飛んで火に入る
強襲に作法もへったくれもあったものではない。
敵は圧倒的な兵力を持ちながらも単独行動を旨とし、その一体一体が底なしの生命力を備えた叩き上げの兵士である。
彼らは主に夜を活動時間帯とする。家人が寝静まった頃合いを見計らって家中の隙間という隙間から顔を出し、あるいは母体から分裂した影のように音を殺して行動する。成果を上げるためならば空き巣も闇討ちも辞さない。日本古来の武士道に全力で中指を立てながら、彼らは陰日向に暮らしている。
しかし彼らの作戦行動にも不測の事態というものは存在する。往々にして起こりうる事態としては、寝静まったはずの家人が起き出して来た場合などがそうである。
夜に浸されていた台所に突如として明かりが灯り、一見して黒いシミにも見える彼らの姿は白日の下に晒される。大抵の人間は次の一秒で叫び声をあげる。若い女性に見つかった場合などは特に酷い。時として耳に突き刺さるような金切り声は鋭く空気を震わせ、辺り一帯に響き渡る。
しかしそのような状況においても彼らはけして慌てない。冷静な思考力をフルに活用して迅速に逃走経路を導き出し、卓越した走力で瞬く間に姿を消す。多少の無茶を通す豪胆さと、それを実行に移せるだけの身体能力があってこその離れ業である。
か弱い一人の人間としてそんな彼らの向こうを張ろうと思うならば、それ相応の覚悟が必要であることは言うまでもない。
手段を選んでいては殺される。
彼らは、いつだって本気なのだから。
何とも大胆なことに、三沢秀行は新聞紙一本で彼らに喧嘩を売った。日頃の自殺願望がついに形となって現れたのではない。部活動における無理な筋トレが祟ったわけでもない。
弾切れ、である。
何の偶然か夜中に目が覚めた三沢は、まず初めに枕もとの時計を確かめた。
二時四十七分。五分進めてあるので正味二時四十二分。六時半に設定したアラームが鳴るまでまだ十分に時間はある。しかしどうにも目が冴えてしまっていけなかった。足にまとわりついたタオルケットを蹴りのけると、三沢はいまひとつ覚束ない足取りで一階のトイレを目指した。
出すものを出し切ったところで喉の渇きに気がついた三沢は、不機嫌な冷蔵庫の歯軋りを無視して台所の電気をつけ、ステンレスのシンクにガラスのコップを置いたところでその存在に気がついた。
人間、そこにあるはずのないものがあるという状況には気がつきやすいものである。この場合の三沢にもそれは例外なく当てはまり、台所に一歩足を踏み入れた瞬間から感じていた違和感の正体に彼はようやく納得のいく解答を得た。
もはや名前そのものが汚いかのように錯覚してしまう虫のうちでも、その黒い光沢はGから始まる御仁で間違いなかった。
あまりの不意打ちに三沢は全身の毛が逆立つかと思う。元々冴えていた目がさらに就寝不可能なまでの光を帯びる。
こいつらはもはやどうあっても人類とは相容れない種族である。戦いはすでにこの瞬間から開始されていると言っても過言ではなかった。
このような状況に置かれた三沢が毎度のように思うのは、「何でこいつらはわざわざ天敵の家に間借りしてまで生活しているのか」ということである。
食料が豊富だというのはわかる。世界中のあらゆる動物を引き合いに出しても、その中から人間より豪勢な食事を取っている種を見つけ出すのは困難だ。というよりそんなやつらはいないだろう。供給も安定しているので好きなだけ盗み食いしてもなくなるというようなことはない。その点では人間に依存する理由も一部理解できるが、しかしその優位性は人間——少なくとも全日本人——を敵に回してもなお余りあるものなのだろうか。
いくら食べ物に困らないとは言え、殺されてしまえばすべてが終わりなのである。そんな危機と常に隣り合わせでありながら、なお民家に住み続ける理由が三沢にはわからない。こんな住みづらい家からは早く出て行ってほしいものだと思う。それが互いの幸せになるのではないかとも考える。
しかしともあれ、二つの種族は現実としてこのように出会ってしまったわけである。
せいぜい苦しんで死ねや。
口中に呪詛を呟きながら、三沢は家に常備してある殺虫スプレーを手に取った。
と、そこでスプレー缶がやけに軽いことに三沢は気づく。試しに振ってみるも手ごたえはない。
三沢の頬に一筋の汗が伝う。
こうなればイチかバチか、三沢は台所の床部分、毛羽立ったキッチンマットにしがみついて微動だにしないターゲットにスプレーノズルを向け、虫も死ねよとばかりにトリガーを引き絞った。
霧吹きにも満たない量の殺虫剤がわずかに噴霧され、淀んだ部屋の空気にまぎれて消えた。
弾切れ、である。
「ちくしょおーっ!」
三沢は使い物にならなくなったスプレーを床に叩きつけようとして、しかしすんでのところで踏みとどまる。そんなことをすればやつが逃げてしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けなければならない。視界からは消えたもののまだどこかにいるという状況がもっとも精神的にこたえるものであることを三沢は知っている。
床を見ると、ターゲットは依然としてピクリとも動かない。時おりその長い触角が独立した生き物のようにうねうねと動くのみで、逃げようとしているのかどうかさえ謎だった。
こうなれば実力行使である。こちとら陸上部で鳴らした身だ、いくら相手が俊敏だろうとそう簡単に逃亡を許すわけにはいかない。深呼吸をひとつ、さらに気合の腕まくりを決めて、三沢は近くの机に広げられていた新聞紙を掴んだ。
虫除けに使われていたその新聞紙を、間違っても途中で折れてしまうことのないように固く絞り、一振りの刀に仕上げる。
勝利を確信した三沢の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。先取りした勝利の美酒にほろ酔いの気を覚えながら、現役陸上部員三沢秀行は頭上に新聞紙を振りかぶると裂帛の気合とともに振り抜いた。
ばちこーん、と威勢がよかったのは音だけだった。手ごたえがあまりにもあっさりし過ぎていることには三沢も気がついており、その後の対応は迅速だった。
インパクトの位置から約十センチほど左にずれたマットの上でターゲットは健在だった。逃げられる隙を作るより早く三沢はそこに連続の新聞紙を叩き込む。その度に少しづつ破れていく紙面に書かれた政治家の名前を彼は知らない。
二分間のぶつかり合いが繰り広げられ、それからさらに五分間の膠着状態が続いた。
次の瞬間には逃げ出してしまいたい気に駆られるターゲットを強引にその場へ縫い止めているのは、さながら鬼神のごとき三沢の視線である。
——次で勝負が決まる。
三沢にはその確信があった。それはなんらかの根拠に裏打ちされた自信ではなく、それでもそうと信じざるを得ないような強いなにかだった。
そして、三沢は動いた。
泣いても笑っても次の一撃で新聞紙は折れてしまうことだろう。ならばこの一振りに全力を捧げる。一方的な討伐は、いつしか退くことのできない男の戦いへと変貌を遂げていた。
しかしそんな崇高な戦いに水を差す者は、いついかなる時にどんな場所から現れるかわからないものである。
三沢には初め、それが水であるように見えた。予想外の角度から降り注いだ液体は狙い過たずターゲットに命中し、つい先ほどまで強敵に見えていたはずのGはあっけなく裏返ると六本の足をひとしきりばたつかせてそれきり動かなくなった。
張り詰めていた空気が一挙に弛緩する。遠く置き去りになっていた日常が三沢の足下にも帰って来る。
「なんでお湯を使わない」
パジャマ姿の妹、葵は手短に言うと、
「後は任せた」
敬礼じみたポーズを残してその場を去った。
「…………」
後にはただ、生き残された者の哀愁と夏の夜の絡みつくような熱気が残るのみである。
三沢は冷め切った目で台所に戦後処理を施すと、黙々と水をかっ食らってその場を後にした。
だから、三沢は虫除けの新聞が取り払われた机の上にぶちまけられた無防備なパラダイスにも気がつかなかった。
再びの闇を取り戻した部屋に、戦士たちの影がうごめく。
彼らは、いつだって己が生に貪欲である。