表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Missing  作者: 逢坂
別離へのイニシエーション
6/33

5.this night

5.


『本当はさ、趣味なんて全然合わなかったんだよ』


 時刻は夜の九時。あの後家に帰った俺は、当たり障りなく時間をつぶし、夕食をとり、風呂に入った。その間、そして、部屋で読書をしている今まで、ずっと麻耶は黙っていた。彼女にしろ色にしろ、日頃騒がしい相手に大人しくなられるとどうにも調子が狂う。口を開いてくれて正直ほっとした。


「菊池のことか?」

『うん。やっぱ変だよね、あの子みたいな芸術家気質の人間と、私みたいな体育会系が付き合うなんてさ』


 どうもお気に入りの体勢らしく、麻耶はベッドの上に正座している。俯きがちに話す姿が儚い。デスクに座っていた俺は、読んでいた本をチェストの引き出しに放り込みながら、知らん、と答えた。以前はからかったりもしたが、正直そんなのは当人たちの勝手だ。

 俺の返答に何を思ったのか、麻耶はすっと顔を上げ、まっすぐこちらを見た。たっぷり一分は見つめ合っただろうか。いい加減息苦しくなってきた頃、彼女は突然へらりと相好を崩した。


『実はさー、あんまり好きでもなかったんだよねー』


 あっけらかんと笑う。静かに聞いてやろうと思い、眉だけ軽く動かし、先を促した。


『一度も話したことなかったのに、いきなり、告白されちゃってさ。なんとなくで、オーケーしちゃったわけ』


 芝居がかった仕草で右手を胸に当て、顎を持ち上げ気味に目を閉じる。ああなんてことでしょう、という意味のジェスチャーだ、おそらく。


『いつもかなり気をつかってくれてたから、別に不満があったわけではないんだけどね。ただ、話も弾まないし、やりたいことも違うし、この子、一体私の何がそんなに気に入ったんだろうって、ずっと思ってた』


 ひょっとしてこの美脚かな? などとおどけて、麻耶は足を伸ばす。残念ながら美脚なんてどこにも見当たらない。彼女は俺のさめた反応に一瞬口を尖らせたが、またすぐ軽く微笑んだ。


『そうすると、好きでもないのにつき合ってることが、なんだか申し訳なくなってね。いつかスッキリさせなきゃ、ちゃんと話して、終わらせなきゃって思ってて』


 そこで麻耶は俺から目を逸らし、しばし救いを求めるように視線をさまよわせた。結局何も見つけられなかった彼女は、諦めたように目を伏せ、スカートの裾を握りしめた。


『でも、死んじゃった』


 柳眉を寄せ、唇に笑みを乗せる。なんて下手な笑い方をするんだと呆れた。時計を見る。九時十五分。風呂に入るのが早すぎたことを小さく後悔した。


「学校、行くぞ」


 ベッドに近づく。手を引こうとして、躊躇った。麻耶は戸惑った表情でこちらを見上げている。ほの赤い瞳を直視するのが辛い。彼女はベッドの縁に体をずらすと、半端に差し出された俺の手にそっと自分の手を添えた。

 それはまるで、神聖な儀式のようだった。

 互いの手が決してすり抜けることのないように、ゆっくり、本当にゆっくり、引いて、引かれて、立ち上がる。二人以外のすべてが恭しく鳴りをひそめていて、ただこのひと時、きっと夜さえも止まっていた。そういう、似合いもしない錯覚が、確かにあった。


「あんたがそんなだと、困るんだよ」


 体を離し、部屋を、そして家を飛び出す。走れば三十分までには着けるだろうと計算した。


『ねぇ、急にどうしたの?』


 夜道を駆けながら麻耶が問う。軽く混乱している様だった。


「美術室に行く」

『もう閉まってるよ』

「適当に忍び込む」

『セコム知ってますか!?』


 何故か敬語の叫び声を黙殺し、校門をくぐる。美術室に明かりがついているのが見えて、走るのをやめた。色だろうか。忍び込むは冗談にしても、誰か一人ぐらい鍵を貸してくれる教師が残っているだろう、程度にしか考えていなかったので、好都合だった。呼吸を整えながら階段を上る。麻耶は静かだった。夜の校舎に響く自分の足音を確かめながら、何をやっているのだろう、と思った。馬鹿なことをしている自覚はある。だが、麻耶はもう、十分に手遅れなのだ。彼女はこれ以上、躊躇ったり、先送りにしたりするべきではない。

 どういう因果か知らないが、俺とともに過ごすことになった残り僅かな時間。それを彼女にとって、何かを諦めるためだけの時間にはしたくなかった。

 美術室には菊池が一人で居残っていた。彼は俺の方を振り返ると、軽く会釈をした。


「精が出るな」


 菊池は返事をしない。カンバスは今、その八割ほどをパールホワイトで塗り込められていた。昼間見た時よりも、幾分輪郭がしっかりしている。おそらくそろそろ本格的な描き込みだろう。


「竹中先輩、麻耶さんのこと、ご存知だったんですね」


 菊池は筆に絵の具をつけながら無表情で言った。背後で麻耶が息をのんだ。


「どうして?」

「昼間、マチェール見ただけで、僕が何を描いてるのか、わかったみたいでしたから」


 淡々と告げると、背を向け、カンバスに色を乗せる。そういう姿だよ、と俺は思った。この世のことなんてもうどうでもいい、とでも言いたげなぞんざいな在り方が、曖昧なマチェールなんかよりも余程多くを物語っていた。一挙手一投足が、一番大事なものをなくしてしまった人間の仕草だった。


「付き合っていたと知ったのは、極めて最近のことだけどな」

「本当は、趣味なんて、全然合わなかったんです。なんでオーケーしてくれたのか、不思議なくらい」


 手を動かし続けながら菊池は言った。


「絵の具を乾かしている間、窓からグラウンドを眺めるのが好きでした。麻耶さんは、いつも、誰よりも一生懸命に走っていました。その姿がとても綺麗で、あんまり綺麗だったから、つい、手を伸ばしてみたくなったんです。届くのかなって、試してみたくなったんです」

『康浩』


 麻耶が呟く。慈愛に満ちた響きだった。


「多分麻耶さんは、あまり僕のことが好きではありませんでした。これで結構、鋭いんですよ、僕。本当に、ただ、付き合ってくれてるだけって、感じでした」


 自嘲気味に笑う菊池。やっと、感情らしい感情が覗いた。


「謝らなければいけないって、ずっと、思っていました」


 筆の背中で頭をかき、彼は言った。


「やっぱり、遠かったですね」


 俺は、振り返って麻耶の表情を確かめようとした自分を、慌てて抑え込んだ。それはきっと、この世でただ一人しか見ることが許されないもののはずだった。


「しばらく、眺めてる」


 俺の申し出に、菊池は初めて筆を止めた。こちらを振り向こうとして、途中でカンバスに向き直る。どうぞ、とだけ彼は応えた。

 十分、二十分が過ぎ、だんだんと絵の輪郭がハッキリしてゆくに連れて、麻耶は吸い寄せられるように菊池に近づいていった。一時間が過ぎ、素人目にも何がモチーフかわかるほどになった頃、とうとう彼女は目元に手を当てた。


『これ、私?』


 菊池のすぐ左横に佇み、麻耶は訊いた。俺は内心でだけ首肯する。カンバスには、駆け抜ける陸上少女の姿が確かに描かれつつあった。その後も菊池の筆は止まらず、俺はぼんやりと、神様ってやつがいるとしたら、そいつは存外優しいのかもしれないと感じていた。麻耶は相変わらず菊池の隣に立ち、何度か目元を拭いながら彼とカンバスを見つめていた。一方菊池は、一心不乱に絵を描きながら、時々、確かめるように自分の左側へ視線を向けた。

 奇跡だとか、彼女の涙の行方だとか、そういう繊細なことに、俺は考えを巡らせることにした。


『ねぇ、由稀』


 不意に名を呼ばれる。


『絵ってさぁ、描き終わったら、もうそれっきりだよね』


 麻耶はくしゃりと微笑む。


『これが出来上がったら、私のこと、ちゃんと、過去になってるよね』


 それは芸術という分野から遠い人間の考え方だと思った。画家たちは、自分が描く一作一作に万感の思いを込める。過去になどなろうはずがない。しかし、俺は何も口にはしなかった。儚げに薄らいでいく彼女の輪郭をこの世に留める資格など、持ち合わせてはいなかったからだ。


『綺麗に描いてくれたら、嬉しいな』


 優しい祈りが聴こえた。

 こいつは今でもこうやって、筆を動かし、色を尽くし、必死にあんたに手を伸ばしてるんだよ。そんな言葉を、俺はぐっと飲み込んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ