5.heaven can wait
5.
校舎内のエアコンが停止したのは、五時を回ってすぐのことだった。窓を開けると、仄かに秋の香りがする涼やかな風が吹いた。
やがて、グラウンドから古臭いダンスミュージックが響いてきた。頃合いを見計らい、部屋の奥で帰り支度を始める。妙に感傷的な気分がして、何度も手が止まった。数分後パーティションから出ると、いつの間にか現れた一人の少女が、窓のサッシへ身を預け、秋風に目を細めていた。
「由稀、いたんだ」
戸惑いを含んだ声で、彼女は呟いた。
「出てきて大丈夫なのか。色」
「ん、平気。花ちゃんに、ちょっと用事があって。みんなの作品も、見ておきたかったし」
彼女は夏服の上に青味がかったグレーのサマーカーディガンを羽織っていた。いつもよりおっとりした口調から、まだ本調子ではないことが伺われた。
「ごめんね、由稀。昨日、お見舞いに来てくれたんだってね。私、眠っちゃってて、全然気づかなかった」
「あぁ。よだれ垂らして、ぐっすり寝てたからな」
「部屋に入ったの?」
「冗談だよ。秋仁さんと少し話して、すぐに帰った」
頬を膨らませる色は、いくらか顔色がマシになったように見えた。アリス先輩のことを教えると、彼女は一層元気が良くなった。
「先輩、大人っぽくなってた?」
「そりゃあ、三年ぶりに会えばな」
「私もそう、見えるかなぁ」
胸に手を当て、自信なさげに笑う色。確かに、彼女は昔からあまり変わっていないように思えた。けれど、それは——。
「そう言えば、展示を見に来てた他校の生徒が、色に会いたがってた」
「どうして?」
「さあな。握手とか、サインとか、写真とか?」
「結構、洒落にならないんだよね、それ。最近」
グラウンドを見下ろしながら、色は気だるげに話した。
「コンクールの授賞式とか行くと、よく頼まれるの。歳の近い女の子が多いんだけど。すっごく目がキラキラしててね。この人たちに私はどう見えてるんだろうって思うと、ちょっと怖い」
ヴァージニア・リール。手拍子。歓声。外から届く音はどれもやたらと陽気で、その分だけ、色の言葉が重く響いた。
「でも、邪険にはできないから。由則おじさんも、ファンは大事にしなさいって言うし」
そこで色は、ハッとしたように手で口を覆い、こちらの顔色を確かめた。こんな風に、俺には話せなかった悩みが、きっと他にもたくさんあるのだろう。彼女が変わらないように見えたのは、そうであって欲しいと、心のどこかで俺が望んでいたからだ。
「立派な先輩がいる部活に入れて、光栄だよ、俺は」
熱の残る頭には回りくどかったらしく、色はぽかんとして、説明を乞うように首をかしげた。そんな彼女に、俺は鞄から取り出した交換日記を差し出した。
「今学期から、俺も美術部に入る。色が画家になるのなら、俺は親父の仕事を継ぐ」
口で言うほど簡単な話ではないことくらい、承知の上だった。怯えもあるし、迷いも残る。けれど、そんな感情、色は幼い頃から何度も乗り越えてきたはずだった。
フォークダンスの曲目がグスタフス・スコールに変わる。色は俺の顔と交換日記を何度か見比べた後、慌てた仕草でカーディガンのポケットからキーケースを引っ張り出した。日記の南京錠を開こうとする彼女を、手を重ねることで留める。
「色。あのな」
「待って! ちょーっと待って! こっちにも、色々、予定があるから!」
俺の手を素早く振り払い、顔を真っ赤にする色。彼女は腕に提げていたトートバッグから、一回り小さい布製のバッグを取り出すと、それを俺に押し付けた。
「家で休んでる間、お母さんに教えてもらって作ったの。花ちゃんに、お詫びしようと思って。熱があったから、ちょっと目が荒いけど」
今度はこちらが驚かされる番だった。そのバッグは、泉が持っていたものにちゃんとそっくりで、細かい意匠や刺繍の出来に関してはむしろ上等なくらいだった。俺は思わず、彼女の指先に傷跡を探した。
「家庭科の時間も、余計な手出しなんて必要なかったかな」
バッグを返しながら自嘲まじりに言うと、色は緩やかに、優しく首を横に振った。
「あの頃は出来なかったの。だから、ありがとう。でも、今はもう大丈夫」
彼女は自慢げに両手を広げて見せた後、胸を張り、まっすぐに告げた。
「私、必ず画家になるよ。ずっと、由稀の傍にいたいの。一緒に大人になって、一緒に生きてゆきたい。私、多分、他の人と同じようにはやれないから。絶対、由稀にはたくさん迷惑かけると思う。ワガママ言うし、ヤキモチだって焼くよ。お母さんみたいに料理上手くないし、花ちゃんみたいな愛嬌もないし、加奈子ちゃんと違ってチビだし、アリス先輩みたいな立派な人にもなれないけど、それでも」
あまりに言い訳が多すぎて、悪いと思いながら、聴いていて笑みがこぼれた。本人も可笑しかったらしく、最後は眩しいくらいの笑顔で、色は言った。
「それでも、由稀が好きなの。あなたの人生を、私にください」
不器用な彼女の生き方を見るたび、もどかしさを感じた。同時に、胸を張って彼女と向き合えない自分へ、どうしようもなく腹が立った。そういう感情を全部、恋の一言で片付けられると知ったのは、つい最近のことだ。
「いいよ、全部やる」
口にした途端、ふっと、肩が軽くなったような気がした。次の瞬間、得体の知れない喪失感と、胸が空っぽになるような寂しさに襲われた。
堪らなくなって、色を抱きしめた。彼女は息を飲んで身を強張らせたが、やがて観念したように脱力した。
フォークダンスの曲が鳴り止むまで、俺は色を離さなかった。ようやく解放された彼女は、額にうっすら汗をかいていた。
「びっくりした」
手でパタパタと顔をあおぎ、落ち着きなく部屋をうろうろする姿は、見ていて愛らしかった。空いた隙間を埋めるようにして、色を愛おしく思う気持ちが胸に満ちた。
やがて、外ではキャンプファイヤーの準備が始まった。文化祭の総決算。模擬店の内装から手作り衣装まで、燃やして害のなさそうなものは片っ端から火にくべるという、近隣住民もびっくりの伝統行事だ。隠れ住むような坂の上の立地が幸いしてか、苦情が来たという話は今のところ聞いたことがない。
「私、この人知ってる」
不意に、やけに静かな声で、零れるように色が呟いた。彼女は写真部の展示プレートの前で、俺の作品を睨みつけていた。
「私ね、中学の頃、一番辛かった時に、この人が走ってるとこ、見たの。歯を食いしばって、苦しそうに走ってね、ゴールしたら、心底幸せそうに笑うの」
こちらを振り返った彼女は、ひどく痛切な顔をしていた。
「私、救われたんだ。ずっと、お礼を言いたかった。あなたのおかげで、由稀やみんなと、離れずにいられましたって。こんなに近くにいたなんて、どうして、もっと早く気付けなかったんだろう」
犬伏麻耶さん。と、噛みしめるように色は言った。それは、泉の新聞で記事になっていた、この夏事故で亡くなった生徒の名前だった。
「ねえ、この人、もういないの?」
縋るように問う彼女に、首を横に振って応えることしかできなかった。深く考えようとすると、頭に妙な靄がかかった。俺が撮った写真には、なぜかただ、自室のベッドが写っているだけだった。
「そっか」
心細そうな表情で色は頷いた。彼女は辿々しくこちらに歩み寄ると、俺の手を強く握った。
「キャンプファイヤー、見よう。私、あれ好き」
うちの学校の卒業生が母校の思い出を語るとき、必ず話題に上るのが文化祭の夜なのだという。行事に対して熱心ではない俺ですら、その気持ちはなんとなくわかる。夏の間に皆の作り上げてきたものが一瞬にして灰燼へ帰す様には、どこか宗教的な風情すらあった。
「私たちって、どんな大人になるんだろうね」
炎を遠く見つめながら、色が囁く。
「由稀は由則おじさんみたいになるのかな?」
「勘弁してくれ」
眉を寄せる俺に、色は明るい微笑みを向けた。二人で未来の話をできることが嬉しいのだろうと思った。自分も、そういう気持ちだったからだ。
窓から入り込む風はすっかり夜の温度だった。病身を案じて、「寒くないか」と尋ねると、「暑いくらい」と答え、色は俺に肩を預けた。
「将来、辛いことがあった時や、どうしようもなく何かに悩んだ時。私の前で、泣いたり、悩みを打ち明けたり、してくれる?」
「色が、そうして欲しいって言うならな」
「じゃあ、そうして。私も、そうする」
「幻滅してくれるなよ」
「大丈夫。愛してるもん」
眩暈を覚えるような、強烈な告白だった。危うく笑ってはぐらかしそうになったが、その幼稚な反応だけは懸命に抑えた。色は力強い瞳で、試すようにこちらを見上げていた。気の利いた台詞が何ひとつ浮かばず、本心をそのまま口にするしかなかった。
「俺もだよ」
それ以上はもう、色を直視していられなかった。夜風に煽られて、キャンプファイヤーは勢いを増してゆく。短い夏の日々が、煙となって消えていった。
『Missing』終




