そりゃ、遠い。どうだった、江戸は?」
「余り気持ちのいい所ではなかったな」
「そりゃそうさ。この世は山を降りりゃ地獄って奴だよ」
「お前にとっての山が、私にとっての内住だな」
「だが、その山も地獄になろうとしてやがる」
牟呂四の語気が、やや強くなった。何か怒りを押し殺している、そんな気配がある。
「どうした?」
「清記、手を貸してくれ。人別帳の外にいる俺達の事では、藩庁も代官所も動いてくれねぇんだ。ま、それは山人が自由に生きてんだから仕方ねぇ。だが、今回はそうも言ってられねぇほど面倒なんだ。だからよ、俺の頼みを聞いてくれねぇか?」
何事も自分で、という牟呂四が頼むのは珍しい。それほど大事が起きたという事だろう。
「それで、私に会いに来たのか」
「俺には腕の立つ武士の親友がいると思い出したんでな」
清記は黙って頷いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
牟呂四の案内で、山を下り谷を幾つか越えると、〔ムレ〕と呼ばれる彼らの集落に辿り着いた。
渓流の側。簡易的な吊り橋が掛かっていて、それを渡ると、集落である。
位置としては内住郡の南端だろうが、正確には判らない。そもそも、夜須藩なのかも疑わしい。それほど、山人の世界は山の深部にあり、世間とは隔絶されている。此処に来るまでにも、余りの険しさと深さに方向感覚が狂ったほどだ。深山幽谷とはまさにこの事で、牟呂四がいなければ、到底たどり着けない場所であろう。
集落の中心には、簡単な小屋が二つ並び、それを囲むように竹で骨組みされた天幕が幾つも並んでいた。天幕に住んでいるのは、移動を考えての為だ。岩山人である牟呂四は、季節によって移動し集落の場所を移す。
その集落は、一見して平穏に見えた。男は獣皮を鞣し、女は竹細工に励む。手伝いをする子どももいれば、やんちゃに遊ぶ者もいる。中には、清記の側に寄ってくる子どももいた。物珍しいのだろう。清記は、その子どもの頭を撫でてやった。
「集落は穏やかな様子だが」
「今の所はな」
「そうか」
「頭領が、お前を待っている」
「ほう、夫雄殿か」
岩山人には、ある一定の集団毎に頭領という指導者がいる。頭領には強大な権力があるが、それとは別に長老と呼ばれる長がいて、頭領が暴走した時に解任する権利がある。
多くの場合、頭領が引退して長老となるもので、その際に新しい頭領を指名するわけだが、そこで「子・孫・甥を指名してはならない」という厳しい掟がある。つまり、頭領の子は頭領になれないのだ。
今の頭領は夫雄で、長老は別の集落にいる。
「久し振りだな、夫雄殿にお会いするのは」
「多少老いたが、相変わらずさ」
夫雄と初めて会ったのは、五年前。父に連れられて挨拶したのだが、その頃の夫雄は頭領だったが、既に老いを見せていた。
「此処からは一人だ」
夫雄は、集落の中心にある高床の小屋にいる。その小屋への梯子の前で、牟呂四が言った。
清記は頷き、梯子を登った。
夫雄は、毛皮の敷物の上に座していた。
髪は既に白く、日に焼けた肌には皺が目立つようになっている。それでも、頭領の印である浅葱色の勾玉の鮮やかさは、昔と変わらない。
「よく来たな、夜須の者よ」
「お久し振りでございます」
清記は、深々と頭を下げた。武士と山人には身分の上下は無い。そう清記は思っている。
「悌蔵殿はご健勝か?」
「ええ。しかし、最近は腰が痛い、肩が痛いなどぼやいております」
「ふふ。お互い歳だからの」
父と夫雄の関係は判らない。訊いた事もないが、口調の端々には親しみを覚えなくもない。
「して、清記よ。我が身内の恥を晒すようだが、おぬしの手を貸して欲しい」
「私はあなた方を善き友人、善き隣人と思っております。故にお困りならば、喜んで協力いたします。ですから、まず何があったのか、お話をしてくださいませんか」
「そうか。牟呂四はお前に何も言わなかったのだな」
と、夫雄はポツポツと語り出した。
夫雄には、数名の息子がいたが、最初の子は黒鵐と言った。
黒鵐は夫雄に似て勇気があり、荒々しくも逞しい男に成長した。武芸の腕も立ち、剣一本で熊を仕留め、時には集落を荒らしに来た山賊も打ち倒した事もあったという。
しかし、この黒鵐は野心家でもあった。父の後を継いで、頭領たらんと欲したのだ。
当然、夫雄は反対した。それだけではなく、集落の全員が掟に背くと、痛烈に非難した。
それでも、黒鵐は平然としていた。ある程度の非難は予想していたし、支持する仲間もいた。黒鵐は掟に縛られず、能力がある者が上に立つべきだと、何度も訴えた。
しかし、夫雄は譲らなかった。ここで譲れば、一族全員が追放される恐れがあるからだ。
そして夫雄は、次の頭領に水薙という青年を指名した。水薙も黒鵐に劣らぬ、逞しい男だった。
次の頭領が水薙に決まると、状況が一変した。今まで自分に従い、可愛がってきた弟分や恋人だった女までも、水薙に靡いたのだ。
その事で黒鵐は山人というものに絶望したのか、水薙を殺害し集落を飛び出してしまった。
「黒鵐が山を下り、〔遠野主馬〕と名を変え、里人として生きているという噂は聞いていた。その噂から二十年近く、何の話も聞かなかった。もう、どこぞで死んだのだと思い定めていた」
「生きていたのですね」
夫雄が頷いた。
「そうだ。それも、黒鵐は……いや遠野は、山賊の親玉に成り下がっておったわ」
不雄は、吐き捨てるように言った。山人から山賊になる者はいる。そうした者は下人と呼ばれ、蔑まれる。その下人を我が子から出してしまった事が、許せないのだろう。
「その遠野が戻ってくる。三日前、各地を放浪する風山人が、慌てて報せてきてくれたのだ」
「……」
「当然、儂を殺しにだろう。諏訪(上野)では、幾つかの山人の集落を襲ったそうだ。三十は下らぬ数でな。そこで自分は山人の王になるとも、ほざいていたそうだ」
「山人の王とは、また」
「我らは、人別帳外の者。何があろうと、里に影響がない限りは、藩庁は知らぬ存ぜぬだ。遠野の狙いはそこだろう」
「それで、私に遠野を斬れと」
夫雄が、深く頷いた。
「山人の事だ。里人を巻き込むわけにはいかぬと思ったが、遠野は里で剣術を学んだというし、相手は三十を超える飢狼共。是非、おぬしの力を借りたい」
そう言うと、夫雄は布の袋を差し出した。
「勿論、タダとは言わん。報酬も準備しておる」
「いえ、それは受け取れません」
と、清記は布袋を一瞥した。
「山人の事は我々の範疇にございませんが、この内住に山賊が侵入する事を見過ごすわけにはいきませぬ」
「だとて、代官所は動かぬだろう。悌蔵殿も」
父は動かない。きっと話しても、
「山人の事は放っておけ」
などと言うだろう。お互いに見知っていて、それでいて干渉しなければいい、と思っているのだ。
「ええ、残念ながらそうでしょう。ですから、これは私個人として動くつもりです」
「そうか。やってくれるか」
だが、相手は三十人以上。夫雄が言うには、男衆も一緒に戦うというが、かなり厳しいものになるだろう。
夫雄が牟呂四や男衆を小屋に呼び、清記も戦う事を告げた。
「おお」
男衆に喜色が浮かぶ。山人の間でも、平山家が建花寺流で身を立てている事は有名なのだ。
「遠野はいつ此処へ?」
「わからん。あやつが居た頃とは、集落の場所は変わっておる。探すにしても、里人となった遠野が、容易に辿り着けるとは思えん」
夫雄が答えた。
「では、案内役を用意するかもしれませんね。内住の集落一つ襲って」
「ありえる」
「私が思うに、遠野は必ず始末せねばなりません。生かせば、必ず禍根を残します」
「では、どうしたらいい?」
牟呂四が身を乗り出した。
「この集落に誘き寄せ、鏖殺します」
「言うは易しってもんだぜ、そいつは」
「集落全体に、罠を仕掛けましょう。奴らが集落に入ったら逃げれぬようなものと、内部にも。あなた方は、罠作りが得意と聞きました」
皆が頷く。猪用の罠を大きくする、それだけでも十分だという声も挙がった。
「弓も得意と聞きました。あなた方には、その弓で援護して欲しい」
「斬り合いにも参加するぜ?」
「いえ。それは武士の仕事です。弓が得意ならば、それで戦うべきでしょう」
「まぁ、鹿や猪を仕留める俺達の弓だ。人間なんざ、どうって事はない。だがよ、女や子どもはどうするよ?」
確かに。集落を戦場にするという事は巻き込むという事だ。
「夫雄殿。何処か避難する場所はございませぬか?」
「それなら、手頃な岩窟が北にある」
「では、そこへ。ですが、全員とはいきません。少なくとも数名の女は必要でしょう」
「何故?」
「女の姿が見えないとなると、相手は警戒するでしょうから。ただ、戦闘が始まれば、真っ先に逃げてもらいます」
「なるほど」
「ですが、安全に逃がす算段も必要です。誰か考えてくれる者はいませぬか?」
そう問うと、すぐに手が挙がった。また、集落に残る女は、ここにいる者の妻という事になった。
「準備を少しずつ進めましょう。万が一、我々が敗れた場合には建花寺村へと逃れる手配もしておきます。幾ら山人が範疇になかろうと、平山の御曹司が死ねば無関係ではありますまい」
全員が頷いた。
「それと、あくまで遠野をこちらに引き込む事が肝要です。それが出来ればいいのですが……」
「今、遠野が何処にいるかも判らん。しかし、この築城(下野)に入ればすぐに掴めよう。その時には、誘き出すよう手を打つ」
話し合いは暫く続き、小屋を出たのは日が暮れかかった頃だ。
山賊は三十人。罠と山人の弓があったとして、残りを斬るのはかなりの骨だ。
(助っ人を頼むか……)
そう言って、浮かぶ顔は少ない。何せ、この泰平で人を斬った者など少ないのだ。
飯が出来たと、女の声が聞こえた。牟呂四の妻・与鵙だ。今日は此処で泊まる事になっている。




