4.nothing
4.
愛用のバッグの破損にいたく立腹していた泉だったが、ひったくり犯の顔の撮影に成功したことを告げると、途端に機嫌を直した。見上げた新聞部根性だ。どうやら被害に対して釣りがくるレベルの特ダネと判断されたらしい。
「この手のネタは一般のメディアより先に出すことに意味がありますからね、早速私は号外の準備をしてきます」
そう言って、学校に帰るや否や彼女は新聞部の部室の方へ一人駆けていった。何やら俺に用があるなどと言っていたけれど、結局聞かずじまいになってしまった。忘れてしまう程度なのだから、きっと大した用ではなかったのだろう。
色と二人並んで美術室への階段を上る。自分が財布を忘れたせいで俺たちを危険な目に遭わせたと思っているらしく、色は気持ちが悪いくらいに落ち込んでいた。なんともやりづらい。
「ごめんね」
部活動が軒並み昼休みに入っているせいか、真昼の校舎は妙に静かで、色の小さな謝罪すらやたらとはっきり響いた。さて、これは一体何回目のごめんだったか。僅か十数分の間に、彼女のごめんはすっかりインフレを起こしてしまっている。
「別にいいって、面倒くさい。謝り過ぎだ」
「だって、花ちゃんなんか、鞄、あんなにされちゃって」
切羽詰まった、下手をすると泣き出しかねない表情で色は訴える。なまじ泉が怒ったものだから、気にしているのだろう。
「縫ってやれ、どうせ元々手作りだ」
「私裁縫できない」
くぐもった声が返ってくる。
「家庭科でやったろうが」
「由稀にしてもらった」
「あぁ、そうだったかな」
我ながら、ずいぶんと甘やかしたものだ。もっとも、左右あわせて六本以上も指を刺してしまうような彼女だから、誰かが代わってやるほか仕方なかった。最初は普通に遠くの席で頑張っていたくせに、気がつくとすぐ隣でグズグズ言いながら絆創膏など巻いているのである。自分は優しい人間ではないけれど、それでもあの色を助けずにいられるほど薄情ではなかった。
そういう歴史が、二人の間にたくさん積み重なっている。必要とされている気がするからそばにいて、自分しかいないと思って世話を焼いた。歪な関係だと自覚しながら、それでも離れがたくて。気がつけば、かれこれ八年近く、同じようなことを繰り返している。
『また由稀が縫ってあげたら?』
ふさぎ込む一方の色を見かねたらしく、麻耶が助け舟を出してきた。確かに、このままでは埒があかない。じゃあもう俺が縫ってやるから、だから元気を出せと、言ってしまえば、きっとこの場は丸く収まる。だが、それでいいのだろうか。
麻耶が見せた、あの寂しげな顔を思い出す。彼女にだって、離れがたい、親しい相手がいたはずだ。なのに——。
「せっかくの機会だ、自分で縫ってみろよ」
告げて、美術室のドアを引く。立て付けの悪いドアは無闇に大きな音をたてて、俺の体を強張らせた。色は一歩遅れている。立ちすくんでいる気配が分かる。後ろから何やら麻耶が罵声を飛ばしていたが、気づかぬふりを決め込んで中に入った。
むせ返るような画材のにおいに目を細める。
室内では、一人の男子生徒が椅子に腰掛けカンバスに向かっていた。あのサイズはF80号くらいだろうか。S120号(約二メートル四方)はある色の『八月』に比べれば幾分小さいが、縦一メートル半ほどの割と大きめの作品だった。
「お帰りなさい、園村さん。画材は?」
男子生徒はゆったりとした動作でこちらを振り向き尋ねた。ボサボサの頭に、たれ目で少し鼻が大きい。よく見る顔なのだが、名前は思い出せなかった。確か、ここしばらくは部活を休んでいたはずだ。この部屋で会うのも久しぶりになる。
「いっぱい買い溜めしたから、お店の人が夕方運び込んどいてくれるってさ」
ぱっと両手をひらきながら低く答えると、色はパーティションの奥にある自分のスペースに消えた。今この瞬間になって俺は、先程ドアの前で色を振り返らなかったことを悔やんだ。彼女はどんな表情をしていただろうか。その意志を、感情の揺れを、俺はちゃんと向き合って、汲み取ってやるべきではなかったか。
「ああ、ちょっと色々あってな。泉とは途中で別れた」
視線を注がれていることに気がつき、補足を入れてやる。男子生徒は浅く頷き、すぐまたカンバスに向き直った。
今更考えても、遅いか。
もともと俺は色に会いに来たわけだが、さてこれからどうしたものだろう。どうも微妙な雰囲気になってしまった。背後を見やると、麻耶は小さく口を開き、呆然とした様子でただ一点、男子生徒の背中を凝視していた。
『ヤスヒロ』
本当に無意識だったのだろう。その名を呟いた麻耶は、零れ落ちた言葉に自分でハッとしたらしく、口元に手を当て、困ったように俺の方を見た。
そうだ、ヤスヒロだ。彼は確か菊池康浩という名前だった。歳は俺たちの一つ下で一年生。新入生の割に筋がよく、色もよく目をかけていたので、なんとか覚えていることができた。物静かな一方、肝のすわったところがある男で、愛想の無い俺にも自然に口をきいた。
そっと歩み寄り、菊池の作品を見る。今はちょうど、ローシェンナで下地を塗り終えたあたりだった。ぱっと見ただの茶色い板である。だが、目を凝らすとジェッソで作ったマチェールがぼんやりとわかった。その輪郭に、俺は一つの仮説を立てる。
「これ、モチーフは? 写真とか見ないのか」
「記憶していますから」
突然声をかけたにもかかわらず、菊池は驚いた風もなく、落ち着いた声で答えた。視線はカンバスから逸らさない。
『由稀、もう帰ろ』
麻耶の声が、それ以上の追求を遮った。怯える子供のような、弱く震える声だった。
彼女は既に、この世の人ではない。最初からわかっていたはずの事実を、多分ようやく、俺は正しく認識した。彼女が恐れているのはきっと、何も届けられない自分と、その自覚だ。
けれど、と、俺は思う。せめて、抱きしめるくらいのことはすればいいのに。例え相手に理解されなくても。俺のために料理を作り、泉や色のためにひったくりを掴んだ、白く、まだかろうじてこの世と繋がっているその手で、どうして。
目眩のような感覚がして、思考を止める。ひとまず部屋を出よう。
去り際、もう一度菊池の作品を見る。作者の熱意にもよるが、明日の夕方にはある程度の描き込みが済んでいるだろうと予想した。